3.
数日して、庵治がふたたびマンションを訪ねてきた。
「うまくいったよ。銀華の兄ちゃんは人がいいな。百合が、お店が潰れそうだと泣いたら、百万をぽんと出してきたらしい。そっちの首尾は?」
「難航してるね。もうすぐ二度目の連絡が来る」
巳影は胸ポケットから腕時計を取り出し、時刻を確認した。内部のギミックが露になっている腕時計は、もうすぐ十時を指そうとしていた。
「三千万で手を打てよ。欲張りすぎだ」
「まだ金が足りないのか?」
「金はあればあるほどいいのさ」
十時ちょうどに、スマートフォンが鳴った。コガネからだ。巳影はスピーカーモードで応じた。
「おはようございます、コガネおばさま。話、まとまりました?」
「一度、家に帰ってきなさい、巳影。話はそれからよ」
「取っ捕まるのに帰るわけがないでしょう」
「今なら不問にするわ。周りにもあなたたちの不在はごまかしているし」
「不問? 何を? 警察なんか動かせないでしょう? 人だけど人でないものを連れ出しているんだから。
通報なんかしたら、困るのはそっちだ。身元不明の女児を長期に渡って意図的に自宅に軟禁していたんですからね。
中身はどうであれ、世間は佐倉家の風習をいいふうには解釈はしないでしょう」
腹立たしげな沈黙があった。
「全財産か、それに相当する額をよこせなんて。無理よ。わかっているでしょう?
お父様は、全財産に代えても、那智を他へ渡すなと言い残しましたけれど、それはあくまで例えであって」
「そうですか? もし銀姉や銅音がだれかに誘拐されたら、あなた方はそうするんじゃないですか?
払えないなら払えないで、かまわないんです。那智のことは心配しないでください。俺が最後までちゃんと面倒見ますから。もう一切、こっちに手出しも口出しもしないでくれれば、それでいい」
「……巳影。あなた、まさか。最初からそれが目的で」
「払う気になったら連絡ください。それじゃあ」
巳影は一方的に通話を切った。庵治が眉根をよせる。
「……おい。まるで話し合いになってないぞ」
「三千万だっけ? それは俺が払うよ。だからこの件はなかったことにしてくれ」
巳影は小切手を書いた。
「そして今後一切、俺にもあの家にも近づくな。おまえとのやり取りは、全部、録音してある。恐喝未遂罪で警察と関わるのは嫌だろ? 叩けば埃の出てくる身の上なんだから」
「共犯のおまえも道連れだろ」
「あんたをムショに叩きこめるんだったら、多少のダメージは覚悟するよ。逮捕されたら、ついでにあんたの余罪を吐いてやる。
あんた、お仲間がいるんだろ? 佐倉不動産の詐欺は複数人だった。お仲間にも迷惑がかかるんじゃないかな?」
庵治は忌々しげにした。
リビングでは、那智が庵治たちに背をむけて、音楽を聴いていた。足に鎖はあるものの、ヘッドフォンをしている姿は左右に楽しげに揺れている。
「なんだ。結局俺は、おまえらのアイの逃避行を手助けさせられたってワケか?」
「たいした苦労もなく大金が手に入ったんだ。いいだろ」
まあな、と庵治は小切手を取った。ジャケットの内ポケットにしまう。
「ついでにさらに小遣い稼ぎしないか? 偽造パスポートが欲しい。土地売買の詐欺をやるくらいだ。ツテあるだろ?」
「なんてやつだ。人の骨までしゃぶりやがる」
いいながら、庵治は巳影の胸ポケットを指す。
「いい腕時計持ってるな。それと引き換えなら調達するよ」
「いいよ。気に入っていたけど。半分、投資で買い集めているようなものだし」
「パスポートは、あの子のか?」
庵治はあごでリビングにいる人質を示す。人質は音楽に没頭していて、二人のやりとりに露ほども関心を示さない。
「いざとなったら、海も渡って逃げようと思っているから」
「ご苦労さま」
理解できないというように、庵治は肩をすくめ、きびすを返した。
「那智、散歩でも行くか」
巳影に足枷を外されて、那智は怪訝にした。
「人質は外出していいのか」
「いいんだよ。もう」
那智は太陽のかがやく空を見上げた。
「まだ昼だぞ」
「キタリド様のしきたりなんて、守らなくていいんだよ。ここにはそんな風習も決まりごともないんだから。いつ、どこに行ったって、何をしたって、だれと話したっていいんだ。自由だ。思うままにしていい」
ヘッドフォンを置いて立ち上がっても、那智は当惑していた。黒いワンピースに着替え、コートを着ても、落ち着かない。巳影をじっとにらむ。
「……今度はどこかに置き去りにするんじゃないだろうな」
「そんなに心配なら、手を繋いでいればいいだろ?」
「そうだな」
那智は巳影の手を取った。故郷で散歩に出るとき、いつもそうしていたように。
「腕時計、変えてくる」
パスポートと引き換える約束をした腕時計はおいて、巳影はあらたに別の腕時計をポケットに収めた。
今度はアウトドア用の武骨な腕時計だ。ビジネス用からアウトドア用、ユニークなものまで、リビングの一角には多様な腕時計がケースにコレクションされている。
「巳影は腕時計が好きなのに、なんで腕にはめないんだ?」
「おまえの肌にひっかけて傷がついたら、痛いだろ」
当たり前のようにいって、巳影は玄関扉を開けた。遠くのビルに反射した陽光が二人を照らす。
「まぶしい」
「サングラスいるか?」
「そこまでじゃない」
「イヤーマフもマスクもあるから、いるようだったらいえよ」
エレベーターホールで、他の住人から端麗な顔を注視されると、那智は巳影の影に隠れた。相手に助けを求めようなどとは、考えもしない。
人質生活二日目で、那智はすでに巳影に白旗を上げていた。逃げようとさえしなければ、巳影はそれまで通りの生活を那智に与えた。逃げる必要性を感じなくなっていたのだ。
「そういえば、新しいスケッチブックが欲しいっていってたな」
「えんぴつもだぞ」
「近くに画材屋があるみたいだから、行ってみるか」
二人は二十分ほどかけて、住宅街を抜け、店屋の立ちならぶ大通りへ出た。
ビルの一角で、文具や画材を専門に売っている店に入る。紙や筆や絵の具など、数えきれないほどの商品がひしめく店内を見て、那智は大きな目をしばたかせた。
「なんだこれ! いっぱいある!」
「好きに選べよ。――ただし。店屋に入った時の決まりごとは、覚えてるよな?」
「やたらむやみと触らない。勝手にもって行かない」
よろしい、と巳影が手を離したので、那智は商品の陳列棚に飛びついた。たっぷり二時間かけて店内を回り、スケッチブックと鉛筆だけでなく、和紙と墨、筆、硯を選び取る。
「あの単調な色の部屋にいたら、水墨画をはじめたくなった」
新しいことに関心を持つのは、那智が心身ともに調子のよい証拠だ。巳影は快く商品をカゴに入れる。
「記念すべき一作目は?」
「タイトルは決まっている。『闇夜のカラス』だ」
「ここに完成品があるぞ」
巳影は黒い画用紙を突きつけた。
帰りは、行きとは違う道を通った。広い公園を横切る。樹木に囲まれた公園には、池もあり、鯉がゆうゆうと泳いでいた。
「……ブチや白雲たち、どうしてるかな」
那智は佐倉家の池に泳ぐ、白黒まだら模様の鯉や、紅白模様の鯉のことを口にした。池の鯉に餌をやるのは、那智の朝の日課だった。
「亀太郎も元気かな」
「弥生さんか、金吾おじさんが餌をやっていてくれているよ。帰りたい?」
「巳影も一緒か?」
「誘拐犯は無理だよ」
巳影は公園の向かいにある交番に顔をむけた。
「警察に駆けこめば、おまえだけはすぐ帰れると思うけど」
「行かない」
那智は交番に遠い出口を目指した。突然、樹木の影から出てきた手に、腕をつかまれる。
「――見つけたっ!」
那智は反射的に逃げかけたが、相手の正体に動きを止めた。
肩口で切りそろえられた髪に、銀縁フレームのメガネ。きりりとした美貌の女性は、見慣れた人物だ。佐倉家の長女にして、巳影の従姉、銀子である。
「銀姉。なんでここが」
「ヒイラギ様よ」
端的な返答に、巳影は額を押えた。
那智と同じキタリド様、ヒイラギ様は、未来を事細かに予期することができる。いつ、どこに二人が現れるか予見することも、不可能ではない。
「さすが。神様の目はあざむけないな」
「那智。大丈夫? ケガしてない?」
銀子は那智を、頭のてっぺんから足の先まで調べた。
「ひどいことをされてない?」
「ケガはしてない。手足に鎖をつけられたり、メイド服を着せられたりはした」
「このド変態」
銀子は従弟を軽蔑した。誤解だ、という弁解は無視する。
「無事でよかったわ、那智。一緒に帰りましょ。皆、心配してるわ」
「帰らないぞ。巳影と一緒にいる」
「どうして。ひどいことされたんでしょ?」
那智は口ごもった。一聞すれば変態行為でしかないことを、無理やり肯定する。
「さっきのは、べつに、その。ひどくない。そういう遊びだ。お互い合意だ。問題ない」
「巳影。あんた、那智になんてことを教えこんでいるのよ」
「那智、フォローになってない」
銀子は那智を連れて、じりじりと後ずさる。
「巳影。あんたも一緒に、家に帰るのよ」
「那智を離してくれ。代わりにこれ渡すから」
巳影はズボンのポケットから、庵治との会話を録音するのに使っていたICレコーダーを取り出した。
「これには、佐倉庵治が俺に誘拐と身代金要求を指示した一部始終が録音してある。また佐倉家にちょっかいを出したら、これを警察に届け出るといってあるから、そっちで預かっておいてよ」
「――あんた。まさかそれが目的で? 寝返ったふりしたの?」
巳影はうなずかなかった。目的はそれだけではなかったからだ。
「ここまでしたなら、帰ってきなさいよ。あんた自ら父親を告発するなら、あんたの身は潔白よ。また家守にもどれるわ」
「もどるかどうか決めるのは、那智だ。
那智、俺とここにいれば、おまえはもうなんでもできるよ。たとえば、今日みたいに、自分の興味がある場所に、自由に出かけて、自由に選ぶことができる」
巳影は画材屋の紙袋をかるく掲げた。
「でも、佐倉にもどればその自由はない。どうする?」
「那智は――」
「那智、帰るっていって!」
視線をさ迷わせる那智に、銀子が叫ぶ。巳影はICレコーダーを放った。
「銀姉、パス」
物を投げられた人間の条件反射で、銀子は思わずICレコーダーに注意をそらした。
その隙に、巳影は那智を奪って逃げた。ちょうど停まっていたタクシーに乗りこむ。
「巳影! 待ちなさい、コラ!」
「運転手さん、とりあえずまっすぐで」
バンバン車体を叩く女性を不審そうにしながらも、運転手はアクセルを踏んだ。ゆっくり車が動き出す。
「待ちなさいったら! 馬鹿! なんで――」
那智は後部座席からリアウィンドウをのぞき、遠ざかっていく銀子をながめた。
「なんで一人でこんなムチャしてんのよ! アホ!」
腹立ちのあまり、銀子はバッグを道路に叩きつけていた。
*****
公園で銀子と出くわしてから、二週間ほどが経過した。
あれから二人は、外出しても銀子と出くわすこともなく、佐倉家からなんらかの連絡が来ることもなく、平穏に暮らしていた。
那智は新しい生活に慣れて、今はリビングで水墨画に夢中だ。
ダイニングでノートパソコンを使いながら、巳影はたまにその様子をうかがう。自分のスマートフォンが鳴ると、表情をこわばらせた。相手が百合だとわかると、肩の力を抜く。
「那智、今日もそろそろ散歩に行こう」
那智は筆を置いた。時刻は十五時。新しくはじまった生活では、まだ陽のあるこの時間が、那智の散歩の時間だった。
「今日は百合さんの家に寄るけど、いいか?」
「いい。この時期は、昼間に散歩できると暖かくていいな」
「前は基本、いつでも夜だったから、冬は寒かったもんな」
昼間といえど、カレンダーは二月だ。空気は冷たい。風が吹くと、二人は身を縮めた。
「冷えるな。百合さんがあんこうをおすそ分けしてくれるっていうから、今夜はあんこう鍋に決まりだな」
「あんこうか。肝が楽しみだな。ポン酢を忘れないでくれ」
「わかってるよ」
巳影は口の端に笑みを浮かべて応じる。
「巳影は最近、楽しそうだな」
「そうか?」
「うん。巳影が楽しそうだから、那智も楽しいぞ」
巳影の腕に抱きついて、那智は道端のポスターに目を留めた。有名絵画の展覧会を知らせる、美術館のポスターだった。
「今度、観に行くか?」
「行く」
「いい返事だな。全国美術館巡りでもするか?」
「楽しそうだな」
「でもおまえ、連泊旅はぐったりしそうだし、飛行機とか船が平気かどうかもわからないからなあ。まずは二泊三日で旅行を試してみるか」
「うん」
うなずいて、那智はじっと巳影を見上げた。
「それで、巳影は。いつ家に帰るんだ?」
「帰りたい?」
「巳影が帰るなら」
「俺はおまえが帰りたいっていうなら、帰るよ」
巳影は那智を縁石の乗せた。さらに花壇に上がってようやく二人の視線は合う。
「銀子がな。この前会ったとき、泣いてたんだ。だから帰らないとダメだと思う」
「おまえはそれでいいの?」
「那智はな、巳影が笑っていてくれればいいし、銀子も笑っていてくれればいいんだ。那智は神様じゃないけど、皆が居て欲しいって思ってくれるなら、そこに居たいんだ」
「そっか」
両手を取って、巳影は那智を花壇から下した。受けとめた身体を、かるく抱きしめる。
「佐倉の家でおまえが本当に幸せだったなら、よかったよ」
百合の自宅は、自身が切り盛りしている店のビル内にある。訪ねていくと、玄関先で、百合と同年代の女性がもめていた。激しい口論というわけではなく、女性の方はひたすらに百合を心配していた。
「店長、本当に大丈夫ですか? 病院に行った方が」
「大丈夫っていっているでしょ。あなたはお店にもどって」
「顔色が悪いですよ。足をくじいただけっていいますけど、階段から落ちたんですから。念のため、検査した方がいいですよ」
「いいっていっているでしょ! お願いだから、私にかまわないで」
百合は乱暴に従業員を追い返した。巳影たちの姿に気づくと、はっと表情を改める。すぐれない顔色の中に、喜色を浮かべた。
「いらっしゃい。ごめんなさいね、来てもらって。足をくじいてしまって」
「それは全然。階段から落ちたんですか?」
「足を滑らせたんです。年ね。それより」
百合は手早く事故の話を打ち切り、右足をひきずりながら、奥の部屋へと入っていった。
暗い部屋だった。リビングダイニングだが、他の建物に邪魔されて、昼でも陽が入っていない。整理整頓された小奇麗な部屋なのに、テーブルの焦げ跡や、壁のへこみ、床のキズが、やけに目についた。
「これ、持って行って。あんこうの身もえらも皮も胃も肝も、全部そろっているから。まるごと楽しめるわ」
百合は冷蔵庫からあんこうを取り出して、保冷剤入りの発泡スチロールに詰めた。
「立派な身ですね。ご自分で取り寄せられたんですか?」
「この時季になると、港で働いている知人にお願いして、いつも送ってもらうの。庵治はこれが好きで。だからあなたに、ぜひ食べて欲しくて」
冷蔵庫にあんこうは、一式しかなかった。百合と庵治が食べる分が見当たらない。
「あなたのおじさんにお会いしたわ。本当にいい方ね。こんな怪しげな商売をやめたいと相談したら、私にその気があるなら、手伝うっていってくださったわ」
冷蔵庫の横に置かれた水の買い置きは、自店のものではなかった。大手メーカーのものだ。ごみ箱に捨てられているサプリメントの袋も、同様だ。
「庵治にいったの。一緒に、人生をやり直そうって。こんな職からは足を洗ってまっとうに暮らそうって。私がなにもかも面倒をみるからって」
「どうだったんです?」
冷蔵庫の扉にもたれて、百合は泣きそうな顔をした。
「急にいってもダメね。逆に叱られたわ。その年で今更、何ができるって。おまえの世話になんかならなくても、俺はとっくに一人でやっていけるんだって」
「……そのケガ、まさか」
「私がバランスを崩して、勝手に転んだのよ。あの人のせいじゃないわ」
「いつまであんなやつに付き合う気ですか?」
「あの人はかわいそうな人なのよ。家族も愛情も知らないの。理解できない。私がいなくなったら、きっともっとダメになってしまう。だから――」
興奮した百合の身体が、ぐらりと傾いた。フローリングの上に倒れこみ、動かなくなる。
「百合さん!」
意識がない。巳影は救急車を呼んだ。すぐに、今度は庵治に電話をかける。
「庵治、百合さんが倒れた。付き添いが必要になる。近くにいるなら、すぐこっちに来い」
切羽詰まった口調に対し、電話の向こうの庵治は悠長だった。
「おまえしといてくれよ。俺はおまえに頼まれたやつを取りに行くところだからさ」
「後でいい。そんな場合じゃないだろ」
剣呑な口調に対し、やはり庵治はのんびり答える。
「付き添って、俺に何かできるわけ? 倒れたなら、あとは医者の仕事だろ?」
「できなくても、そばにいてやろうって思わないのか」
「どうせもう別れるしなあ。ぶっちゃけ、どうなろうとかまわないんだよな。そのまま死なれても困らないし。むしろ保険金が降りてラッキー? みたいな?」
じゃ、と通話は気軽に切れる。巳影は絶句した。救急車の音が近づいてくる。
「……那智、しばらくここで待っていられるか?」
救急車で付き添えるのは一人だけだ。那智は小さくうなずいた。
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