5.

 正月三日目。入れ替わり立ち代わり来客があって、にぎやかな年始は終わりを迎えていた。あらかた来客が帰った後、座敷で、和葉が金吾に頭を下げた。


「いろいろご相談に乗ってくださって、ありがとうございました。親身にお話を聞いていただいたおかげで、とても気が楽になりました」


 陽太は、隅で那智と遊んでいた。二人は無言で、交互に路線図を描きあっている。陽太は基本的に無口で静かなので、那智は一緒に遊んでいられるのだった。


「キタリド様のお話はしなくて大丈夫ですか?」


 金吾の言葉に、和葉は苦笑いした。いりません、と首を横にふる。


「ミツクラ様がお怒りになられた後、陽太が初めてしゃべったんです。“ママ、大丈夫?” って。

 ようやく目が覚めました。私が間違っていました。成長の度合いなんて、人それぞれなんですよね。私、なんであんなに焦ってたんだろう」


 目元を押える和葉の背を、その父母がなでた。


「両親と話し合って、決めました。こっちに引っ越すって。夫はこないかもしれないけれど……私と陽太だけでも移住します。

 昔は、地元の雰囲気が苦手でした。近所づきあいが濃くて、閉鎖的で、息が詰まりそうだった。でも、今は返ってそれが気楽で。つねに見守ってもらえている気がするんです」


「時と場合によって、善し悪しって変わるからね。今の和葉さんに合っているなら、よかった。また陽太君を連れて、遊びに来てね」


 門を出ると、和葉の夫が待っていた。自宅から夜通し車を走らせてきたようで、疲れがにじんでいたが、表情は晴れやかだ。車には、ありったけの荷物が積まれている。一家はそろって帰っていった。


「見ろ、巳影。那智の勝ちだ。陽太はこの次の駅名は書けなかった」

「いや、陽太君の勝ち。陽太君の方が、学習能力がある」


 紙をはみ出し、壁にまで駅名を書いた那智に、巳影はチョップをくらわせた。


「那智、巳影、話があります」


 座敷に、コガネがやってきた。那智と巳影、コガネと金吾の四人で、座卓を囲む。


「今年から、わたくしが那智の家守となります」


 那智は脊髄反射で即答する。


「やだ」

「嫌だといっても、決まったことですから」

「やだやだやだ! なんでだ。なんで巳影じゃなくなるんだ!」

「巳影の話によると、巳影の父親、佐倉庵治はキタリド様を狙っているようですから。息子の巳影をあなたのそばにはおいておけません」


「巳影を信用してないのか」

「巳影のためです。もし巳影が家守をしている間に、あなたがさらわれるようなことがあれば、巳影が疑われてしまう」

「さらわれたって、巳影が助けに来るから大丈夫だ。那智は巳影を信じているぞ。なんで最後まで任せないんだ」


 那智の言い分を、コガネは痛そうにした。ともかく、と強引に話を勧める。


「巳影も、いいですね?」

「従います」


 巳影が唯々諾々と了承するので、那智はむくれた。金吾がフォローを入れる。


「那智、なにも永遠に巳影に会えないわけじゃないよ。巳影君にはもしもの時、変な疑いがかからないよう、家を出て生活してもらうけど、ここに帰省することはある」

「ほとぼりが冷めれば、また巳影を家守に戻すことも考えていますから、安心なさい」


 那智は甘えて巳影の身体にもたれた。納得できていないのは、表情から知れる。


「あれこれ残っている用事を済ませて、荷物をまとめてこちらへ越してくるのに、二週間くらいかしらね。巳影、あなたも、そのくらいで準備できるしょう?」

「荷物自体は一週間もあれば。引っ越し先がすぐ見つかるかどうかがネックですけど。銀姉に頼んでみます」


 話し合いはそれで終わりだった。コガネと金吾が居なくなると、さっそく銀子がやってきた。賃貸物件の資料を持ってくる。


「あんたって、損よね。巳影。気づいているでしょ? コガネおばさまは、あんたを警戒してる。だから家守から外すのよ。

 賢いから。できすぎるから。知りすぎなくらいにうちをよく知っているから、疑われる。隠し事があったなら、なおさら」


 那智の別人格を黙っていたことを、銀子は憤っていた。巳影の表情をうかがう。


「ねえ、巳影。もう隠していることはない?」

「どうしてそう思うの?」


 ない、といわない巳影に、銀子は唇をかるく噛んだ。


「あんたって、昔からそう。本音を言ってくれない。はぐらかす」


 銀子は肩をつかんで訴えた。


「何か私たちに言いたいことがあるなら、言って。あんたはもう、余所者じゃないのよ。あたしはあんたに、この家を継いでもらいたいって思っているくらいなんだから」

「それはないね。この家を継ぐのは、銀姉だ。おじさんみたいにそうやって、全員のことを思いやれる人が継ぐべきなんだよ」


 見苦しくないよう磨かれ、切りそろえられ、清潔感のある爪をした手を、巳影は外した。


「銀姉は、知らないんだね。二十歳になった時、俺はじいさまから財産を分与された。これがおまえの取り分だと。つまり、これ以上は望むなってことさ。

 金吾はおまえを実の息子のように扱うが、決して思い上がるなよと、クギを刺された。

 俺はあくまでこの家に、家守として雇われて居るだけの身だ。家を継ぐなんてとんでもない。俺はこの家の墓にも入らないことが決まっている」


 巳影は、自分の身体にもたれている那智の頭を抱いた。


「俺も那智と同じだ。キタリド。来たり人は他所者とも書くからね」


 しょぼくれている那智をうながして、巳影は腰を上げた。

 蔵に帰る途中で、那智は足を止めた。池のふちに座り込んでしまう。嗚咽が漏れた。

「ちゃんと、家に帰ってくるか?」


「帰ってくるよ。休みには会いに来るから 」

「ちゃんと、また家守にもどるか?」

「もどるよ。皆がいいっていってくれたら」


 那智は巳影にしがみついた。


「……那智も」


 つづきは、でない。自分も行くといいたいのだが、言えないのだ。


「おまえはこの家のキタリド様だもんな」

「守り神なら。なんで那智は巳影を助けられないんだ。なんでこの家の大事なことを決められないんだ。なんで」

「おまえのせいじゃない。おまえの力が足りなかったわけでも」


 那智の中に眠る万能の力を行使しないのは、巳影の個人的な都合だ。


「そんなに泣くなよ。コガネおばさんは、俺よりいい家守になるかもしれないぞ」

「コガネは巳影より着物のセンスいいしな」

「プロと比べるのはやめろ」


 コガネは着付け教室を開いているほど着物に詳しい。


「なあ、ずっと不思議だったんだけどさ。なんで、おまえ、俺にそんなになついてくれたの? 同世代からは何を考えてるか分からないって気味悪がられて、大人からは妙に冷めててかわいげがないっていわれてたのに」


 那智は首をひねった。


「……さあ? 巳影はうるさくなかったからじゃないか? 無口で物静かで周りに人を寄せつけない感じだったから、そばにいても全くうるさくならなくて、居心地がよかった」

「要約すると、陰気で根暗でさみしいやつだったから、と」


 そうそう、と那智はしなくていい肯定をする。


「俺の欠点が、おまえにとっては返ってよかったワケね」

「巳影は何で那智のこと、世界一、いや、宇宙一大好きになっちゃったんだ?」

「まだそこまで好きなんていってねえけど」


 ミツクラ様は今年も絶好調だ。


「じいさまに家守になれっていわれたときは、厄介事を押しつけられたんだって思ったけどさ。家守になったおかげで、安心もしたんだよ。俺はこの家に居ていいんだって。

 おまえは不器用で、一人では何もできなくて手間がかかったけれど、自分が必要とされているのが分かって、嬉しかった。俺が尽くした分だけ、いや、それ以上に、おまえも俺に返してくれた。家守なんかじゃなくたって、俺はおまえのそばにいたいと思ってる」


 巳影は那智の身体を抱えこんだ。


「好きだよ、那智。おまえのいう通り、宇宙一でいいよ。この世で一番大事だって思ってる。おまえのためなら、なんでもしてみせる」

「那智もだぞ。巳影のためになんでもするぞ。できるなら。気持ちはあるんだ。やる気だけはめちゃくちゃ。できるかどうかは別だけど」

「おまえの場合、気持ちだけで十分だから。本当に。実際にはしないでくれ」


 全知全能を公言する那智の別人格、ヤシロを恐れて、巳影は強調した。


「蔵に入れよ。身体冷えるぞ」

「巳影はさっそく引っ越しの準備をするのか?」

「そうだな。引っ越しとか――まあ、イロイロと」


 なにやら不敵に笑った巳影を見て、那智はむっとした。


「楽しそうだな。那智はこんなに悲しんでいるっていうのに」

「俺だって悲しいよ」


 那智にはまったくキモチがこもって聞こえなかった。


「巳影なんて絶交だ!」

「六回目。十回目には、絶交十回目記念パーティーでもやるか?」

「巳影のアホ!」


 那智はぴしゃりと蔵の戸を閉じた。


*****


 家守の交代が決まってから、那智はほとんど蔵にこもりきりだった。巳影の引っ越しの話題を聞いたり、様子を見るのが嫌だったからだ。


「富士山ベストビュースポット五十選か。ベストのベスト選が欲しいところだな」


 旅行雑誌をながめながら、那智は地図を引き寄せた。紹介されているビュースポットを、地図上にプロットする。趣味のエア旅行である。


「那智ー、そろそろ出かけるぞー」


 急に巳影いわれて、那智は怪訝にした。


「今日は出かける予定なんてなかったはずだぞ」

「いや、いっただろ。昨日。明日はコガネさんの家に行くぞって。

 俺は今日から、引っ越しの準備で家を空ける。その間、おまえのことをコガネさんの家に預けるって。確かにいった。おまえ、急な予定嫌がるから」


 那智はふくれた。


「……忘れたもん」

「今、思い出しただろ。絶対」


 巳影のいう通りである。那智の脳ミソは、予防接種や歯医者などの、自分に都合の悪いことは自動で頭の片隅に追いやる機能付きなのだ。優秀である。


「ほら、立って。着替えるぞ」

「二週間は巳影と一緒だと思ってたのに。実際は今日からコガネと一緒なんて」


 巳影は旅行雑誌を拾い上げた。


「那智、富士山、見たいのか?」

「あらゆる角度からあますことなく紹介されるくらい、皆に愛されている山だからな。富士山の無修正で赤裸々な姿を、那智も一度くらいはナマで拝みたい。前回、巳影と通りかかったとき、富士山はフルヌードじゃなかった」

「おまえが見たいのは山なんだよな?」


 巳影は思わず、旅行雑誌がピンク色な本でないことを確認した。


「見たいなら、支度しろよ。今日は天気がいい。コガネさんの家に行く途中、富士山がちゃんと見られるかもしれないぞ」


 緩慢な動作ながら、那智は立ち上がった。黒いワンピースに着替えさせられる。金吾からの捧げ物だ。ファー付きのコートや、もこもこのブーツも金吾だ。


「今日は洋服なのか」

「和服は目立つからなあ。町内では、むしろキタリド様と目立ってもらうために和服だけど。外では目立たないのが一番だからな」


 頭上に二つ、クマの耳のような小さなお団子を作ると、身支度は完了だ。巳影は大急ぎで荷物をまとめた。日記やペン、スケッチブックなどの那智のお気に入りの日用品を、猫柄の大きな風呂敷にまとめる。


「替えの服はいいのか?」

「もう送ってあるからいいよ。おっと、枕も必要だな」


 愛用の枕は風呂敷に入らなかったので、それは那智が抱えた。


「じゃあ、戸締りして」


 巳影は空になった二ノ蔵に、鍵をかけた。

 母屋の方は、すでに戸締りが済んでいた。住みこみ家政婦の弥生も、長期で旅行に出ているので、人のけはいがまるでない。

 常にだれかがいるのが当たり前だったので、那智は妙な感覚だった。


「なあ。巳影。本当に行くのか?」


 那智は強く枕を抱きしめた。初めてのことだった。だれかが家にいないので、外のだれかの家に行くというのは。


「金吾とか宮子とか、だれかこないのか?」

「皆、年明けで忙しいんだよ。銅音と二人で留守番するか?」


 那智は難色を示した。銅音に巳影の代わりは務まらない。他に道はないのだが、那智は籠の外に出るのをためらう飼い鳥のように、門前で躊躇する。


「大丈夫だよ。行こう」

「この間みたいに、ちょっとでも那智を一人にしないか?」

「しないよ」


 那智は手を取った。白く細い指を、長く骨ばった指がしっかりとつかんだ。

 屋敷と蔵のカギを、巳影はまとめて封筒に入れた。佐倉家のポストに放りこむ。


「巳影、持ってなくていいのか?」

「いいんだよ。もう、必要ない」


 那智は小首をかしげたが、手を引かれ、車に乗せられた。

 二人は車内から、屋敷をふり返った。


「行ってきます」

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