4.
那智が盃をかたむけた時、唐突に、ふすまが開け放たれた。和葉が鬼の形相で、我が子を叱りつける。
「ダメでしょ! 襖に落書きなんてしちゃ!」
陽太の足元には、駅の路線図がめいいっぱいに描かれた画用紙が落ちていた。襖を台に落書きをしていたら、紙が足りなくなって、襖にまではみ出たらしい。
「紙が足りなくなったなら、そういえばいいじゃない! なんでしゃべらないの? なんで人の話を聞いてくれないの? だからパパのおじいちゃんたちに、家に来ないでっていわれるのよ!」
「和葉さん、いいのよ。襖なんて大したことないから……」
コガネがたしなめていると、唐突に、和葉に盃がぶつけられた。
那智だ。陽太を押さえつける和葉に向かって、座布団を投げる。ヘッドフォンもつかむが、それは巳影に取り上げられた。
「那智、やめろ」
腕をつかむ手を、那智は乱暴にふり払った。銀子たちが慌てて、周りの物を遠ざける。
「那智、待てって」
再度、巳影が止めるが、那智は止まらない。邪魔する腕にかみつき、畳を這った。足を引きずるような四つん這いで動き、突然のことに動けないでいる和葉につかみかかる。
「あ――――――っ!」
「きゃあっ!」
「那智!」
巳影は那智の腰を抱え上げて、和葉から引きはなした。
「落ち着け。やめて欲しいことがことあるときは、言葉でいえばいいんだよ」
「うーあっ! うああああっ!」
那智は獣のように叫んで、暴れる。ひじや手が、巳影のわきや顔を打つ。
金吾が右手を押さえ、宮子が左手を押さえた。銀子が両頬をはさみ、顔をのぞきこむ。
「那智、どう、どう。久々の癇癪ね。ごめんね、あたしたちが寄ってたかって質問攻めにするから、パニックになってたのね。あたしの顔を見て。深呼吸よ。ほら、息を吸って」
銀子が落ち着いた声で語りかけるが、那智の様子は尋常でなかった。大きな黒い眼は異様に見開かれ、生気がない。うつろだ。牡丹や芍薬の似合う端整な顔が、見る影もない。すさんでいた。まるで別人だった。
「……一度、離してあげたほうがいいんじゃない? よけいに怯えてる気がするんだけど……」
銅音が遠巻きにしながらいう。
金吾と宮子は暴れないことを確認しながら手をはなし、巳影は腰をかかえる腕から徐々に力を抜いた。
奇妙なことに、那智の身体の位置は変わらなかった。巳影が力を抜いたのなら、畳につくはずの小さな足は、つかなかった。那智は宙に浮いていた。
「なんだぁ、これ」
座敷中にざわめきが起きた。しゃべる口を、遊ぶ手を、赤ら顔を醒めさせて、皆、宙を見上げる。座敷にあるグラスや皿、ビンや箸、カバンやカード、机など、人以外の物が、浮いていた。
「那智……?」
巳影が茫然と名前を呼ぶが、反応はない。
那智はだらりと足を下げた格好で、浮いている。うねる龍の身体が描かれている袂も、重力に逆らって持ち上がっていた。長い髪が水中にいるように、宙に広がる。
「キタリド様だ……」
だれかが震えながらつぶやいた。座敷の全員が唖然としている中、コガネは宙に浮いている灰皿をつかんだ。金吾は震える手であたりを探り、電気コードをつかむ。
「……」
突然、びくりと、那智の背がのけぞった。宙に浮いていた体は、糸が切れたように畳の上に落ちる。浮いていた物品も、重力に従って落ちた。
那智は畳の上にうつぶせて、ぴくりとも動かない。
「那智」
かがんだ巳影を、コガネが制した。
「待って、巳影。大人の、しかも男性では、また脅えるかもしれないわ」
目で命じられて、銅音がおそるおそる那智の肩に触った。
「……那智? ねえ。那智。大丈夫?」
那智はゆっくり目を開いた。起き上がり、無垢な瞳をしばたかせる。
「那智、いつの間に寝てたんだ?」
何一つ覚えていない様子に、全員が絶句した。
「あれ? 酒は? 飲んだのか?」
「一気に煽って、倒れたのよ。刺激が強すぎたのね」
コガネは灰皿を手放して、笑顔を作った。水を渡す。
「えー。あんな量じゃ酔わないのになあ」
「きっと体調がよくないんだよ。巳影、那智を蔵で休ませてあげて」
金吾も電気コードから手を離し、なんでもない顔で巳影にいいつけた。
さっきとは打って変わって、那智は大人しい。巳影に連れられて、蔵へと帰っていく。
「……よかった。何もなくて」
「ええ。あの場でだれかが死ぬようなことがあったら、キタリド様には元の場所にお帰りいただかなくてはいけなかったわ」
極度の緊張から解き放たれて、金吾はその場にへたり込み、コガネは壁にもたれかかった。銀子は顔を青ざめさせる。
「もう一人の那智に聞くのは、ナシね」
「私が会ったときは、あんな風じゃなかったわ。大人びた雰囲気で、まともで」
銅音が言い募るが、銀子は左右に手をふった。
「ナシよ。またあんな風になられたら、どうするのよ。手に終えないわ」
「……那智って、本物のキタリド様だったんだ」
銅音は自分で左肩を抱いた。
「別人格があるだけでも、驚きだったのにね。父さんは、別人格の那智は社会で暮らしていくのが難しいから奉るといっていたけれど、納得だよ」
金吾は腹の底から、大きく安堵の息を吐いた。座敷を見回し、ケガ人がいないことを確認する。
「お義父さま、とても那智に甘かったわね。那智を絶対怒らなかった。ただ甘やかしているんだと思っていたけれど……ひょっとして、こうなることのを恐れていたのかしら」
宮子は床に散らばっている品々を拾い上げた。金吾は暗い表情になる。
「那智は、子供が大人に叩かれているような場面に、なにかとても嫌な思い出があるんだろうな」
「さあ、みんな。動いて動いて。片付けて、仕切り直しよ」
コガネが手を叩くと、座敷の一同は我に返り、こぼれた酒や料理を片付けはじめた。
*****
蔵に帰ると、那智はすぐに横になった。ちょうど昼寝の時間だ。
「結局、別人格の話はどうなったんだ? 出なかったのか?」
「なくなったよ。そんなもの、ないんだから」
巳影は那智の身体に、掛け布団をかける。
「ないのか?」
「あったら、俺が知ってるはずだろ。クリスマス・イブの日、おまえはホテルから家に帰るまでの間、ずっと寝てたよ」
「そうか。……巳影がそういうなら、そうだな」
那智は拍子抜けしていた。
「ちょっと期待したのにな。那智が別人になって、大活躍とか。巳影のギワクも晴らして、那智が悪いやつも倒すんだ。えいやーって。手からビームとか出して」
「テレビの見すぎ。続きは夢でやりな」
「決め台詞は何がいいかなー」
「おやすみ」
枕もとのスタンドを消すと、那智はやがて寝息を立てはじめた。
巳影はしばらくそばに控えていたが、やがて立ち上がった。屏風の表へ出る。
「驚かせたな」
巳影は振り返った。金屏風の唐獅子二頭の、にらみを利かせるような眼と合う。
「ヒルコは足が不自由でな――実際には動くんだが、本人にはそうなんだ――代わりに、念じて物を動かすことができる」
「おまえ以外にもいたんだな」
「ヒルコは、この家に来てからは一度も表に出てきていないから、知らなくて当然だ」
人の起き上がるけはいがした。まだ話をする気があるということだ。
巳影は逡巡ののちに、思い切って口を開いた。拳を握る。
「あれがおまえの、その身体の本当の姿なのか? 人格の分離には、幼少期の虐待が影響しているって聞いたことがある。この家に来る前、那智は――」
「この身体に虐待の事実はない」
きっぱりとした否定だった。
「ヒルコはこの体にできた、最初の人格だ。
だが、それが本性かどうかは、おまえが自己をどう定義するかによる。
この体は類稀な感受性をもって生まれた。生まれた時から、自分と他人の境界が曖昧で、他人の感情を、他人の思い出を、さも自分のことのように感じ取ることができた。
ヒルコは、足が不自由で、虐待されていた過去を持つ男の子を、この体に再現した結果だ。大人に対して恐怖心を持っていて、言葉が覚えられないため、獣のように叫ぶ。
念力はこの身体ならではのオリジナルだが、借りものの特徴、思い出、性格、感性は、果たして自己と呼べるのだろうか?」
「……コピー、だろうな。不完全な」
巳影は握っていた拳を開いた。
「自己と他者を区別するために、私という人格が生まれた。八番目の代と書いて、八代(ヤシロ)という。金字が名付けた。
私は私こそ私だと思っていた。この身体に関するすべての正しい記憶を持っているし、すべての異能を扱える。全知全能の完璧な存在だ」
だが、とヤシロは続けた。
「私の後に、さらに那智という人格が生まれると、私は那智の意識がない間しか、表に出られなくなった。
那智は私たちを知らない。この家に来る前のことも何も覚えていない。
にもかかわらず、今や、この体を知る多くの人間にとって、那智こそがこの体の本来の姿になっている。私は私でなかったらしい」
最後の言葉には、自嘲が混じっていた。ヤシロの全能は、確立したはずの自我と引き換えだったのだ。
「死人が出なくてよかった。あやうく、コガネと金吾にあの世行きにされる所だった」
衣擦れの音がした。ヤシロはまた寝床に潜ったようだった。
「この身体が無くなったら、惜しんでくれるか? 巳影」
「死ぬまでおまえの骨を連れ歩くよ」
「忘れてくれなければ、それでいいんだが」
ヤシロは、かすかに声に出して笑った。
「蔵に鍵をかけておいてくれ。このまま明日まで寝る。皆を動揺させないよう、今日は外に出ない方がいいだろう」
「わかった。おやすみ」
巳影が電気を消すと、蔵は闇に包まれた。
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