3.
昼過ぎ。那智は座敷に顔を出した。喧騒を覚悟していたが、意外なことに人は少なかった。酔った親戚を介抱していた金吾が、すぐに那智に気づく。
「那智、どうしたんだい?」
那智は人指し指を見せた。ごく小さなトゲが刺さっている。
「これを抜いて欲しいんだね。ちょっと待ってね」
金吾は毛抜きを取ってきた。老眼が入ってきた視界に苦労しながら、とげを抜く。
「巳影は?」
「巳影は、うん。今、ちょっと、他ごとで忙しくてね。まだ用事があるのかな?」
翡翠の簪を差し出されると、金吾は頭をかいた。食器を下げに来た若い女子二人を、呼び寄せる。午前中、初詣に出かけようとして、コガネから小言を食らった二人だ。
「那智の髪を結ってもらえないかな?」
「えー。簪なんて使ったことないよお」
「結ぶだけでもいい?」
那智は二人の指を見た。ネイル用に整えられた爪は長く、地肌に触れると痛そうだ。首を横にふる。
「巳影にやってもらう」
「いいなあ。あたしもキタリド様になってみたい」
「ねー。巳影さんにお世話してもらいたーい」
座敷の隅で、子供の甲高い声が上がった。陽太だ。おもちゃを取られそうになり、激しく怒っていた。年下の子供を容赦なく叩くので、和葉が怒る。子供の大声も、女性の怒鳴り声も苦手な那智は、近くに放置されていたヘッドフォンをはめた。
「いいよね、キタリド様って。一から十まで、家守にお世話されてさ。学校にも行かなくていいし、働かなくてもいいし」
「いっぱい皆からお供えもらって、大事にされてさ。いいことばっかりだよね」
「そうでもないよ。キタリド様は恵まれた人なんかじゃない」
うらやましがる女の子たちを、金吾は諭した。那智がヘッドフォンから聞こえる音楽に夢中になっているのを確認してから、いう。
「君たち、隣町にある“さくら橋”って、知っている?」
「知ってますよ。桜の名所だからっていわれてるけど、本当は佐倉の家が橋を架けるのを手伝ったから、さくら橋って名前なんですよね?」
「そうだよ。人身御供を提供したんだ。
ここがまだ村と呼ばれ、三つの村が合併して町になる前の話。よそに嫁いだ佐倉の娘の家に、白羽の矢が立った。娘をあわれに思った母親は、本家に相談し、本家は当時のミツクラ様を代わりにやったんだ」
女子二人の顔からさっと血の気が引いた。
「だれもミツクラ様を惜しまなかったそうだ。
僕も聞いた話だけれど、当時のミツクラ様は、人の倫理が通じないお方だった。弱いものをいたぶるのが何より好きで、性格が歪んでいた。どんな説得も罰も通用しなかったから、村人全員一致で、その人をキタリド様として奉り上げ、蔵に押しこめた。
人身御供の話が来た時には、心底ほっとしたらしい。元々、そのミツクラ様が次にまた悪さをした時には、皆で、元の世界に送るつもりだったらしいから」
「元の世界に……送る?」
「この世ならぬ所からの来たり人。そんな人が帰る場所といえば、神の世界――どんなところか、予想はつくんじゃないかな?」
金吾は仏壇から転がり落ちていたミカンを、元の場所へもどした。
「キタリド様は守り神だから、守り神らしくないことをしたときは、神様でなくなる。悪い神様として退治される。自分たちの手を汚さずに済んで、返って助かったんだよ」
金吾はたれ気味の目に、憂いをたたえた。
「キタリド様になるのは、二種類の人間だ。一つ目は、鳥井家のヒイラギ様のように何かしら特殊な力を持っている人間。人にない力を持っていて、畏れ敬って奉る人々。
二つ目は、いざというとき、死んでもらってもいいと思われている人間。心身に障害を抱えていて、口減らしの際には、人柱や生贄という名目で犠牲にする人間。そこには、さっきのミツクラ様のように、ともに生活していくのがとても難しい人間も含まれる。後で呪ってくれるな、祟ってくれるなと、恐れながら奉る人々だ。
人でないものになるっていうのは、そういうことなんだ。崇め奉るということは、差別と同じ意味なんだよ」
金吾のすぐそばで、那智は音楽に夢中になっている。音のもたらす恍惚に身をゆだね、夢見るようにうっとりと、幸せそうに聞き惚れている。おそろしい事実が語られているすぐそばで、何も知らず、別世界にいる。
幸せそうに微笑んでいる那智から、女子二人は距離を取った。
「……今のミツクラ様は、どっちなんですか?」
「那智はね、僕も実際に見たわけじゃないけれど――」
どやどやと、座敷に人が帰ってきた。その中には、宮子をはじめとする本家の人間も混じっている。最後尾に姉の姿を見つけ、金吾は腰を浮かせた。
「姉さん、巳影の話は?」
「一応、巳影は無関係ということで話はついたけれど。巳影の話だけではね」
コガネは那智を見下ろした。注意を引くため、目の前で手を振る。
「なんだ、コガネ」
「那智。あなた、十二月二十四日は何をしていました?」
那智は怪訝にした。コガネだけでなく、今、座敷にもどってきた大人たち全員の視線を集めていることに気づき、委縮する。
「いったん、身内だけでお話しさせていただくわ」
コガネは外していた襖をはめた。区切られた仏間には、那智にコガネ、金吾、宮子、銀子、銅音、巳影と、七人だけになる。
「那智。実はね、方々に、こんな文書がばらまかれました」
那智の眼前に、パソコンで作成された一枚の文書が突きつけられた。
『佐倉巳影は犯罪者だ。
詐欺師の父親と一緒になって、ひそかに仕事をしている。
写真のホテルは父親が宿泊していたホテルであり、二人が接触している証拠である。
佐倉不動産会社が騙されたのも巳影のせいだ』
添付の写真には、巳影がホテルに入っていく姿が写っていた。ホテルの部屋へ入っていく写真もついている。
那智は文書と、コガネの隣にいる巳影とを、せわしなく見比べた。
「巳影、いつの間にだーくさいどに落ちたんだ!?」
「たった今、おまえの発言で闇堕ちが確定した」
「那智、真っ先に肯定しないで。あなたに否定してもらうために来ているのですから」
コガネはため息をついた。
今さっきまで、座敷に人が少なかったのは、皆が別室に集まっていたからだ。ばらまかれた怪文書を否定するために、巳影は大勢の前で無罪を証明していたのだ。
「巳影の説明によると、先月二十四日、巳影はあなたと一緒に仕事先へ出かけた。訪問先で、少し目を離したすきに、あなたが父親に連れ去られた。あなたを人質に、父親に呼び出されて、ホテルへ行った。ここまで、合っていますか?」
「……たぶん?」
那智は自信がなさそうにした。巳影を見る。たちまちコガネに顔の場所をもどされた。
「たぶん、では困ります。巳影の言い分が本当かどうか、確かめるために聞いているのですから。巳影に聞いては意味がないのです」
「那智。そういえばあなた、日記付けていたんじゃなかった? それを見てみたら?」
宮子が助け舟を出した。蔵から、日記を取ってくる。
「見させてもらうわよ。十二月二十四日は――ここね」
宮子が開いたページを、皆がのぞきこんだ。
『十二月二十四日
いろいろあって見たかった番組が見られなかった。お正月に一挙再放送があるらしいので、見逃さないこと。
夜はクリスマスパーティーをした。一人だけジュースだった。
銀子が赤いサンタ服を着ていた。パンツも赤かった。
昼間、巳影パパに出会った。ウィスキーをたくさん飲ませてくれた。楽しかった』
文章には、ピラニアとわかる上手なイラストが書き添えられていたが、ポイントはそこではない。簡潔すぎる日記に、全員が絶望した。宮子が頭を抱える。
「いろいろ……いろいろあってって。楽しかったって」
「那智、あんた、誘拐されたのよね?」
銀子がうろんげに口を挟んだ。
「ああ、うん。巳影パパに連れ去られた」
「それ、超大事よね!? あたしの下着の色より印象に残ることよね!? 普通!」
銀子は那智の両肩をつかんで、揺さぶった。
「二十四日のことを、もっと事細かに教えて。思い出して。
巳影と仕事先へ出かけたのよね? それで? どうやって連れ去られたの?」
那智はうんうん、頭を悩ませた。
「がんばって。巳影の人生がかかってるのよ」
「巳影の仕事先に一緒に連れていかれて……で、もう帰れると思ったら、巳影がケーキを買いに行くっていうから。那智は早く帰りたくて外に出て、知らない男に声をかけられて。
家に送って行ってあげるっていうから、車に乗って。途中で巳影から電話がかかってきて、知らない人が巳影パパだってわかって。
なんかホテルに連れていかれて。巳影が来るのを一緒に待ってて。その間にお酒を飲ませてもらって。眠たくなって、寝た。起きたら蔵だった」
那智の一生懸命な説明にも、皆、絶望した。
「知らない男の車に乗るって……」
「誘拐されている最中にお酒飲んで寝るって……」
那智の危機管理能力には多大な問題があったが、コガネはひとまず話を進めた。
「巳影と、巳影の父親――佐倉庵治が何を話していたかは? 覚えていますか?」
「全然。巳影が来る前に寝た」
「巳影は、キタリド様のことを詳しく話すよう要求されたといっています。夢うつつにでも、何か覚えていませんか?」
那智はやはり知らない、と答えた。納得しないのは銅音だ。
「少しは覚えているでしょ? だって、帰ってきて、私と話したじゃない。あんなにはっきり。蔵にだって、自分で歩いて行ったじゃない」
銅音の証言に、コガネが二重幅の大きな目を見開いた。
「銅音、それは本当ですか? 巳影も那智も、ホテルから家に帰るまでの間、寝ているといっていますが。銅音は、話したのですか?」
「話したわ。確かに。証拠だってある。どうして嘘をつくの? 何を隠してるのよ」
那智はやはり、困った時のくせで、目で巳影に助けを求める。
巳影の指示で隠しているのかと危ぶんで、コガネがきびしい口調になった。
「那智。隠していることがあるなら、いいなさい。隠し事は巳影のためになりませんよ」
「隠してない。嘘なんてついてない。那智は何も覚えてない!」
泣き出しそうな那智を、金吾がかばった。
「二人とも、決めつけは良くないよ。酔っていて記憶がないっていうのは、ある話じゃないか」
「そもそも、酔ってたっていうのも、怪しいもん。私と話した時、すごいしっかりしていたんだから。普段よりよっぽど。別人って感じ」
娘の言い分に、金吾は何かに気づいた顔をした。那智ではなく、巳影の方を問い正す。
「巳影。本当に那智は寝ていたの?」
「……」
沈黙を守る巳影に、金吾が神妙な顔つきになった。
「姉さんは、那智がキタリド様になった理由を知ってる?」
「――ええ。今の今まで忘れていたけれど。
そういえば、那智にはちょっとばかり抜けていて、ちょっとばかり自由すぎるから、というだけではない理由があったわね」
「その理由が本当か、疑っていたけど。あれが本当なら、銅音の話はつじつまが合う」
宮子がじれて尋ねた。
「何よ、理由って。銅音の話と、どんな関係があるの?」
「じつは那智には、本人も知らない、別の人格があるらしいんだよ」
宮子も銀子も、銅音も目を見張った。
「僕は会ったことはない。父さんは会ったことがあるけど。父さんは別人格の那智を、ヤシロと呼んでいた。その人格が出現していたんじゃないか?」
金吾は今一度、巳影を見たが、巳影は沈黙を守るばかりだ。
「巳影、あんたは会ったことがあるんじゃないの? 那智の家守なんだから。ずっとそばにいたんだから、知らないわけがないわよね」
銀子の問いかけにも、巳影は答えない。銀子は胸倉をつかむ勢いで詰め寄った。
「どうして黙ってるのよ! なんで隠すの? あんたの危機でしょ!?」
「銀子、やめなさい。ともかく、もう一人の那智に聞いてみればわかることだ」
金吾は腕組みをして考えこんだ。銀子に隣の座敷からお酒を持ってこさせる。
「別の那智に会うには、どうするのが正解か知らないけれど。とりあえず、酔わせてみようか。さらわれたとき、那智は酔って寝ていたらしいからね。同じ状態にしてみよう」
金吾は大きな盃に、酒をなみなみと満たした。
「……飲んでいいのか?」
「未成年だから、本当はよくないけれどね。今日は特別だ」
那智は朱色の盃を、両手で持った。巳影をうかがう。
感情のとぼしい顔だが、悲しげだ。那智は、自分が盃をあおることを、巳影が望んでいないことが分かった。
「キタリド様、飲んで。みか君のためだよ」
銅音が急かす。那智はゆっくりと盃に紅唇を近づけた。
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