5.


 勢いよく扉を開けた巳影は、ベッドにうつぶせている那智を見て、血相を変えた。


「何した!」

「落ち着けよ。無事だよ。酔って寝てるだけだよ」


 庵治は那智の顔にかかっている髪をなで上げた。規則正しい寝息が聞こえる。


「未成年に飲ませるなよ」

「べつにいいじゃん。おまえだって、五歳の時には飲んでたろ」


「あんたが飲ませたからな。そのことで母さんと喧嘩したことも忘れたのか。子供の俺に恐喝のための証拠写真撮りとか、怪しげな物の運搬の手伝いもさせて」


「仕事の後には、うまいもん食わせてやったろ? 小遣いもやった。おまえだって喜んでた。子供っていいよな。相手が無条件で油断してくれる」


「あんたに育てられなくて本っ当によかったよ」


 巳影が心底、嫌悪をあらわにすると、庵治はため息をついた。


「まったく。本当。子供とか。家庭ってやつは。面倒だな。一度でたくさんだ」


 巳影は、ごみ箱からはみ出ている熨斗紙に目を留めた。

 ウィスキーボトルの箱につけられていた熨斗紙だ。送り主は『玉垣健司』。佐倉不動産の副社長だ。


「ひょっとして、玉垣さんにキタリド様の名づけの話をしたの、あんたか?」


「したなあ。孫が生まれるっていうから。おまえが生まれるとき、銀華(ぎんか)がそんな話をしていたのを思い出したんだ。

 佐倉に引き取られてから、おまえは名前をもらったりしたのか?」


 巳影は庵治をにらみつけた。


「俺を、何の用で呼び出した」

「キタリド様だよ」


 巳影の表情がこわばった。ベッドの上の那智を意識する。


「キタリド様の詳しい話が聞ければ、おまえの年下の叔母さんも返してやるよ。

 おもしろいな、この子。根っからの箱入りのお嬢さんだ。おまえのこと、大好きだって。かわいいね」


 巳影は相手に気づかれないよう、そっと身体の力を抜いた。

 庵治は、まさかすぐそばで寝ている相手が当のキタリド様とは、夢にも思っていなかった。


「知らないよ、キタリド様なんて。単語くらいは聞いたことあるけど、俺はあんたの子供。他所者だからな。大事なことは教えてもらえない」


「じゃ、調べてきてくれよ。おまえ、本家に住んでいるんだから、何もわからないってことはないだろう?」


 庵治は、人質の長い黒髪を指先で梳いた。危機感をあおるように。


「実は、おまえがホテルに来た写真を人に撮らせている。詐欺師の父親と会っている写真をばらまかれて、周りからヘンな疑惑を買いたくなきゃ、協力しろよ」


「協力したらしたで、今度は協力ネタで脅す気だろ」

「一応、これでも、仕事では信頼関係を重んじてるぜ?」


 庵治は長い足を悠然と組んだ。


「銀華の話だと、キタリド様ってのは、佐倉の守り神で、まわりと一線を画した扱いを受けるらしいな」


「らしいね。俺もそのくらいは、俺も母さんから聞いている」


「銀華の話を聞いていて思ったんだけどよ。


 一族の中にいる風変わりな人間を生き神として崇めたてまるつ風習ってさ、いいかえれば、世間から体よく障害者を隠しておくための風習なんじゃないのか?


 キタリド様は、心身になんらかの障害を持っているやつで、一線を画した扱いってのは、私宅監置と同じ意味なんじゃないのか?」


 庵治は自分のグラスに、残りのウィスキーをすべて注いだ。


「今朝、玉垣にキタリド様に会えたかどうか聞いたが、にごされた。おつきの社員が、率先して話を逸らしたほどだ。


 そうなってくると、ますます怪しいじゃないか。キタリド様のことを、地元の人間は余所者に隠そうとする。なにか後ろ暗いところがあるからじゃないのか?


 佐倉家が長年にわたって、障害者に対して不当な扱いをしてきたと世間にばらすといったら、佐倉家はいくら出すかな?」


 険しい顔つきになった巳影に、庵治は口だけで笑んだ。やっぱり知っているんだな、と目が確信の色を帯びる。


「俺が名乗っている、佐倉庵治って名前な。人から買ったものなんだ。

 俺には本名がない。母親が離婚してすぐ再婚した関係で、戸籍が作られなかった」


 前夫の子供になることを避けて、出生届が出されなかったのだ。

 離婚後三百日以内に生まれた子供は、たとえそうでなくとも、原則として前夫が父とされてしまう。


「あんたが本当は無戸籍って話、でたらめじゃなかったのか。母さんから聞いてはいたけど、本当に結婚しないための方便だと思ってた」


「戸籍がないってのは、不便だよ。

 俺は兄弟の中で一人だけ学校に通えなかった。不登校になった一つ下の弟に成り代わって、学校に通う始末さ。

 結局、素行不良で中退したけどな。家も追い出された。


 職に就こうにも、住所不定の身元不明じゃ、ろくな仕事に付けない。銀行に口座も作れないから、できる仕事も限られる」


 庵治は過去を飲み下すように、グラスの酒を一気にあおった。


「苦労している俺を見て、戸籍を買わないかと持ちかけてきたのが、本物の佐倉庵治の父親だ。ここではない県で出会った。仕事の関係で移住していたみたいだな。


 一家に病人を抱えていたこともあって、父親は金に困っていた。

 庵治のことはずっと自宅で育ててきたし、これからもそうするので、戸籍はいらない、お金に代えたいといったんだ。

 で、俺はまとまった額の現金を渡して、戸籍を譲り受けた。


 お金を渡す際に、俺は本物の佐倉庵治に会った。

 当時二十二歳。ちょうど俺と同じぐらいの年だったけど、図体がでかいばかりで、中身はさっぱりだった。


 被害妄想がひどく、一度かんしゃくを起すと、手がつけられないほど暴れ、両親は子供を持て余していた。母親は、右腕を骨折までしていたよ。


 帰り際にな。父親がいったんだよ。ぽつりと。――故郷の親のいっていた通り、キタリド様にしておけばよかったって」


 酒のないグラスが揺らされる。氷が鳴った。


「その時は意味がわからなかったが、銀華からキタリド様の話を聞いた時に理解した。

 佐倉家のキタリド様とは、世間から体よく障害者を隠しておくための手段なんだって」


 庵治の目が、抜け目なく光る。


「生き神様か。本物の庵治は、どうなったんだろうな。

 あの後、一家はどこかへ越していったけどよ。故郷で神様になったのかな。

 巳影、知らないか?」


「脅迫なんてやめとけ。へたすると、町ぐるみでおまえの抹殺を図るぞ」


「はは。やっぱりヤバいんだな。

 んじゃまあ、大事な生き神様をさらって、身代金要求がいいかな? 後ろ暗いところがあるなら、向こうは警察沙汰にできない。

 キタリド様ってどんな顔してんだ?」


「……写真見せてやろうか?」


 巳影がスマートフォンを取り出すと、庵治はベッドをはなれた。

 無防備に、画面をのぞきこむ。何もない、暗いだけの画面を。


 作り出した絶好の機会を、巳影は逃さなかった。

 庵治を殴りつけ、蹴りつける。脳震盪を起こしてふらついたその背に、馬乗りになる。


「このクズ。今度こそ警察に突き出してやる」

「やめておけ。時間がない」


 涼やかな声音が、巳影の激昂に水を差した。那智だ。


 ベッドで眠りこんでいたはずだが、起き上がっていた。

 表情は冴えている。白い面に酔った跡はなく、表情は大人びていた。つい数分前まで見せていた、幼児のようなあどけなさや無防備さは皆無だ。


「……やっぱり出たか」

「出た、とはなんだ。人を幽霊のようにいうな」


 那智は酒を飲むと、人格が豹変し、神様らしくなる特異体質だった。

 那智自身は豹変している間のことを覚えていないので、今の那智はまったく別の人格である。


「もうすぐ、その男の仲間がくる。ヤクザまがいの連中だ。相手にまわすと面倒だ」


 まあ、とミツクラ様は余裕たっぷりに付け加える。


「私にとっては、物の数ではないが。どうする? 現実的な手法としては、全員眠らせる、全員自首させる、全員骨折させるあたりか」

「おまえの現実って何なの?」


 庵治のことはあきらめ、巳影はミツクラ様を連れて部屋を出た。

 だれか上がってくる気配がするエレベーターは避けて、階段で地上へ降りる。駐車場に停めてある自分の車に乗りこんだ。


「出発しないのか?」


 シートベルトを締めてもなかなか出発しないので、ミツクラ様は問うた。


「……今のままで戻ったら、大混乱だろ。銀姉や銅音は、別人格の那智を知らないんだから」

「おまえ。私の方が本当の姿だとは思わないのか?」


 巳影は虚を突かれた表情になったが、肯定はしなかった。落ち着かなさげに、ハンドルをなでる。


「今、那智の意識は眠っている。私が体を明け渡したら、意識のない体を介抱するはめになるが、それでもいいか?」

「……帰ってからで頼む」

「だろうな」


 ようやく車のエンジンがかかった。車体は休日でごった返す通りに出る。


 しばらくして、巳影のスマートフォンに着信があった。

 運転中の巳影に代わって、那智がスマートフォンを操作する。

 スピーカーモードにして、巳影の声が届く場所で持つという、普段の那智にはできない気遣いと操作をした。


『巳影? 帰りが遅いけど、大丈夫? 那智を連れて出て行ったんでしょ。那智とはぐれたり、何かトラブルが起きたりしてる?』


「トラブルは起きたけど、一応解決して、今、帰っているところだよ。


 ――そうだ、銀姉。玉垣副社長のことだけど。気をつけた方がいいかも。

 俺の父親が、副社長に接触してた。何か詐欺か恐喝に遭っているかも」


「詐欺だ。都心の土地購入の件は取りやめろ」


 小声で、那智が口をはさむ。巳影が言い直した。


「昨日、銀姉が愚痴をこぼしていた件。都心に土地を買うのに、副社長が主体になって動いてるっていってた件。あれ、絶対調べて。怪しいから」


「地主がニセモノだ」


「地主があやしい。なりすましているかもしれないから、取引先が連れてきた地主の写真をもって、近所に本人かどうか聞き込みしてみて」


 あまりに具体的な指示に、銀子が不審そうにした。


『巳影、本気でいってる? 冗談でなく』

「本気だよ。那智のサンタ服姿を賭けてもいい」

『メイド服もよ。今すぐ調べるわ!』


 意気揚々と、銀子は通話を切った。


「……外さないよな?」

「ふん。外したら、バニーガールだってやってやる」


 ミツクラ様は愚問とばかりに請け負った。実際にやるのは那智だが。


「――しまった。ケーキを買うのを忘れていた」

「ケーキはいらんぞ。夕方、金吾からクリスマスケーキが届く。サプライズで」


「なるほど。二つはいらないな。なら、代わりにスーパー寄って、シャンパンでも仕入れておくか」

「祝杯になるから、とびきりいいのを仕入れておけ」


 スーパーに寄って帰宅すると、銀子の車はなかった。さっそく確かめに行ったようだ。車を降りて、ミツクラ様は家守に命じる。


「蔵に寝床を用意しておいてくれ。寝る」

「水かなにか、飲むか? 酒を飲んだならのどが渇いているだろ」

「いい。自分で行く」


 台所では、弥生が忙しくごちそうの仕込みをしていた。

 那智の姿に、意外そうにする。那智の台所にかかわる用事は、家守の巳影が果たすので、自身で来ることはほぼないからだ。


「弥生、水くれ。酒を飲んだせいで、のどが乾いてるんだ」

「……お酒、を?」

「意識が無くなるくらいに」


 その一言で、弥生はすべてを了解した。弥生は昔、別人格の那智に助けられていた。

冷蔵庫からミネラルウォーターを取り出し、大きめのグラスに注ぐ。


「旅行に行くのか」


 ミツクラ様は、台所の隅に置かれた旅行のパンフレットを手に取った。


「お正月が終わったら、お休みをいただけるので、行ってみようかと。

 でも、なかなか行先が決められなくて」


「本当は故郷に帰りたいんだろう。帰って大丈夫だぞ。おまえの元夫は、よそへ引っ越している。楽しい帰省になると保証する」


「さすが。なんでもご存知ですね。安心して帰れます、ミツクラ様」

「いつもうまい飯を作ってもらっているからな。クリスマスプレゼントだ」

「今夜は張り切ります」


 台所を出ると、ミツクラ様は居間へ寄った。

 たもとから、星の飾りを取り出す。クリスマスツリーのてっぺんに載せた。


「最後の星。キタリド様が持ってたんだ」


 居間でスマートフォンをいじっていた銅音が、顔を上げた。

 那智がやりかけだった飾りつけは、銅音がやっていた。探して回って損した、と不平を漏らす。


「銅音、今、おまえが買うのをあきらめたワンピース。実店舗でなら買えるぞ」

「え?」

「駅前の店舗にある。今は取り置きされているが、明日には買える」


 ぽかんとしている銅音を置いて、ミツクラ様は蔵へ向かった。

 寝る準備は万端だ。金屏風の奥にはふとんが延べられ、部屋は適度に温められ、加湿器で湿度も調整されている。


「袷、脱ぐのか?」


 巳影が手出しするまでもなかった。ミツクラ様は手早く帯と袷を脱いだ。自分で腰紐をゆるめて、ふとんにもぐる。


「やれやれ。ヒイラギのいった通りになったな」

「そうか。昨日のヒイラギ様の動揺ぶり。那智の明日を見て、今のおまえを“視た”からだったのか」

「下がっていい。寝ている間は、蔵に鍵をかけておいてくれ。おやすみ」


 着物と帯を衣桁にかけると、巳影は一礼し、蔵を出て行った。


*****


 とっぷり日が暮れてから、銀子が本家に帰ってきた。

 調べた結果を、興奮ぎみに巳影に語る。


「ドンピシャよ、巳影。地主がニセモノだったわ。あやうく騙されるところだったわよ」

「間に合ってよかったよ」

「これで副社長は、これからパパに大きな顔はできないわ。ありがとう、巳影。何よりのクリスマスプレゼントよ!」


 銀子はバンバンと巳影の背中を叩いた。


「パパ、サプライズで、本家宛にケーキを手配したっていっていたんだけど、届いた?」

「この通り。俺がケーキ買い忘れたから、ちょうどよかったよ」


 テーブルには有名パティスリーのブッシュ・ド・ノエルが鎮座していた。

 ローストチキンやサラダ、シチューやパン、チーズやクラッカーなどの料理もそろっている。


「すごい。スパークリングじゃない、本物のシャンパンまであるじゃない!」

「買い忘れたケーキの代わりにね」


 弥生と銅音が、台所から前菜とシャンパングラスを運んできた。


「もうお腹ぺこぺこ。銀子お姉ちゃんも帰ってきたし。乾杯しよ」

「待った。まだ一人そろってないわよ」

「那智、起こしてくるよ」


 巳影は二ノ蔵のカギを手に、庭を出た。

 扉を開き、鬼が出るか蛇が出るかという、無明無音の闇に向かって、慎重に呼びかける。


「那智、起きてるか?」

「……巳影パパと酒を飲む夢を見た」


 寝ぼけた調子の声音は、那智のものだ。巳影はほっとして電気をつけた。


「夢じゃないよ。おまえ、俺の父親に連れ去られたんだよ」

「あれは現実だったのか。じゃあ那智は本当にユーカイされてたのか」

「そうだよ。ごめんな。怖い思いさせて」


 那智を立ち上がらせて、巳影は寝乱れている着物を直した。袷や帯を手際よく着つけていく。


「巳影パパ、どうなったんだ?」

「殴りつけて気絶させた。警察突き出してやろうと思ったけど、時間オーバーで断念」

「……全然覚えてないな」

「おまえ、酔って寝ていたからな」


 着付けが終わると、巳影は髪に櫛を入れた。食事の邪魔にならないようにまとめる。


「おまえが危ない目に遭ったのは俺のせいだけど。

 那智、おまえな。誘拐されているときに、のんきに酒なんて飲むなよ。もう少し危機感もてよ」


「巳影パパは、巳影に似てたんだ。だからなんか、他人に思えなくて」

「他人だよ。犯罪者だよ」


「じきに巳影が来るっていってたし。大丈夫だと思って」

「万一、俺が行けなかったらどうするんだ。駆けつけたとして、俺がおまえを無事に救出できるとは限らないんだぞ」


「巳影なら絶対来るし、絶対なんとかする。巳影は那智より器用だし強いし頭いいし。とにかく、なんでもできるからな!」


 一ミリのためらいもなく全幅の信頼をおかれては、家守の回答は限られた。


「ハイ。絶対行きます。行かせて頂きます。あらゆる手段を講じてなんとかします」


 けなげに応じた巳影の頬に、那智の小さな唇が押しつけられた。


「巳影。ん」


 キスの後、那智は巳影の顔に、自分の手を近づけた。

 ぐいぐいと頬に手を押しつけ、何かをアピールする。


「何?」

「那智がほっぺにちゅーしたら、巳影は手にちゅーしてくれるんだろう?」

「いつ決まったの? それ」


 巳影は勝手な不文律に抗議したが、


「巳影パパに手にちゅーされた感触が嫌。上書きする」

「……あの女たらし。手が早すぎだろ」


 父親の尻拭いのために要求に応じた。


「他は? なにもされなかったか?」

「なにも。巳影の代わりに頬にキスしてあげようかといわれたが、断った」

「今度会ったときは、警察に突き出さず海に沈めることにする」


 那智が驚かないよう、巳影はゆっくりとその体を抱きしめた。


「抱き締められはしなかったぞ」

「そりゃよかった。海に沈める前に、小間切れにする工程は省略するよ」


 白い頬にそっとキスをして、巳影は那智をはなした。

 身支度は完了している。那智の手を引いて、蔵を出た。


「夕飯の時間だ。今夜はごちそうだぞ」

「クリスマスだもんな」


 数分後、母屋に家人が勢ぞろいすると、乾杯の音がひびいた。


「メリークリスマス!」

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