4.
翌朝、クリスマス・イブ。
那智が居間でクリスマスツリーを飾りつけていると、二階から巳影が降りてきた。
私服姿ではなく、スーツ姿だ。台所をのぞいて、首をひねる。
「あれ? 弥生さんは?」
「さっき、食材を買いにいったぞ。銀子と。昼前に戻るって」
「げ。銀姉もいないのか。俺、今日はお客さんのところへ定期訪問に出かけるから、弥生さんに那智のこと頼んでおいたのに」
巳影は家守をするかたわら、税理士をしていた。
「弥生も気にしていたが、銀子が、九時に銅音がくるから大丈夫っていってたぞ」
「九時って。もう過ぎてるけど」
巳影は胸ポケットから、腕時計を取り出した。
先端に、月のような円がついた特徴的な針は、そろそろ九時半を指そうとしている。
スマートフォンが鳴る。通知の内容を確認し、巳影はため息をついた。
「銅音、寝坊して遅れるって。参ったな。おまえを見るやつがいない」
「那智は一人で留守番できるぞ。もう十七だぞ」
「そうだなあ。ほんの二、三時間の話だし」
「そうそう。台風の夜だって大丈夫だったじゃないか」
巳影の脳裏に、めちゃくちゃになった台所の光景が蘇った。全く大丈夫でない。
「蔵に入れていくか?」
「おまえ自身の都合ならまだしも、俺の都合で蔵に閉じ込めていくのはな。気が引けるよ」
巳影は蔵のカギから手をはなし、那智の手を取った。
「いい。おまえも連れてく。今日の訪問先は、おまえのこと承知のところだからな」
巳影の顧客は、佐倉と縁続きの所ばかりだ。巳影が家守だということも、キタリド様への応対も心得ている。
「やだ。那智は出かけたくない。ツリーの飾りつけがしたい」
「昼からいくらでもしていいから」
大急ぎで戸締りをし、那智に大判のストールを頭からかぶせて、巳影は家を出た。車を走らせ、『佐倉工務店』という看板がかかげられた建物で停車する。
受付のロビーに人の姿はなかった。受付の後ろ、パーテーションのむこうにも、人のけはいはない。
巳影がカウンター上の電話で内線を呼び出すと、二階から白髪交じりの男性が降りてきた。那智の姿に、少し目を見張る。
「すみません、社長。家人が急な用事で出払ってしまって、見る人がいなくて」
「かまわないよ。今日は私以外いないし、キタリド様にお越しいただけるなんて、縁起がいいことさ」
おつとめご苦労さま、と社長は丁寧に巳影に頭を下げた。それきり、那智のことは見なかった。那智にもお茶を出しはするが、いないもののように扱った。
那智も那智で、社長のことは気にしない。巳影と社長が話している間、手近にあった文房具でひたすらドミノ倒しをしていた。巳影の話が終わると、さっさと立ち上がる。
「やっと帰りか」
「ケーキを買ってからな」
那智は口をとがらせた。
「“リアル・母を訪ねて三千里”がはじまる。今日のジョニーはアマゾンへ行くんだぞ。ピラニアに襲われるんだ。どうなるのか見逃せない」
「どこまで行ってんだ、ジョニー。大丈夫だよ。番組が始まる前には帰れるよ」
「ツリーの飾りつけが終わってない。番組までに終わらせる予定だったのに」
「焦らなくても、夜までに終わればいいんだよ」
「そういう問題じゃない」
那智は不機嫌になった。
予定を乱されること自体が嫌いなのだ。不安になる。那智にとって重要なのは、結果でも効率でもなく、過程だ。
「帰るところ悪い、巳影君。もう一つ聞きたいことがあって。ちょっと来てもらっていいかな?」
社長に呼ばれて、巳影はふたたび事務所の二階へ上がっていった。
那智はイライラとロビー内を歩きまわる。家に帰りたい一心で、一人、外に出た。スーツ姿の男性に話しかけられる。
「こんにちは。巳影君の連れ?」
那智はびくついた。が、相手はなれなれしく話しかけてくる。
背の高い男だった。巳影と並んでも見劣りしないだろう。メガネをかけてはいるが、度は入っていない。
「巳影君に頼まれたんだ。呼び止められて、用事が長くなりそうだから、君を家に送って行ってあげて欲しいって」
「本当か?」
那智は早く家に帰りたくてたまらなかったので、黒い外車に素直に乗りこんだ。
「家は――佐倉の本家。三蔵(みつくら)屋敷でいいのかな?」
那智がうなずくと、男は滑らかに話しだした。
「君、銅音ちゃんでしょ。巳影より年下で、あの屋敷に住んでいるのは、銅音ちゃんくらいしかいないもんね」
那智は否定も肯定もしなかった。家人以外と話してはいけないという決まりを気にしていたし、初対面の相手には緊張するタチだ。
「あれ? 銅音ちゃんじゃないのかな? 他に似たような年のお子さんって、いたかな。記憶にないな。
佐倉さんのところは美形が多いけど、君はだれとも似ていない美少女だね。金吾さんの姉の、コガネさんとも系統がちがうし」
「……」
「あ、ひょっとして。巳影君の恋人か何かだった?」
那智がうんともすんともいわないので、車内には気まずい沈黙が流れだした。
信号待ちの際に、男が不審そうに那智をのぞきこむ。
その顔と、針が特徴的な腕時計を見て、自然と思いついたことがあって、那智はようやく口をきいた。
「おまえは巳影に似ているな」
単調な電子音がひびいた。那智の帯からだ。巳影に持たされたスマートフォンを、おっかなびっくり帯から引き出す。
「那智? おまえ、どこにいる?」
電話の相手は巳影だ。声音には焦りがにじんでいる。
「車に乗ってる」
「車? なんで?」
「だって巳影、仕事が長引くから。家に送っていくように頼んだんだろう?」
「……那智。となりのやつの名前は?」
運転席の男は、那智の手からスマートフォンをひったくった。
「よお、巳影。久しぶりだな。おまえが高校生のとき以来か?
あの時、おまえ、俺の顔見るなりいきなり警察呼ぼうとしただろ。ちょっと話したいだけだったっていうのにさ。
だからさ、今回は確実に会って話してもらえるよう、強硬手段を取らせてもらったよ」
電話のむこうで、巳影が何事か怒鳴る。
「駅前のホテルにいるから。三〇一号室。会いに来いよ」
通話を切って、男はスマートフォンを自分のポケットにしまった。
「安心しな。危害を加える気はない。巳影が来たら、無傷で返す」
車はホテルの駐車場に入った。降りろ、と指示されるが、那智は手間取った。いつも巳影が開けてくれるので、自分でドアを開けたことがないのだ。
男が開け、手を差し出してくれて初めて、車を降りる。
「おまえはだれだ?」
「佐倉庵治(さくらあんじ)。巳影の父親だよ」
那智は驚愕した。ホテルのロビーのど真ん中で立ち止まり、相手を指さす。
「職業、詐欺師の」
「詐欺とはひどい。双方の見解に相違があったのは認めるけど」
「ここで会ったが百年目。成敗っ!」
那智は果敢につかみかかっていったが、あっさり避けられ、ロビーの床に転んだ。
「……」
「……大丈夫?」
「大丈夫じゃない。痛い。なんで避けるんだ」
「そりゃ避けるだろ」
庵治は長身をかがめた。うやうやしく手を差し出す。
「どーぞ、名無しのお嬢さん」
「ああ」
那智はさも当然といった態度で、差し出された手を取った。
あまりに自然なそのしぐさを、庵治はおもしろがった。
「本当にお嬢様だな。車の乗り降りからして、なんでも人にされる生活が染みついてる。ここまで筋金入りははじめてだ」
「変か」
「人は皆、どこかしらおかしいものさ。俺なんて、本当は名前がないしな」
助け起こしてもらいながら、那智は男の顔に見入った。
「結局、君はだれ? どこの子?」
「知らない。金字の子供かもっていわれてる」
「金字は、ああ。佐倉の大旦那か。巳影にとっては祖父だから、君は巳影にとっては叔母ってわけだな。妙な感じだな。年下の叔母って」
またもおもしろがって笑う庵治を、那智はやっぱりまじまじと見つめる。
「俺の顔、何かついてる?」
「巳影はあんまり笑わないんだ。だいたいむすっとしてる」
「へえ。そうなの」
「庵治がニコニコしてると、巳影がニコニコしているみたいでおもしろい」
誘拐に遭っている状態なのだが、那智は上機嫌だった。
エレベーターホールですれちがった従業員は、二人を仲の良い親子だと誤解し、にこやかに会釈した。
「名無しのお嬢さんは、巳影のこと、好きだろ」
「大好きだぞ。何でわかった?」
「顔に書いてあるよ。キスとかしたの?」
からかい交じりの質問に、那智は真顔でうなずいた。
「したら、怒られた」
「そりゃひどい。役得だろうに」
庵治はエレベーターのボタンを押しながら、那智を気の毒がった。
テレビドラマのキスシーンを見た那智に、キスの実験台にされた巳影こそいい迷惑である。
「でも、ほっぺたならいいっていったから、ほっぺたにした」
「巳影はしてくれるの?」
「手にしてくれた」
「こんなふうに?」
慣れた様子で、庵治は那智の細い指にキスをした。
通りすがりの女性の宿泊客が、庵治の洗練された服装と、整った顔立ちに一瞥をくれた。
「巳影の代わりに、ほっぺたにもしようか?」
「いい。巳影に、巳影以外とはそういうことはしちゃいけないって言われてるから」
那智は口づけられた手を、庵治のコートにこすりつけた。
悪意はない。那智にあるのは、慣れない感触を払しょくしたいという、ひたすらに己の欲求に素直な心だけである。
「……女の人からこんな仕打ちを受けたの初めてだよ、おじさん」
「初体験か。よかったな」
那智は心の底からいっている。
エレベーターを降りて、二人はホテルの一室に入った。
ベッドが二つ。片方のベッドには男物のシャツやズボンが乱雑に脱ぎ捨てられており、もう片方の枕元には大ぶりなイヤリングが置いてあったが、部屋に女性の姿はなかった。
「まあ、座ってな。巳影もじきに来るだろ」
那智はベッドに腰かけて、ナイトテーブルのビンに気づいた。
中身は琥珀色の液体で満たされ、アルファベットのラベルが貼られている。ウィスキーだ。
「何? 飲みたいの?」
「いいのか!?」
庵治は渋ることなく、グラスに酒を注いだ。冷蔵庫からミネラルウォーターと氷を出してきて、那智に酒をふるまう。つまみも出した。
「庵治。おまえ、いいやつだな。皆、未成年だからダメっていうのに」
「まあ、まともな家庭はそうだろうね。俺は五歳の時にビール飲んでたけど。
アルコールは脳に有害っていわれてるけどさー、こうして生きてるわけだし? 関係なくねえ? むしろ俺のが優秀な気がするよ」
ビンの横には、厚みのある封筒があった。万札が無造作にはみ出ている。
「いい飲みっぷりだね、お嬢さん。酒、好き?」
「お酒を飲むと、ふわふわした気分になって楽しいんだ。耳や鼻や肌の感覚が鈍くなって、楽になる」
二杯目、三杯目とグラスを空けるにつれ、那智の目はとろんとしてきた。白い頬はほんのりと赤く染まり、四杯目にはうとうとと舟をこぎだす。
「それにー……なんかー……普段は使ってない感覚が冴えてくるというかー……」
那智はベッドに倒れこんだ。床に落ちそうになったグラスを、庵治がすんでのところで拾う。
「――庵治!」
部屋に巳影が飛び込んできた。
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