2.

 金吾がやってきた週の末。

 居間でテレビを見ていた那智は、急に外へ注意をむけた。


「宮子が帰ってきたな。車のエンジン音がする」


 巳影はまだ聞こえていなかったが、那智の聴覚は信頼できる。

 那智の手の爪を切るのをやめ、テレビの電源を切った。


「なにするんだ!」

「蔵行くぞ、蔵」


「やだ。今、“リアル・母を訪ねて三千里”がいいところなんだ。今週こそ、ジョニーがマミーに会えるかもしれない」

「大丈夫だ。今週も来週もまだ会えないから」


「なんで断言できるんだ。予知能力か」

「来週も再来週も番組が続くからだよ」


 言い争っている間に、車が駐車場に停車した。

 居間に入ってきた宮子に、巳影は何食わぬ顔であいさつする。


「お帰りなさい、おばさん。どうかしたんですか?」

「べつに。何もなくても、帰ってきてもいいでしょう? ここが実家なんだから」


 宮子の声音は不機嫌だった。机の上に、乱暴にカバンを置く。

 巳影は気まずそうにし、那智は大きな物音に眉をひそめた。


「……お義姉さんにお小言くらっちゃったわ。

 本家の嫁が本家を空けるなんて、って。マンションはあくまで仮住まいですって反論した以上、週末くらいは家にいないとね」


 巳影は苦笑いした。金吾のことで不機嫌なのではないと知って、胸をなでおろす。


「あ――やだ。書類、家に置いてきちゃった」


 宮子はきれいにネイルされた指先で、こめかみを押えた。


「あとで取りに帰らなくちゃ。面倒ね」

「行ってきましょうか? ちょうど、駅の方に用事ありますし」

「そう? 悪いわね、巳影。玄関に置いてあると思うから」


 巳影は那智の手を引いて立ち上がった。番組が終わったので、那智は素直に従う。


「那智も連れて行くの?」

「ええ」

「やめた方がいいんじゃないかしら」


 巳影は眉をひそめた。


「昼間ですけど、車で行くので、人目に触れる心配はないと思いますよ。

 おばさん、那智にも少しは常識を教えた方がいいっていっていませんでしたっけ?」


「もちろん、そう思っているけれど。分家の人に心配されたのよ。

 おたくの家守がミツクラ様を町に連れて行っているみたいだけど、大丈夫かって。中途半端に外の世界を教えると、逃げ出しやしないかって」


「逃げ出すって。那智は檻に入れて飼ってるペットか何かですか?」


 巳影の声が冷えた。普段、人当たりのいい甥の変わりように、宮子がうろたえる。


「言葉を誤ったわね。逃げ出す、じゃなくて、抜け出す、っていうべきだったわね。そう忠告されたものだから、つい。

 なんでも昔、一人でお祭りを見に行こうとして、川に落ちたキタリド様がいたらしいじゃない?」


「知っていますよ。鋼太郎さんのところの、ハガネ様。

 こっそり夏祭りを見に行く途中、近道をしようと川の飛び石を渡っていて足を滑らせ、お亡くなりに」


「詳しいわね」

「家守ですから」


 巳影は感情を落ち着けるように、深く呼吸した。那智を蔵へと連れていく。


「俺が帰るまで、蔵にいるんだぞ」

「わかった」


「駅前のクリスマスツリーを見せてやろうと思ったんだけど」

「連れて行ってくれるのか?」


「この前、テレビに映ってたとき、気にしてたろ?」

「どうせならクリスマスがいい。当日、あのツリーの下でシャンパンの無料サービスがあるって」

「絶対連れて行かねえ」


 期待に目を輝かせるキタリド様を、家守は蔵へ押し込んだ。


「なあ。巳影はここが嫌いか?」

「おまえは?」

「好きだぞ」

「なら、俺も好きだよ」

「それは好きっていうのか?」


 那智の疑問は捨て置いて、巳影は車のキーをもてあそんだ。


「一時間くらいで戻るから。居間には行くなよ。くれぐれも金吾おじさんのことは話題にするなよ」

「金吾? 何かあったか?」

「……忘れてるならいいわ」


 巳影が出ていくと、那智は手持ち無沙汰にした。

 文机のノートに気がついて、ペンを取る。中は、日記を兼ねた備忘録だ。


「文具屋というのは、画材もいろいろあって楽しかったなあ」


 最初のページを読み返して、那智はうむうむとうなずいた。

 砂利の音に気付く。宮子が蔵へとむかってきていた。


 宮子は手に鍵束を下げていた。一ノ蔵と三ノ蔵のカギだ。

 しばらく、二つの蔵では盛んに物を動かす音が立った。


「……やっぱりアレだったのね」


 蔵の扉を閉めて、宮子が深いため息を吐いた。

 那智は少しだけ、蔵から顔をのぞかす。すがるような視線にぶつかった。


「那智。あなた、霊魂って信じてる?」

「レンコン? まあまあ好きだぞ」


「蓮根じゃなくて、幽霊のことよ。見えたりする?」

「見たことあるぞ」


「本当に?」

「町内の肝試し大会で」


 宮子はがっくりうなだれた。忘れて、と手を振る。


「何を書いてるの? 日記?」


 宮子は近くに来て、文机のノートをのぞきこんだ。

 那智はやや距離を取る。宮子の高い声が苦手なのだ。


「文章力がつくからって、巳影が」


「いい思いつきね。

 日記、か。あなたの年の時、私、何していたかしらね。

 おしゃれに夢中だったっけ。どこそこのマスカラがいいとか、グロスがいいとか」


「マラカス持ち歩くのがおしゃれなのか? 毎日が楽しそうだな」


「マラカスじゃなくて、マスカラ。まつ毛に塗る化粧品のこと。

 そっか、知らないわよね。女友達でもいないと」


 宮子は、蔵が住処の、家族以外に人と触れ合うこともない人間を見つめた。


「二十歳の時のことはよく覚えているわ。父親の事業が失敗して、一気に一文無し。大学行きながら、クラブでバイト。毎日眠くて忙しかった」


「宮子、クラブで働いていたのか。夜の蝶というやつだな。ザギンか? ギロッポンか? 歌舞伎町か?」

「そこはやたら詳しいのね」


「金字が教えてくれた」

「お義父様、夜遊び激しかったものねえ」


 文机の写真立てで、白いヒゲをたくわえた老人が、両脇に美女二人を侍らせて楽しそうにしていた。


「私が働いていたお店に、お義父様と一緒に金吾さんが来て。それで金吾さんに出会ったんだったわ」


 昔を思い出して、宮子のきつい目じりがやわらぐ。


「宮子も泣いて、金吾になぐさめられたのか」


「まさか。なぐさめられたことはあったけど、ハンカチをつっかえしたわよ。見るからに坊ちゃん育ちの人に、何が分かるのって腹が立ったから。

 ――でも、それで結局、結婚することになるんだから、世の中ってわからないわよね」


 不意に、宮子は那智に手を伸ばした。那智はさっと身を引く。


「触るなら、事前に触るって宣言してくれ」

「髪が邪魔そうだから、払ってあげようとしただけじゃない」


 宮子は気を悪くするが、那智も謝らない。人に触れられるのが嫌いなのは、那智自身にもどうしようもない感覚だからだ。


「あなたは昔からそう。小さいころから、大人を恋しがったりしなかった。人より物の方に興味があった。人になつかないで、いつも一人遊びをしてた」


「那智にも直しようがない」


「私にはどう扱っていいのか、全然、わからなかった。

 キタリド様なんていわれても、信じられなかったし、なじめなかった。

 どうしていいかわからないままに、今まで来ちゃったわね」


 宮子は日記のページをめくって、首をかしげた。


「那智、これはどういう意味?」

「そういう意味だ」


「私が知りたいのは、どうして、こんなことを書いたかってことよ」

「……さあ?」


 とぼけているわけではない。本当に忘れているのだ。

 宮子はあごに手をやって、しばし考えこみ、眉を逆立てた。


「……あのファンシーテディベア男! やっぱり浮気したわね!」

「宮子、おまえもエスパーなのか」


 宮子はポケットから、小さく折りたたまれた紙を取り出した。


「それはなんだ?」

「いい質問ね。これは『離婚届』っていうのよ。私の欄は埋めてあるから、金吾さんに渡しておいて」


「金吾に渡せばいいんだな?」

「そうよ。じゃあね、さようなら、那智。いえ、キタリド様」

「帰るのか。気をつけてな」


 那智はのんきに手をふって、宮子を見送った。


 数十分後。帰ってきた巳影は、那智から離婚届を見せられて、目をむいた。


「……おまえ、何いった?」

「何もいってないぞ」


「スマホを池に落として壊したのに、何もしてないって答えるおまえの言葉は信じない」

「あれは落としたんじゃない。落ちたんだ」


 長くなりそうな議論はさておいて、巳影はくわしい経緯をたずねた。


「宮子は、那智の日記を読むなり、金吾が浮気したっていいだしたんだ。新人類か?」


「『金吾は先週末、家にいた』――って。

 わざわざメモしてたら、先週末はいなかったって自白しているようなもんだろうが」


 日記のページを読んで、巳影は頭を抱えた。

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