4.

 家の中はしんと静まり返っていた。家屋に打ちつける激しい雨音だけがひびく。


 那智はしばらく立ち尽くしていたが、空腹だったことを思い出した。

 冷蔵庫に食材はたくさんあったが、那智にはどうしていいか分からない。かろうじて分かったのは、卵だ。


「ゆでれば、ゆで卵だな」


 コンロには鍋があったが、那智は冷蔵庫横の電子レンジに目を留めた。

 卵を入れて、適当にボタンを押す。

 一分後、卵が爆発したので、那智は恐れおののいた。


「爆発する卵があるなんて。怖いな。別のにしよう」


 台所中の戸棚を開け、食材を発見した。カップラーメンを手に取る。

 お湯を入れれば食べられるというのを知っていたので、那智は湯を沸かすことにした。やかんが見当たらないので、保温ポットをコンロにかける。


「いつ沸くのかなー」


 ポットのプラスチック部が溶け出しているが、那智はのんきに構えている。

 ためしにそのままカップラーメンをかじってみて、意外と食べられることを知った。


「飲み物は――これにしよう。巳影は全然飲ませてくれないからな。金字はたまに飲ませてくれたのに」


 那智は日本酒の瓶を抱え、とっちらかった台所はそのままに、居間へ移った。


 さっそく酒をあおる。

 外は強風が吹き荒れて騒がしいが、酔っている間は、五感が鈍るおかげで、多少の物音は気にならなくなる。


 テレビをつけると、バラエティ番組のにぎわいが部屋を満たした。

 那智は愉快になり、さらに酒を飲む。

 酒瓶の中身が減るのに比例して、顔はどんどん赤くなっていった。


「……もぉ寝る時間かあ」


 那智はとろんとした目で時計を見た。ぷるぷると頭をふって、眠気を払う。


「今日は巳影いないし。夜更かしするぞ!」


 決意を新たにしたものの、観ていた番組は終わり、味気ないニュースが始まった。

 那智は口をとがらせ、ふらふらと立ち上がった。酒瓶を持って、離れ座敷へ移る。


 ベンガラで赤く塗られた離れ座敷は、先代の当主がよく使っていた部屋だ。

 今も先代の獲得した賞状やトロフィーが飾られ、趣味で集めていた茶道具や香炉、書道道具、キセルや骨董品などが戸棚に並べられている。


 那智は戸棚から切子細工のグラスを二つ取り出して、酒を注いだ。片方は自分の向かいに置く。


「金字、守ってくれって、いったよな? ここにあるものすべてを。那智はキタリド様だからって」


 那智は向かいの長押に飾られている、大きな写真パネルを見上げた。

 屋敷を背景に、佐倉の一族が映っている。中央は当然、先代当主だ。袴姿で腕を組み、威厳ある立ち姿だ。


「那智、ちゃんと守ってるぞ。逃げたりしてないぞ。偉いだろ」


 パネルをながめながら、那智は酒をちびりちびりと飲む。

 飲酒量も眠気もそろそろ限界だ。置こうとしたグラスを、倒す。


「巳影――」


 いって、那智は自分の他に誰もいないことを思い出した。涙目で座卓に突っ伏す。


「巳影のバカ。おたんこなす。でべそ。あんぽんたん……」

「あんぽんたんはおまえだ」


 那智は飛び起きた。背後に、巳影が立っていた。

 髪が濡れている。カサは差していたようだが、ズボンは色が変わり、上着もまだらに濡れていた。


「巳影」


 那智は声を弾ませたが、あいにくと、巳影は怒りに震えていた。怒号が飛ぶ。


「なんだ、あの台所は。床にはストック品が散乱しているし、電子レンジで卵が爆発しているし、保温ポットは溶けているし!」


「な、那智じゃないもん!」

「おまえ以外に今、この家にだれがいるんだよ!」


 巳影は日本酒の一升瓶をひっつかんだ。


「しかも、なんだこれは。未成年なんだし、酒は飲むなっていったろ!」

「飲んれない!」

「真っ赤な顔して、ろれつのまわってない舌でいっても説得力ゼロだよ。この精神年齢五才児が!」


 両頬を引っぱられると、一瞬は心を解きかけていた那智も、また意固地になった。


「なんら。巳影。忘れ物でも取りに来たのか?」

「あーあー、そうだよ。でっかい忘れ物をしたんでね。取りに帰ってきたんだよ」


 わきに腕を入れられ、抱え上げられそうになると、那智は机にしがみついた。


「行かないぞ!」

「昼間は悪かったよ。キタリド様じゃないなんていって。おまえは本物だよ。認める。だから、一緒に避難してくれ。おまえを一人にしておくと、俺が落ちつかない」


 那智はうろんげにした。


「巳影。那智を連れていくために、てきとーなこと言ってるらろ」


「適当じゃない。本気でいってる。

 じいさまの晩年の功績は、おまえが主張していたように、おまえの手柄だ。

 じいさまの自慢したがりの性格と、じいさまがそれまでに自分の才能で収めた成功に隠れて、だれも気づかなかったけど。


 おまえが未来を予見したおかげだよ。おまえはたしかにキタリド様だ。家守の俺が知らないわけないだろ」


「……じゃあ、なんれ。ちがうなんれ」


「昼間にいっただろ。本当に変な力があると大変だからだよ」


 巳影は自由に外を出歩くこともできず、人と話すこともできない相手を前にして、自分の方が苦しそうにした。


「昔々、佐倉家の裏山から、変わった人がやって来た。

 その人は、ろくにしゃべることができず、手足は不自由で、夜中に歩き回ったり、急に叫び出したり、奇怪な行動をする人だった。


 けれど、過去も未来も現在も、自在に見通す力を、遠くはなれた場所で起こっていることを見る力を、千里眼を持っていた。

 人の心を読んだり、手を使わずに、物を動かすことだってできた。


 だから、佐倉家はその人を神様として奉って大事にした。

 この世ならざるところからの“来たり人(キタリド)”様として。伴侶をあてがい、家族として迎え入れた。


 以来、佐倉家には、一風変わった人間が生まれるようになった。

 ただただ普通に変わっているだけの人もいたけれど、欠けた能力を補うように、飛びぬけた力を持つ人もいた。那智、おまえみたいにな」


 那智の端正な容貌にも、巳影は憂いを浮かべる。

 整いすぎた外見は、もはや一種の奇形だ。


「おまえが本物のキタリド様だって知られてみろ。

 おまえは無責任な好奇心に傷つけられたり、誘拐されたり、もっと自由の利かない立場に置かれるかもしれない。俺はそんなの、許せないんだ」


 巳影が神妙な面持ちをする一方で、那智はぽかんとしていた。

 相変わらず、那智は人の話を解さない。仕方がない。なにせ巳影の話は長すぎた。もじもじと袖をいじくる。


「……巳影の話はよくわからないけど、巳影が那智を嫌いじゃないのは、なんとなくわかった」


 那智は巳影の乱れた髪や、雨風のせいでまだらに濡れている服を見た。


「巳影は、那智がキタリド様じゃなくても、大事なんだな」


「何を今さら。たとえおまえが本物のキタリド様でも、嫌なやつだったら、とっくに家守なんてやめてるよ」


「金字のいいつけを守って、イヤイヤやっているのかと思った」


「きっかけは人のいいつけだけど、続けているのは俺の意志だよ。


 おまえは何につけても手間がかかるけど、俺はその方が返って安心する。自分が必要とされているんだって実感できるから。


 まわりはおまえが俺を必要としているように見るけど、本当は逆だ。俺がおまえを必要としているんだ」


 巳影は那智の両頬を手ではさんだ。


「おまえが俺に家守になってくれと頼んでないなら、俺の方が頼むよ。おまえの家守になっていいか?」

「うん」


 那智が抱きつくと、巳影も抱きしめ返した。


「よし、じゃあ、那智。避難するぞ。ほら、立って――那智?」


 巳影は那智の肩を揺さぶった。すうすうと、寝息が聞こえる。赤ら顔はゆるみきって、幸せそうだ。


 やれやれと苦笑いしながら、巳影はその体を抱き上げた。

 長押のパネルを一睨みして、廊下に出る。


「――外に出るのはやめておけ。もう間もなく、この先の道がふさがれる」


 巳影は不意な声に身をこわばらせた。

 おそるおそる、自分が抱いているものを見下ろす。

 茶色っけのまるでない、大きな真っ黒なまなこが、巳影を見返した。


「今夜は家で、“私”と一緒に酒でも飲んで過ごそうじゃないか。何か相談があるなら、乗るぞ。金字のようになんでも私に質問するといい」


 意識を失くしていたはずの那智は、しっかりと目を見開いていた。

 いつも年より幼く見える顔が、今は年より大人びていた。紅い唇がはっきりと言葉をつむぐ。


「知りたいのは、一年後の株価の動きか? それとも自身に起こる災いか? それとも色恋沙汰か? 何から聞きたい?」


「あいにくと、おまえが酒飲むと人格変わること以外に、悩みはないよ」

「それは重畳」


 那智は巳影の腕からすべり降りた。乱れた着物の裾を直し、長い黒髪を背にはらう。


「さて、巳影。少々困ったことが起きてるぞ」

「もう十分、今、俺は困ってるよ」


「土砂崩れの起こるあたりに、避難してない世帯があるんだ。どうやって避難を知らせたものかな。念波でも飛ばすか?」

「電波飛ばすから、家を教えてくれ」


 巳影はスマートフォンを取り出した。

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