2.

 朝食が終わると、那智は庭へ出た。

 池のコイにエサをやったり、野鳥のエサ台を世話したり、庭木の紅葉を楽しみながら、庭をゆっくり散歩する。


 玄関先では、宮子があわただしくパンプスをはき、靴箱からカサを出し、車のカギを忘れたことに気づいて引き返しと、忙しくしているが、那智は忙しさとは無縁だ。


 地面近くを飛ぶツバメを目で追い、クモが枝先に巣を張るさまを飽きもせずにながめる。のんびりしたものだ。


「ねえ、キタリド様。これ借りていい?」


 声がかけられた時には、那智の髪にあったリボンは、もう他人の手にある。


 リボンを取ったのは、宮子の娘の銅音だ。

 那智より三つ年上で、大学生。母親ゆずりのきりりとした顔立ちをしているが、ピンク系の甘いメイクで印象はやわらかい。


「みか君は?」

「巳影はお膳を台所に戻しにいった。その後は知らない」


 銅音は髪にリボンをつけようとしたが、ボブカットの髪には大きすぎた。うまく納まらず、何度も位置を直す。


「ねえ、キタリド様。来週、みか君を貸してほしいんだけど、いい?」

「那智は巳影の予定を知らないから、聞かれてもわからない」


「知らなくたっていいの。うんっていってくれれば。みか君は、キタリド様のいうことしか聞かないから」


 銅音はおもしろくなさそうに、ヌードピンクに塗られた唇をとがらせた。


「巳影は那智のいうことなんか聞かないぞ。だいたい逆らうぞ。昨日だって、那智がお酒飲みたいっていっても、飲ませてくれなかった」


「あのね、私が通っているお茶の教室で観楓(かんぷう)会をやるんだけど、全員、お着物を着ようって話が出ているの。


 でも、着付けができる人が少なくて。みか君の手を借りたいのよ。みか君はキタリド様を毎日着つけているから、慣れているでしょ? 一日だけ貸してくれればいいから。


 そうだ、それから、キタリド様。着物をもっていない人もいるから、貸してよ。

 たくさんあるから、いいでしょ? 私の通ってるお茶の教室は、佐倉の分家が開いているんだから、協力してくれるよね?」


 銅音は言葉を尽くして事情を説明したが、那智は聞いていなかった。

 途中で話に飽きて、他に注意をやっていた。庭木から赤い実を摘む。


「ねえ、ちょっと! 聞いてる!?」


「銅音も食べるか? ガマズミの実。まだ酸っぱいけど、目が覚めるぞ」


 銅音は、せっかく化粧でやわらげている雰囲気を台無しにした。

 目じりを吊り上げ、那智の手から乱暴に実をはたき落とす。


「ちゃんと聞いてよ! 人が説明してるのに」

「聞いてた。聞いてたけど、言葉が多いから、途中から那智はなにをすればいいのかわからなくなったんだ」


「はあ? ものすごくわかりやすく説明したけど? 私。なんでわからないのよ」

「そうだ、紙に書いてくれ。長い話を聞くのは苦手だけど、読むのは大丈夫だから」


「もう! いいから、いいっていって。それで全部終わるから」

「俺が聞くよ」


 背後から巳影が姿をあらわすと、怒鳴っていた銅音は大人しくなった。髪をなでつけ、スカートの裾をいじる。


「巳影、どこ行ってたんだ?」

「台風にそなえて、物を片付けてたんだよ。――つまみ食いか?」

「巳影もどうだ」


 勧められると、巳影は素直に赤い実を食べた。二人のやり取りから銅音は目をそらす。


「で、ごめん、銅音。何の話だった?」

「あ……えっと、ちょっと、頼みごとがあって」


 巳影の顔つきが険しくなった。矢継ぎ早に制止を浴びせる。


「那智に? いっとくけど、那智に頼みごとしてもムダだから。用事を頼むと、頼んだ方の用事が二倍になるくらいの不器用だ。


 さっきの会話でわかると思うけど、話も通じないし。

 那智は注意力散漫な上に、聴覚情報処理障害持ちだから、長い話は体質的にダメなんだよ。キタリド様なんて呼び名にまどわされて、神頼みなんて考えないでくれ」


「巳影。那智の悪口いってるだろ。いくら早口でも、そーゆーのは雰囲気でわかるんだぞ」


 那智は木の実を投げつけたが、抗議は無視された。


「うん、それは、わかってるし。神様なんて、私、信じてないから。

 頼み事したかったのは、みか君の方。一日だけ、着付けのアルバイトをしてくれないかなあって思って」


「悪いけど、那智の世話と自分の仕事で手一杯だから」

「だよね。そうだと思った」

「銅音」


 立ち去ろうとする銅音を呼び止めて、巳影はその髪からリボンを取った。


「銅音はこれより、この間していたヘアクリップの方が合っているよ。新しく買ったの?」

「そう! みか君って、細かいところに気づいてくれるから好き」


「時間、大丈夫? 今日は大学、一コマ目からあるんだろ?」

「本当だ、もうこんな時間。じゃ、行ってきまーす」


 銅音の姿が見えなくなると、巳影はやれやれとため息をついた。元通りに、リボンを那智の髪に飾る。


「油断のすきもない」

「リボンは貸しただけだぞ」

「貸していいのは、ちゃんと返す相手だけだよ」


 話しているそばから、那智は門の外へ出ようとする。巳影は帯をつかんだ。


「散歩行く」

「散歩は夜って決まりだろ」

「午後は雨だから、午前中に行かないと散歩に行けない」


 巳影は仕方なさそうに、蔵から着物を一枚持ってきた。頭からかぶせて、門を出る。


 キタリド様は家人以外に素顔をさらしてはいけないのだ。すれちがう人の方も、那智のことは見ず、巳影にだけ声をかける。


「巳影君、これ、たくさんできたから。持って行って」


 畑仕事をしていた老婦人が、巳影を呼び止めた。


「今年もたくさんできましたね、ニンジン。弥生さんがどう料理しようって、喜びます」

「那智は嫌だぞ。とくに葉っぱは嫌いだ。もらわないでくれ」


 那智が口出しするが、巳影と老婦人は聞こえないフリだ。葉つきのニンジンはめいいっぱいビニール袋に詰められた。


「いつも色々とおすそ分けをありがとうございます」


「礼なんていらないよ。佐倉家にはお世話になっているんだから、当然だよ。


 佐倉家がこのあたりに会社や工場を興してくれたおかげで、働き口ができて、若い人が都会へ出て行くことがないんだから。


 宅地開発も頑張ってくれたおかげで、今は逆に他から人がやってくるし。田畑ばっかりだったこの町が、こんなに栄えたのは、佐倉家あってこそさ」


 老婦人は町をながめ渡した。


 地方都市に近いこの町は、ほどよく都会で、ほどよく田舎だ。


 那智たちが住んでいる町の東側は、古くから人が住んでいるエリアで、緑が多い。山があり、川があり、田畑も残っていて、のどかな風情だ。


 一方、西側はにぎやか。ビルや工場、住宅が建ちならび、広い車道や鉄道が通っている。今も、この町にむけて高速道路が伸びてきていた。


「佐倉さんの家には、足をむけて寝られないよ」


 拝まれながら、巳影と那智はその場をはなれた。

 ゆるゆると坂を下り、川沿いの道に出る。食品や日用雑貨を売っている店を通りかかると、若い店員が巳影を呼んだ。


「よお、巳影。今度さ、合コンやるんだけど、おまえも参加しない?」

「遠慮しとく」

「そういわず。おまえが参加するのとしないのじゃ、集まる女の子の数と質が違うんだよ」


 同級生同士の二人が話しこんでいる間、那智は店内をうろついた。

 つまみの落花生を見つけ、野鳥のエサになりそうだと判断し、たもとに入れる。


「那智。店から物をもっていくときはどうするか、教えただろ」


 巳影から財布を渡されると、那智はおっかなびっくり、中から硬貨を取り出した。カウンターのカルトンに一枚一枚、代金をならべる。


 店員は当惑した。差し出された代金を、巳影の方へ押しやる。


「いらないよ。キタリド様からはお代を取らないのが習わしだろ?」

「いいんだよ。ここらではそうだけど、よそにいったら困るから。万引きになる」


「出る予定があるのか?」

「あるかもな。俺もこいつも、元はといえばあの家の人間じゃないから」


 巳影はカルトンを店員に押しつけた。


「俺が買ったことにして」

「毎度あり。家守ってのは、大変だな」


 店を出ると、那智を見て小さな男の子が歓声を上げた。きものだ、と那智を指さす。母親があわてた。


「指ささないの。その人のことは見ちゃダメ」

「なんで?」

「どうしてもよ。いいから、こっちにきなさい」


 母親は、巳影にむかって申し訳なさそうに一礼した。巳影も会釈して、那智の手を引く。


「なんでみんな、那智を見ないフリをするんだろうな?」

「前もいっただろ。キタリド様は、その家の人以外、見てはいけないし、話しかけてもいけない決まりなんだよ」


「ゲームみたいだな」

「アホか。人間だけど人間扱いされてないって話だぞ」


 那智はかぶっている着物を、少しずらした。


「なあ、巳影。キタリド様同士なら話してもいいのか?」

「ん?」

「あっちから紫(ゆかり)のところのキタリド様がくる」


 向こうから、白杖を携えた男が歩いてきていた。


 目元を布で覆った素顔を、堂々とさらしている。

 縞模様の着物に締めた兵児帯はゆるみ、白髪は乱れていた。

 ふくらはぎに傷を負っているが、処置もしていない。人目をかまっていない姿だった。


 かまっているのは、赤いカサだけ。

 コンクリート塀にぶつけてしまうと、白杖と傘の持ち手を入れ替える。


「家守の紫さんは?」

「いないな。一人でお出かけなのかな?」


 巳影はすぐにスマートフォンを取り出した。電話をかけるが、つながらない。

 家守に連絡を取ることはあきらめ、キタリド様を止める。


「ヒイラギ様、それ以上、近所から出ちゃいけません。もどりましょう」


 ヒイラギ様、というのは、このキタリド様のあだ名だ。

 家人以外は、そのキタリド様の名前を呼んではいけないので、その家の特徴にちなんだあだ名で呼ばれるのだ。


「勝手に出かけると、紫さんが心配しますよ」


 ヒイラギ様はそれ以上、進まなかった。

 かといって、戻ろうともしない。立ち尽くしてしまう。

 巳影がどうしたものかと途方に暮れていると、那智がそばへ寄った。


「紫はどうしたんだ?」

「那智、やめろ」


「一人でどこに行くつもりだったんだ?」

「那智」


 巳影が止めるが、那智は好奇心のおもむくままに質問を重ねる。


「ヒイラギも散歩か? 見えてないのに一人で危なくないのか? そういや何歳なんだ?」

「わ―――――――っ!」


 突然、ヒイラギ様が暴れ出したので、那智は飛びあがった。巳影の背にしがみつく。


「巳影! なんか暴れだしたぞ! やばい!」

「話しかけるなって止めただろ! ヒイラギ様に質問は厳禁なんだよ!」


 巳影は暴れるヒイラギ様を羽交い絞めにした。すぐそばを、車が通り過ぎる。


 危ういところだったが、おかげでヒイラギ様は落ち着いた。巳影に連れられるまま、帰路に着く。

 しかし、暴れない代わりに、今度は独り言をつぶやきだした。


「巳影、ヒイラギ、怖いぞ。ずっと誰かとしゃべってる」

「ヒイラギ様のことはいいから、おまえは自分のことを注意してろ。側溝に落ちるなよ」


 ヒイラギ様の家は、その愛称の通り、ヒイラギの木に囲まれている。

 表札の姓は“鳥井”だが、佐倉一族とは血縁がある。そのため、キタリド様がいるのだ。


「紫さーん、いますか?」


 玄関の引き戸を開けて、巳影が叫んだ。応答はない。


「玄関開いてるから、誰かいそうなのにな」

「いるぞ。二階で物音がする。もう降りてくる」


 那智の言う通り、マスク姿の少女が階段を下りてきた。ヒイラギ様の姿を見て、ベリーショートの髪をかきあげる。


「……ああ、すいません。勝手に出てっちゃってたんですね」

「ケガをしていらっしゃるから、救急箱を持ってきてくれるかな」


 少女は救急箱を取ってきた。

 しかし、手当てには怖気づく。独り言を吐くヒイラギ様を不気味そうにした。

 巳影が救急箱をあずかり、手早く傷を消毒する。


「ごめんなさい。いつもおばあちゃんに任せきりで」

「いいよ。体調、大丈夫? カゼで寝ていたんでしょ? 寝てなよ」

「もう治りかけなので、平気です。大事をとって、一日休んでいるだけだったので」


 治療が終わると、巳影はヒイラギ様を玄関に上げた。


「部屋は北東でよかったよね?」

「はい。廊下の突き当りを左です。窓がなくて鍵のある部屋が、そう」


 残された那智を、少女は奥へ招き入れた。


「お茶。入れるから。どうぞ上がって」

「紫の他に人が住んでいたとは知らなかった」

「今年の九月からの話なの。うちのお父さんがこっちに転勤になったのを機に、同居しようってことになって」


 つぶやきに返事があって、那智は体をびくつかせた。この町で、自分の言葉に返事をする者はわずかだからだ。


 そろそろと、居間に腰を下ろす。

 座卓に積まれている教科書に興味を示したものの、文字と公式の羅列に、本を閉じた。

 分かるのは、裏表紙に書かれている名前くらいなものだ。


「“二年一組 鳥井翠(とりいみどり)”」

「それ、私の教科書。ね、あなたは何年生?」

「……十七」

「じゃ、私と同い年だね。高校はどこ?」


 那智は言葉を詰まらせた。学校に通っていないからだ。

 高校どころか、中学校も小学校も、どの学校に通ったこともない。キタリド様の慣例だ。


「同じ学校ではなさそうだね。こんなに綺麗な子がいたら、噂になっているはずだもん。すごーい、肌白い、顔ちっちゃい、手も小さい。どうしたらこんな風になれるの?」


 詰め寄られると、那智は後ずさった。背中が棚にぶつかり、写真立てが落ちる。

 

 家族写真だった。何人かの老若男女の姿がある。

 翠らしき小さな女の子の姿はあるが、独り言をいうキタリド様の姿はない。


「ヒイラギ、いったい誰としゃべってるんだろ。変なヤツだな」

「ああ、あれはね。頭の中で、声がするんだって。おじさんはそれに答えてるらしいよ」

「ふーん、幻聴か。やばいな」


 歯に衣着せぬ物言いに、翠は目をみはった。ぷっと吹き出し、湯飲み茶わんを置く。


「そ、やばいでしょ。みんな、だれも、遠慮していわないけど。やばいよね」


 翠は大きく伸びをした。深呼吸して、肩の力を抜く。


「キタリド様なんてさ、ウソだよね。一風変わった人間を大事にすれば、家を守ってくれる――なんて。


 一家に生まれた障害のある人を、都合よく人目から隠すための方便。

 田舎は近親婚が多いから、きっとそういう人が生まれることが多かったんじゃないかな。

 大事だから家に置くんじゃなくて、人目にさらしたくないから家の中に置くんだよ。


 家守っていう世話役をつけるのは、一人では生きていけないほど重度の障害を抱えていることがあるから。

 家の中で誰よりいい扱いをするのは、きっと、閉じ込めているっていう後ろめたさを消すためなんだよね」


 翠は自分のために淹れたコーヒーに、砂糖とミルクを入れた。濃い褐色がたちまち白濁する。


「外で会っても、皆が見て見ぬふりをするのは、佐倉家に対する配慮だよね。

 佐倉家は昔、ここらの大地主だったし、この町を発展させてきた偉い家らしいから。


 キタリド様が何をしていても見ない。

 独り言をいおうと、叫んでいようと、店先から勝手に物を取ろうと、常識外れのことも許す。

 佐倉家の人たちに、恥をかかせないように」


 翠は那智のとなりに、ひざを抱えて座った。


「こんなこと、やめればいいのにね。おじさんは病気なんだから、家に閉じこめて置かないで、病院に連れていくべきなんだよ。


 そうしたら、統合失調症か何か病名がついて、薬が処方されて、少しはましになるかもしれない。

 他の親戚は、病院に連れて行ったり、入院させたりしているのに、うちはいまだにそうしない。


 ……嫌になっちゃう。おじさんがいるから、あたし、友達を家に連れてこられないんだ」

 翠はスプーンでマグカップをかき回した。


「うちと同じように伝統を守っているのは、後は佐倉の本家だけなんだって。


 もっとも、本家はうちよりマシみたい。

 発達障害、なのかな? 大きい音やきついにおいが苦手だったり、落ち着きがなかったり、着るものや使うものにこだわりが強かったりするけど、話はだいたい通じるんだって。


 いいよね。話が通じないのが、一番きついもん。同じ人間なのに、同じに思えないから」


 那智は微動だにせず、翠の話を聞いていた。

 話の後半は理解できなかったが、前半だけでも、那智には十分な話だった。


「そうだ、クッキーあるけど。食べる?」


 お菓子を出されたが、那智は取らなかった。

 足音を聞きつけて、廊下に出る。帰ってきた巳影の背後へ隠れた。


「どうした? ここには何度か来たことあるから、怖くないだろ」


 巳影は那智の頭をなでた。


「ヒイラギ様は着替えもさせておいたよ。裾が汚れていたから」

「ありがとうございました。ええと――」

「佐倉巳影だよ。紫さんとはよく知った仲だから、気にしないで」

「助かりました、巳影さん」


 翠は那智をうかがい見た。


「こっちはミツクラ様。うちは蔵が三つあるから、皆そう呼ぶ」

「はい?」


 巳影のいわんとすることがわからず、翠ははんぱな愛想笑いを浮かべた。


 鳥井家の前にタクシーが停車した。初老の女性が小走りに家へ入ってくる。


「ごめんねー! 巳影君。手間かけちゃって。孫に、勝手に出かけようとしたら止めてって頼んだんだけど」


 ヒイラギ様の家守は、孫を軽くにらんだ。


「兄を見ていてくれるっていうから、今日も学校を休みにしたのに。寝ていたの?」

「ちょっとイヤホンしながら音楽聞いてて……」

「お願いだから、目を離さないで。兄さんは目が不自由なんだから」


 翠は唇を噛んだ。マスクをずらす。顔のえらのあたりに、あざができていた。


「見てたよ! でも、何度止めても、出かけようとするし。どこにいくのかしつこく尋ねると、叫びだすし。……だったら、もう好きにさせてあげればいいと思って」


「翠。困ったら、おばあちゃんに電話してっていわなかった?」


「だって、おばあちゃんだって、大変でしょ!? いっつもいっつも。自由にお出かけもできなくて。だから――」


 平手が飛んだ。茫然としている翠のことは置いておいて、紫は巳影に頭を下げる。


「今日は本当にありがとう、巳影君。助かったわ」

「お互いさまですよ。那智が子供のとき、紫さんにはお世話になりましたから」

「キタリド様の前で、とんだ醜態をお見せして。申し訳ないわ」


 紫の言葉に、翠は口を押えた。今まで吐いた言葉を取りもどそうとするが、もう遅い。


「紫、濡れてるな。もう雨が降りはじめたのか?」


 那智は紫のカーディガンが湿っていることに気づいた。


「出先で降っていただけよ。でも、もうすぐこっちも降り出すかも」

「ヒイラギ様、紫さんを迎えに行くつもりだったのかもしれませんね。ヒイラギ様のもっていた赤い傘は、紫さんのでしょ?」


 巳影の指摘に、紫が笑った。


「兄さん、私がいつもの傘を持って行かなかったから、持っていないと勘違いしたのね。

 私、子供のとき、雨に降られて肺炎になって、入院したの。以来、兄さんは雨の日になると心配性になるのよ。

 兄さんにとって私は、いつまでも小さい妹なのね」


 紫に見送られて、那智たちはその場を後にした。

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