1.
地方の旧家である佐倉家には、奇妙な風習が残っていた。
それは“キタリド様”という風習である。
キタリド様というのは、屋敷神や氏神と似たような存在だ。その土地と一族を守る神様である。
ただ、ご神体が変わっていた。屋敷神や氏神は、お札や山から取ってきた石を奉るが、キタリド様は違う。
ご神体はモノではなく、実在の人間――つまりは“生き神”だった。
一族の中に、まれに現れる一風変わった人間をキタリド様とし、家の中で大事にする。
そうすれば家が守られ、栄えるといわれており、いまだにそれを実行しているのだった。
*****
大地主であった佐倉家の家は、立派なものだ。
土地は戦後の農地改革でほとんど失っているが、その後、部品の製造工場や不動産の会社を興し、家格を保ったおかげである。
屋敷は大きく、庭も広い。敷地には池も築山も茶室もあり、母屋の北東には、なまこ壁の土蔵が三つもあった。
といっても、三つすべてが蔵として使われているわけではない。
真ん中の蔵は、キタリド様の住まいだ。キタリド様の住まいは母屋とはなれた場所に作られるか、屋敷の一画を特別に区切って用意される。
朝早く、一人の青年が土蔵に近づく。
年は二十歳すぎ。上背のある体はまっすぐに伸ばされ、着ているものにだらしのないシワはない。鼻筋の通った顔には、凛とした空気がただよっていた。
青年は、鋼鉄の錠前にカギを差しこんだ。
厚い扉を開くにつれ、暗闇に塗りつぶされている蔵内に光が差しこみ、古めかしい内部の様子があらわになってゆく。
畳敷きの床に、流麗な彫りをほどこされた文机。玉杢(たまもく)模様のうつくしい戸棚に、五色あざやかな友禅の振袖がかかった衣桁(いこう)。
正面に二曲一双の金屏風があり、絵の中から、二匹の唐獅子が入り口をにらんでいた。
「那智(なち)」
青年は屏風の向こうに呼びかけた。
が、返事はない。
再度呼びかけても何もないと、壁に手を這わせた。電灯のスイッチを押す。
ぎゃっ、と悲鳴が上がった。
「巳影(みかげ)、まぶしいっ! 消してくれ!」
「吸血鬼かよ」
青年――巳影は電灯を消した。もぞもぞと何かが動くけはいがあり、屏風の奥から人が這い出てくる。
色の白い少女だった。着ている白絹の長襦袢と変わらないほどの白さだ。暗い土蔵のなかで、輪郭がぼんやりと浮かび上がっている。
まだなかば畳に横たえた体は華奢で、袖口からのぞく手指は細い。生まれてこの方、労働をしたことのない、たおやかな手だ。
小柄ながら大人の背丈になっているが、顔はあどけない。大きな黒い目はぱっちりと見開かれ、サンゴ色の小さな唇は無防備にうっすらと開かれている。
翅(はね)のように広がった襦袢のそでと相まって、真白い蚕蛾のような少女――これが佐倉家本家の当代キタリド様だった。
「疲れはとれたか? 昨日はにぎやかな所へ出かけたから、夕方はぐったりしていたけど」
「ああ。よく眠れた。やっぱり人が多いところは疲れるな。音が多いし、においも多いし。刺激が多くてクラクラする。音も光もにおいも届かない土蔵の中は最高だ」
「感覚過敏症のやつは大変だな。俺にしてみりゃ、よくこんな暗すぎて静かすぎるところで生活できるなって思うけど」
巳影は近づこうとして、眉をひそめた。適当に羽織ったことがまるわかりの、那智の長襦袢姿をとがめる。
「ちゃんと襦袢を着ろ」
「……えー」
肌も過敏な那智は、何かを身につけることが嫌いだ。許されるのなら裸で生活したい派だが、許されるわけがない。巳影の拳が容赦なく電灯のスイッチを叩いた。
「ぎゃっ! 着る! 着るから! 電気消して! まだ光に慣れてないから、目が焼かれるみたいに痛いんだ!」
那智が屏風の裏へ引っ込むと、巳影は電気を消した。小言を吐く。
「いい加減、人前に出るときは身だしなみを整えることを覚えろ。俺の前でも、肌襦袢と長襦袢は着ろって何度もいってるだろ」
キタリド様には、身の回りの世話をする世話役――“家守(やもり)”がつく。巳影はそれだった。
「着たか?」
「んー……うー……うー? ……えーっと、一応、着た」
巳影は屏風の裏へ回った。いったん正座し、キタリド様に頭を垂れる。それから、行灯型のスタンドをつけた。
やわらかな光に照らし出されたキタリド様は、眉を八の字にしていた。タテ結びになっている腰紐をさらす。結びは形もいびつだ。
「何度やってもタテ結びになるんだ。なんでだ? 呪いか?」
「おまえが不器用だからだろ」
巳影は自分の爪が、短く切りそろえられていることを確認した。世話する相手を傷つけないためだ。慣れた手つきで、紐を結び直す。
「着物を着るのが難しいなら、洋服にするか? ワンピースなら、かぶるだけだ」
「洋服だと下着つけないといけないじゃないか」
「和服でも、本当はいるけどな」
「服にタグとかボタンとかファスナーとかついてると、それも気になるし」
那智の生態は難儀である。
「この長襦袢、けっこう傷んできたな。新しいのをあつらえたいところだけど。宮子(みやこ)おばさんが渋い顔をしそうだ」
「この間、宮子に新しいのが欲しいっていったら、買ってくれたぞ」
「本当に? めずらしいな」
那智は桐箪笥の上においてあった畳紙を開いた。布地に触った瞬間、嫌そうにする。
「絹じゃない」
巳影も新しい長襦袢にさわった。那智よりも時間はかかったが、苦い顔をする。
「本当だ。化繊だな。那智は正絹しか着ないっていっているのに。おばさん、ニセ物でもわかりっこないと思って変えたな」
「化繊は着たときにヘンに冷たいし、汗かくと気持ち悪いから嫌だぞ」
「わかってるよ。これは店に返しとくよ」
巳影は元通りに長襦袢を包んだ。桐箪笥の上に、さらに紙袋があるのを見つける。
「この紙袋は?」
「近所の人が着なくなった着物を、宮子がもらってきた」
「……リサイクルショップに回すか。キタリド様にお下がりなんて着せられないし」
巳影は紙袋も、長襦袢と一緒に隅へ追いやった。
「昔は、季節ごとに着物を新調して、正月には肌着の類も一新したっていうのにな。じいさまがいなくなってから、おまえの待遇は悪くなる一方だな」
「最近は、えこにりゆーすが常識だって聞いたぞ」
「キタリド様はそんなこと気にしなくていいんだよ」
巳影は顔を洗わせると、那智に濃い紫色の袷を着せかけた。菊の模様が入った帯を締める。帯締めは薄桃色で、かわいらしく花の形に結ばれた。
次は髪だ。つげの櫛で、長い髪をたんねんに梳く。
階段箪笥から赤メノウの飾りがついた簪(かんざし)を取り出したものの、やめて、ハーフアップにした髪に大きなリボンをつける。
身支度を終えたキタリド様は、ガラスケースに入れれば、等身大の人形と間違われそうな可憐さだ。家守は満足そうにした。
「巳影、いる?」
戸口にガウン姿の女性が立っていた。
巳影の伯母にして本家当主の妻、宮子だ。白飯や汁物、焼き物や和え物ののった漆塗りの膳を持っている。
「おはようございます、宮子おばさん。わざわざありがとうございます」
「いいのよ、ついでだったから。朝から豪勢なことね。キタリド様のお食事は。こんなに食べないでしょうに。もったいない」
「たしかに全部は食べませんけど、残った分は、俺の朝食ですから。べつにもったいなくはないですよ」
「あなた、嫌じゃないの? 人の残り物なんて」
「さあ。昔からそうだったので、何も思ったことがないですね」
「私たちと同じじゃいけないの? あなたも、那智も。作る方も手間よ」
「弥生さんが、そういってました?」
「そういうわけではないけれど。ちょっと考えれば、わかることよ」
「俺も昔、弥生さんに手間でないか聞きましたけど、べつにっていわれましたよ。料理をするのは好きだし、その手間を入れた給与をもらっているので、気にしていないって」
宮子は腕を組み、視線を泳がせた。
「あ、そうそう、巳影。あなたに相談があってきたの。ウチが管理してるアパートの入居者さんから――」
「ちょっと待ってもらえます? 先に、那智に朝食を食べさせないと」
巳影は膳をおくと、その前に那智を座らせた。着物を汚さないよう、ひざに布をかける。電気ポットで湯を沸かし、茶も用意する。
宮子がイライラとひじを指で叩いても、歯牙にもかけない。那智が落ちついて食事をはじめてから、ようやくふり返った。
「それで。入居者の方が、どうかしました?」
「連絡用のアドレスにメールがきたのよ。英語で。苦情かしら?」
巳影は見せられたスマートフォンをのぞきこんだ。
「……苦情ではないですね。知人の方に、国内の手続きについて質問している内容ですので。誤送信でしょう」
いいながら、巳影は英語で手早く返信を打つ。宮子が感心した。
「すごいわねえ。さすが進学校でトップクラスの成績だっただけあるわ」
「普通ですよ。日常会話程度のことなら、中学生レベルの知識があればできますから」
「うちの銅音(あかね)はさっぱりよ」
巳影がスマートフォンを返すと、宮子はさらに相談事を持ちかけた。
「それからね、管理物件の帳簿なんだけど。入院している金吾(きんご)さんに代わって、私が帳簿を作ろうと思ったんだけど、よくわからなくて。
金吾さんに聞いたら、巳影君に聞いてっていうんだけれど、わかる?」
「わかりますよ。じいさまによく手伝いをさせられましたから。部屋に書類を置いておいてもらえれば、ヒマみてやっときます。
ところで、金吾おじさんって、たしか今年、町内のお祭りの幹事でしたよね。週末、お祭の話し合いを予定していたと思いますけど、把握してます?」
「いけない! そうだった。忘れていたわ。ありがとう」
宮子は感嘆のため息をもらした。
「本当、巳影君は頼りになるわね。頭がいいし、物をよく知っているし、記憶力がいいし、気も利くし。
金吾さんのゴルフ仲間の社長さんが、巳影君を秘書に欲しいっていった気持がよくわかるわ」
宮子は巳影の肩に手をおいた。
「ねえ、巳影。あなた、どこかにお勤めしたら? 家守なんて、あなたじゃなくてもいいじゃない。あなたが家守なんて役不足よ」
「俺は今の生活が好きなので」
「家守なんて肩書より、上場企業の社長秘書っていう肩書の方がよっぽど役立つわよ?」
「家守の肩書の他に、税理士っていう肩書もあるんですけどね」
巳影は、鼻息を荒くする伯母から顔をそらした。
「那智、手、止まってるぞ」
二人の様子をながめていた那智は、あわてて箸を動かした。その拍子に、みそ汁をこぼし、手を濡らす。巳影がすぐにその手を拭いた。
「おばさん、まだ話があるなら、後にしてもらえますか? まわりがうるさいと、那智、気が散って食事が進まないので」
「宮子の声は高いから、耳に響くんだ」
宮子は四十を過ぎているものの、若々しさを保っている顔をひきつらせた。
「悪かったわね。うるさくして」
「うるさいとは思ってないぞ。
……宮子、今はイライラする時期なんだな。体のにおいが変わった。汗がよく匂う。生理が近いんだな。いつもに増して声がきついのはそのせいか?」
宮子は怒りを爆発させた。
「当てるなら、もっとましなことを当てたらどうなのよ。この家の神様らしく。もっとこの家に役立つようなことを」
那智はあごに手をあてた。
「今日は午後から雨だぞ。それも大雨。肌がぞわぞわするし、湿気が多いし、土のにおいが濃い」
「知ってるわよ、そんなこと。天気予報で台風が近づいているっていっているんだから」
宮子はこれ見よがしにため息を吐いた。
「まったくもう。本当に役に立たないんだから。何がキタリド様よ。巳影の方がよっぽど頼りになるわ」
宮子は憤然と去っていき、那智は大きな目をしばたかせた。
「宮子は何であんなに怒りんぼなんだ?」
「おまえ、自分が怒らせているっていう自覚が皆無なのな」
巳影は額を押えた。ともかく朝食を食べろ、と那智をうながす。
「おまえが食べ終わらないことには、俺も飯を食えないんだから」
「わかった。――巳影」
那智は卵焼きを一切れ、巳影に差しだした。
「弥生の卵焼きはおいしいから、うっかり全部食べてしまう。これだけ先に食べろ」
「そりゃお気遣いどうも」
那智はすべての器に、一度は口をつけてから、手を合わせた。膳を巳影にゆずる。
「なあ、巳影。ひょっとして宮子は、那智のことが嫌いか?」
「おまえ、今さら気づいたのかよ。ひょっとしてもなにもなく、そうだよ。おばさんはおまえのこと嫌いだよ。かなり前から」
「そうだったのか!?」
「おまえの率直すぎる口も悪いけど、キタリド様っていう風習が、受け入れられないんだろうな。
この家で生まれ育ってきた金吾おじさんとちがって、宮子おばさんは、都会生まれの都会育ち。外から嫁いできた人だ。
おまえみたいな現代に合ってないモノを、自分の中でどう処理したらいいか分からなくて、イライラするんだろ」
巳影は煮物の器を、目の高さにまで上げた。小鉢は骨董品で、キタリド様専用だ。
「おまけに、何をせずとも、おまえだけ特別扱い。
家の中に、自分の娘よりも優遇されている年頃の娘がいるっていうのは、母親として、この家の女主人として、穏やかじゃいられないだろうよ。
いつだったか、おばさんがじいさまに抗議していたよ。正月、おまえに新しく晴れ着をやるときには、自分の娘にも買ってやってくれって。あなたの孫でもあるんだからって。
もちろん、じいさまは、キタリド様と孫を同列にするなって怒った。
おばさんはしおらしく頭を下げていたけれど――その顔ときたら、夜叉か般若って感じだったな」
巳影は目線を上向けながら、ぽりぽりと漬物をかじる。
「じいさまがいなくなっても、金吾おじさんがいたから、おばさんもあからさまにおまえを邪険にしてはこなかったけれど。
おじさんが長期入院で、家からいなくなったら、途端に態度に表してきたな。先が思いやられるよ」
巳影は、眉間にしわを寄せている那智の頭に手を置いた。
「大丈夫だよ。おまえのことは、俺がちゃんと面倒見るから。おまえ一人養っていけるくらいの技能は身につけているし、貯えもある。心配するな」
「巳影、那智が言いたいのはそういうことじゃないぞ。
話が長いから、もっとわかりやすくしてくれってことだ。
宮子が那智を嫌う理由を、十文字以内で教えてくれ」
「は?」
「ちゃんと聞いてたんだぞ。聞いてたんだけど……話が長くなってくると、言葉は耳に入ってくるんだけど、意味が理解できないというか。言葉が上滑りするというか」
「……おまえがバカだから。以上」
「了解した!」
那智は理解できた喜びをあらわにしたが、巳影は通じ合えない絶望をあらわにした。
「おまえが家を守る神様だなんて、冗談もいいところだよなあ」
巳影のぼやきは、湯飲み茶わんの湯気とともに空気に溶けて消えた。
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