第4話 私には無理だよ、セイブ・ザ・クイーンだなんて
十月二日(水)
◆いじめられっ子と正義のヒーロー◆
「タマタマー。アンタさっき私らの事、睨んでたよね」
「い、いや。そんな事はないんだけど、その――」
珠子は作り笑いを見せて俯いていた。数人と言っても相手は三人なのだが、珠子は恐くて顔を上げられず人数も分かっていない。
「ああ、何だって。聞こえないんだけど」
ごめんなさいっ、と反射的に言って顔を上げる珠子。
中学二年にしては背の低い珠子にとって、詰め寄る三人の同級生は巨人のような威圧感があった。
「あの、富田さんとは偶然目が合っただけで、その。睨んだりなんか、してないよ。はい」
暴走族の人と付き合っているらしいから、三年生の先輩でも菜美絵を恐がっている。誰も菜美絵には逆らえない。そんな彼女に珠子は目を付けられていた。
「はあ? 目が合ったってのに無視ってワケ」
「そ、それは、その……ごめんなさい」
珠子はまた謝った。その様子を菜美絵と取り巻き達は鼻で笑って見ていた。
珠子は体が小さい上に気が弱い。自分に自信を持てなくて、勉強もスポーツも何をやっても上手くいかない。
おまけに玉川珠子という変な名前が大嫌いだ。珠子はコンプレックスの塊だった。
「何なのその謝り方。誠意ってモノがないんだけど」
え……、と弱々しく顔を上げる珠子。
菜美絵達が威圧的に顔を綻ばせていた。珠子も媚びるように作り物の笑顔を見せる。
「何笑ってんのよ。土下座しなさいよ」
「え。こ、ここで……」
女子トイレの床は汚い。珠子は足元に目を遣った。タイルは湿っているし、髪の毛や泥も落ちている。
「早くしろって言ってんだろ」
取り巻きの女子が声を荒げた。
珠子はびくりと肩を震わせて縮こまる。上目遣いに様子を窺うと菜美絵と目が合ってしまった。
こわい――。
咄嗟に顔を伏せると、菜美絵に髪の毛を掴まれた。
「やれって言ってんだよ。土下座」
珠子の耳元で菜美絵は巻き舌で囁いた。珠子は恐くて声も出せない。菜美絵が手を放すと、珠子はまた媚びるように笑みながら汚いタイルに膝をついた。手のひらを地面に当てて深く頭を下げる。
「ごめんなさい……」
「もっと頭下げろって。誠意が伝わってこねーよ」
珠子は地面に額を付けた。じゃりじゃりと砂の感触があった。
「ごめんなさい……」
また謝った。
なぜ謝っているのか珠子自身にも分からない。ただこうして情けない恰好をしていれば恐い事も過ぎ去るのだと思っていた。その証拠に菜美絵達は愉快そうに野卑な笑い声を上げている。
ほら、楽しそうに笑っている。
誰かが頭を踏みつけている。
きっと菜美絵だ。他の二人も交互に踏んでいる。珠子は奥歯を噛みしめて目を固く閉じ耐えていた。悔しいなんて思わない、ただ痛くて恐いだけ。
痛いけれど恐いけれど我慢だ、我慢。
「タマタマは素直な奴だねマジで」
髪を引っ張られて顔を上げさせられた。それでも珠子はニコニコ笑っている。すると顔にモップを押し付けられた。
「汚れたから洗ってやるよ」
トイレの床を磨く汚いモップだ。
かび臭い湿った毛先が口や鼻の中にも入ってくる。珠子は抵抗せずに耐えていた。さらにホースで水を掛けられる。モップからは灰色の水が染み出してくるし、もう最悪。
休み時間終了のチャイムが鳴ると同時に、菜美絵達の手が飽きたかのように止まる。
「じゃあ後は片付けといてね」
菜美絵達はケラケラ笑ってトイレから出て行った。ようやく終わった。
珠子はよろよろ立ち上がって辺りを見回す。制服がびしょ濡れだ。スカートの裾から水滴がひたひた落ちる。珠子は出しっ放しだった水道の蛇口を締め、ホースを丁寧に巻く。
モップの水を絞って掃除用具箱に戻した。
手を洗いながら、少しだけ泣いた。
更衣室で体操服に着替えて二年一組の教室に戻ると、四時間目の英語の授業が始まっていた。
ドアを開けた瞬間、クラスメートの視線が珠子に集中する。
「玉川。どこ行ってたんだ」
先生が不思議そうに尋ねる。
「ええと、その。お腹が痛くて保健室に……」
「ところで何で体操服なんだ」
また先生が不思議そうに尋ねる。
「ちょっと汚れちゃったんで……」
小さく頭を下げて席に戻る珠子。後ろの方の席から菜美絵と取り巻き達がニヤニヤ笑いながら呟いた。
「お腹が痛くて、それで制服を汚しちゃったって?」
「ええ何それ。もしかして漏らしちゃったの」
「きたなーい。そういえばタマタマってトイレくさーい」
わざと周りに聞こえる声で言っている。
クラスのあちこちからクスクス笑いが起こった。珠子は席に着いて俯くしかない。口唇を噛み締めて耐えるしかない。
好奇の視線と嘲笑に押し殺されてしまいそう。
ふと別の種類の視線を感じた。珠子は弱々しく右側を見る。
四つ隣の席の
その目は珠子を嘲笑っているのでも同情しているのでもない。珠子と目が合うと、拓真は不自然なくらい咄嗟に目を逸らした。すると今度は菜美絵達に視線を向けて目を細めていた。
何なんだろう……。
珠子は肩を竦めて教科書を開く。
『Lesson5 不定詞と動名詞』
しかし授業の内容は頭に入って来ない。
顔を上げると、また拓真がこちらを見ていた。珠子と視線が交錯するとすぐに顔を伏せる。
拓真とは二年になってから初めて同じクラスになった。小学校も別だったので一度も話した事はない。だから珠子は拓真の事を何も知らない。真面目な男子だという印象はある。
勉強ばかりしているという真面目さではない。何事に関してもズルや手抜きやルール違反をしないという真面目さだ。
珠子の苦手なタイプだった。
恐そうだから。
やがて四時間目終了のチャイムが鳴る。
クラスメート達は弁当を持って友達の席と机を付けたり、競走のように学生食堂へ駆け出したりする。
珠子はナップザックを持って、こっそり教室を出てゆく。
階段を降り、二階の廊下をこそこそ進み、音楽室の前の女子トイレに入った。ここなら誰も来ない。個室に鍵を掛けて蓋をしたままの洋式便座に腰を下ろし、膝の上に弁当を広げた。
友達のいない珠子は毎日ここで弁当を食べている。
弁当と言っても冷凍食品を解凍しただけの物。母は弁当など作ってくれないので珠子が毎朝自分で用意している。
卵焼きを口に運ぶ、味がしない。
白身フライを口に運ぶ、味がしない。
何を食べても味がしない。
両親は珠子に関心がない。
それは父と血が繋がっていないからか、珠子が母の連れ子だからか、自分の存在が邪魔だからか。
珠子はそう考えていた。
無味乾燥の弁当を食べ終えた珠子は弁当箱をナップザックにしまう。まだ昼休みは続きそうだ。
早く終わらないかな、と溜息をつく。
ナップザックの中に手を入れると、指先に固い板のような物が当たった。
これは……。
珠子はもう一度溜息をついて取り出した。ペンケースほどの大きさの木箱だ。珠子は膝の上に置いて蓋を開ける。
中には銀の指輪と青い石の首飾り。
「私には無理だよ、セイブ・ザ・クイーンだなんて……」
珠子は消えるような小声で呟いて頭を抱えた。
やっと六時間目が終わった。
終業のホームルームで先生が何か言っている。
「最近、物騒だからな。用がなければ夜に出歩かない事。ニュースでもやってるだろ、赤槻の爆弾魔だっけか。お前らも通学途中に変な物を見つけても迂闊に触らない事。すぐに警察に通報するんだぞ、分かったな」
それじゃ起立――。先生が号令をかける。
ホームルームが終わると、珠子は逃げるような早歩きで教室を出て更衣室に向かった。
窓際に干しておいた制服はまだ湿っている。じっとり心地悪いセーラー服に袖を通し、珠子は浮かない顔で校門を出た。
帰ったら何をしよう。
家でも珠子は邪魔者扱いだ。母が再婚し、新しい父との子供が生まれてからは更に珠子の居場所はなくなった。母と、血の繋がらない父と、十歳離れた弟。珠子は彼らに遠慮しながら生きている。
重い足取りで横断歩道を渡ろうとすると背後から声を掛けられた。
「おーいタマタマ」
この声は……。
振り返ると菜美絵とその取り巻きがいた。
「と、富田さん」
「ちょっと付き合いなよ」
断れない。
珠子は無理矢理の笑顔を作って頷いた。
菜美絵は珠子の肩を抱いて歩き出す。友好的に肩を抱いているのではない、逃げられないように捕まえているだけだ。
改めて近くで菜美絵を見ると化粧が濃いし、両耳にピアスも開けている。吊り上がったアイラインが威嚇的に見えた。
菜美絵達はコンビニの前で立ち止まる。
「ちょっとノド乾いちゃったんだけどさ。タマタマ、ジュース買ってきてよ」
「そ、そんな。お財布持って来てないよ」
珠子の言葉が尻すぼみに小さくなると、舌打ちした菜美絵が珠子の耳を引っ張った。
「盗れば良いじゃん。万引きぐらい出来んだろ」
「え、そんな――」
珠子が眉を寄せると「私、レモンティーのパックのやつ」「アップルジュース」「あとフルーツタルトも三つ」と菜美絵達がお構いなしに口にする。
そして菜美絵が耳元で囁いた。
「ゴチャゴチャ言ってないでさっさと行け」
珠子は渋々コンビニへ入った。逃げようと思っても外から菜美絵達が見張っている。
どうしよう、本当に万引きしなければいけないのだろうか。
断れば菜美絵に何をされるか分からない。暴走族の彼氏も出てきて、もっと酷い事になるかもしれない。珠子は泣きそうだった。
他に客はほとんどいない、店員もレジにいるおばさんだけだ。珠子は生唾を飲んで胸に手を置く。心臓が激しく跳ねていた。ナップザックを胸の前に掛けて口を少し開けておく。珠子は店内の様子を確認しながら歩いて行った。
ドリンクコーナーに500mlパックのレモンティーがあった。珠子はパックを手に取り辺りを見渡す。レジのおばさんは接客中で防犯カメラも向いていない。
今しかない――。
珠子はパックをナップザックの中に突っ込む。
すると誰かに腕を掴まれた。
ひぃ、と小さな悲鳴を漏らして目を瞑った。その手は珠子の手首を強く握って離さない。
ごめんなさいごめんなさい、と心の中で何度も叫んだ。
「何してるんだ玉川」
知っている声だった。
右目左目の順にゆっくり目を開けると、珠子の腕を掴んでいたのは同じクラスの日向拓真だった。
拓真はナップザックからパックを抜き取り棚に戻す。
「玉川。どういうつもりなんだ」
拓真の厳しい視線に晒されて、珠子はいつもよりも小さくなって項垂れる。何も言えない。拓真は辺りを見渡し、やがて店の外にいた菜美絵と取り巻き達を見つけた。
「なるほど。そういう事か」
拓真がきつく睨みつけていると、菜美絵達は不愉快そうに顔を歪ませてどこかへ行ってしまった。
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