2-1.

 ……布団がもぞもぞと勝手に動いている。

 僕は目を開かずに顔をしかめる。原因に心当たりがあるが、今はまだ眠いのだ。


「ねー、起きてるんでしょー? 早く早く」

 僕の頬をプニプニと刺す指先。その冷たくて細い感触を味わいながら、けれど目は頑として開けなかった。

「もー、何? 朝勃ち?」

「――女の子がそう言うことを口にするものじゃない」

 僕は思わず布団を跳ね上げて、彼女をジト目で睨み付けた。アセビは少し面食らった後、悪戯っぽくニヒヒと笑った。

「女の子だって下ネタくらい言うよ?」


 黒いセーラー服、肩まである黒髪、整った顔立ちの上で、コロコロと変わる豊かな表情。桃園アセビが腰に手を当てて、僕が寝るベッドの脇に立っていた。


「やめろ、僕は聞きたくない」

 女の子の体からは花の匂いがする――なんて、童貞染みた妄想を信じたことはないけれど、少しくらいは夢を見させて欲しい。

 寝ぼけ眼の中、僕は昨夜の情事を思い出す。……嗚呼、なんだってこんな時に嫌な事を思い出してしまうんだろう。

 背中にじんわりと罪悪感からの汗を掻く。彼女は僕が覗いている事など知りようもない。けれど、昨夜は、少し違っていて――、


「さあ、早く起きてっ。今日はオムレツがいいなー」

「……そう言って、毎日喰ってるだろうが」

「だって、シクラのオムレツ、美味しいんだもん」

 いつもと変わらないアセビの声。僕は少し安堵して、思考を中断した。ベッドからいそいそと這い出し、寝癖だらけの頭を掻いた。


 アセビは毎朝、僕を起こしにくる。僕が作る朝食を目当てにしているだけで、色っぽさは欠片もない。畜生め。しかし習慣になってしまうと、何事も受け入れられるものだった。

 僕はアセビにトーストを作るように指示し、冷蔵庫から卵を取り出し、彼女が好きなオムレツを作り始める。

 ジーというトースターの音。卵が焼けるジューという音。薬缶が水を湧かす音。毎朝変わらないBGM。

 ……昨日のアレはなんだったんだろう。どういう意味だったんだろう。なぜ、彼女はあんな事を口走ったんだろう。考えても考えても、答えを得られる筈がなかった。


「ねえ」

 アセビが僕を呼ぶ声に、思わずビクッと跳び上がる。

「な、なに?」

「ちょろっと焼け過ぎちゃったんだけど、いい?」

 そう言って、アセビはトースターから取り出したパンを見せる。

「…………」見事なくらいに黒かった。ある意味芸術的だと言っても過言ではない。「アセビって……、器用なくらい不器用だよね」

「なっ、なにそれどういう意味!」

 そのままの意味だよと口の中で呟いて、出来上がったオムレツを皿に乗せ、アセビへと渡した。膨れ面だった彼女の顔が一瞬の内に輝いた。

「うわー、オムレツが綺麗な色してんなー。シクラってさ、女子力高過ぎだよね」

 オムレツ一つで「高過ぎる」という評価を下すお前のレヴェルが低過ぎるんじゃないかと、素直な感想を口にしたら、どうなるだろうか。彼女の不吉な『予測』で、それが嘘か真かに関わらず、僕は今日一日を戦々恐々の思いで過ごさなければならなくなるだろう。

 二人で手を合わせ、朝食を摂る。オムレツの中にチーズを入れていた事に、アセビは絶賛の雄叫びを上げた。朝から声がデカ過ぎる。僕は苦いトーストを噛みながら、笑顔を振り撒くアセビを見つめ続けた。


 僕とアセビは幼稚園時代からの幼馴染だ。それはイチイも同じだった。三人はほとんど一緒に過ごしてきた。笑い合ったり、喧嘩したり、見栄を張り合ったり、なんだかんだあったけれど、楽しい日々を共に過ごした。

 しかし、そんな日々も唐突に終わった。僕らが八歳になった頃、まずイチイが『能力』に目覚め、《ネヴァーランド》へと送られた。それから二年後にアセビが、更に遅れて五年、十五歳になった僕もようやく彼女達と再会した。


 ――《ネヴァーランド》。『能力』に目覚めた子供達を隔離する為のドーム状の建造物。広大な敷地は、国と言って過言ではない広大さを誇る。ドームの東側を学校、住居、商業施設、銀行、各種行政機関など生活に必要なあらゆる施設が、反対の西側には水道、ガス、電気、工業、食物などの生活基盤を形成する為の施設が占めている。要するに、このドームの「中」と「外」とでは、細かい事を除けば、ほぼ同質の生活が送れるようになっているのだ。


 ならばなぜ、子供達を隔離する必要があるのか。それは単純に彼らの身の安全を保障する為に他ならない。


「外」では『能力者』を危険物として排他すべきとする『活動家』達と、『能力者』は人類の新たな到達点として崇めるべきとする『宗教家』達との間で戦争が起きている。小さな諍い程度だったその争いは、場合に因っては互いの命を奪い合う事すらあり得る危険なレヴェルにまで到達してしまった。

 その戦争の魔の手から『能力』に目覚めた子供達を守る為、一時的に隔離する要塞――、それが《ネヴァーランド》だ。

「中」に住まうのは、十代から二十代の子供だけ。建造物の名を童話から取った理由がそれだ。

 子供達だけの、束の間の安全を保障する夢の国。


 既に一年をこの「中」で過ごしたが、やはり空が見えないというのは息苦しい。部屋の窓からは人工の陽光が差しているし、夜になれば人工の星空が光るけれど、それらはどれも偽物で、景色が大変によろしくない。

 叶うならば、少しでも早くここから出たいところだけど――。果たして、そう思っている子供達はどれ程いるのだろうか。


 この「中」ならば、『活動家』に怯えながら『能力』を使う必要はない。――と言うか、使いたい放題だ。それを犯罪の為に使用して、他人を傷付けてでも得をしたいという欲求にも確かに頷ける。けれど、それを実践してしまうかどうかは別問題だ。

 そうして実践をしてしまった彼らを捕まえる為に、『能力者』が各々集まった自警団として――、『チーム』がある。


「そう言えば、今日だね」

「何が?」

 僕の言葉に、アセビが首を傾げる。

「ホラ、月次結果発表」

「ああ……」

 アセビが苦笑いを零した。


 今日は『チーム』の月間成績が順位付けされて発表される日なのだ。つまり、イチイの高笑いを聞く羽目になる。


 朝食を摂った後、皿を洗うのはアセビの仕事だ。僕はその間に寝癖を直し、寝巻から詰襟へと着替える。

「行こうか」

 デイバッグを背負い、僕はアセビに声を掛ける。彼女はトートバッグを肩に掛け、一目散に外の廊下へと飛び出した。一々の所作が元気いっぱいで、僕は知らず笑ってしまう。戸締りを確認してから、彼女の背を早足になって追い掛けた。


 ――僕の先を歩き、新しい世界へ連れ出してくれた彼女。


 彼女は今も変わらず、僕の前を歩いて、そして振り返って微笑んでくれる。

 それが僕には堪らない。堪らなく、彼女の事が――好きだった。

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