第31話 伝えるハート、子猫の居場所

 最初の印象は、疲れた人。猫背で、溜め息を吐いて。背骨ごとポキンッと折れちゃいそうだった。

 だから、スマホと財布を置いてトイレに行っちゃうところを見て、すぐ隣に座った。イヤなことでもあったんだろうか。それでもし財布を盗られでもしたら、あの人ほんとに折れちゃいそうだ。

 戻ってきて、そのことを指摘すると。


「すみません、ありがとうございます!」


 きっかり九十度、頭下げて来た。ここまで感謝されるとは。別に落としたのを拾ったわけでもなく、ほんの数分守ってあげただけだ。こっちの取り越し苦労で、盗られない可能性だってあったのに。

 でも、感謝されたことで、うちは生きてるって感じがした。こんな自分でも、誰かの役に立てたんだ。大したことない小さな親切だけど、うちにもできた。それが、なんだかうれしかった。

 気付くと、話しかけていた。うちは不安だったんだ。根なし草なんてそう長く続くはずがない。簡単に破綻する。氷の上に立っているんだ。氷が解けるか、うちが滑って落ちるか。少しでも紛らわしたかったんだ。

 まあ、話しやすい人だったてのはある。見るからに草食男子で、女慣れしてなさそうなカンジ。実際、ナンパの文句の一つもなかった。


 その分、家に誘われた時はビビった。

 純粋に、そんな思い切ったこと言える人なんだなって。でも、同時に理解していた。朝也さんは優しくて真面目な人であることは、話してれば分かる。律儀だからこそ、自分を傷付けているけれど。

 初めてなんて、後生大事に持っておくものでもない。王子様は現実にはいやしない。まして、高校も卒業して子どもじゃないんだ。将来を誓い合ってもない付き合いたての彼氏に、合コンなりイベントなりで知り合った人に、ノリであげてしまっている人だってたくさんいる。

 朝也さんならいいや。あげてしまっても。こんな優しい人なら、後悔はない。だから、堂々とラフな格好でいた。友達ですらない関係なのに、無理なお願いを申し出た。うちの体を差し出す代わりに住む場所を得る、分かりやすい等価交換。

 

 でも朝也さんは、本当にうちのことを心配して、応じなかった。

 不器用な人だ。そろそろ報われてもいいんじゃないか。うちの唯一の自慢は、かわいい方の人間であることだ。実際、ナンパはしょちゅうだし、スカウトだって受けたことがある。スタイルも悪くないはずだ。……おっぱいは自信ないけれど。うちが朝也さんにあげられるのは、この体くらい。気持ちよくなるために、うちを使ってくれてもよかったのに。

 朝也さんだから、そうしないんだろうな。

 失敗した。朝也さんに優しさに、誠実さに触れる度、王子様に見えてきてしまった。あばたもえくぼってヤツなのかな。要領の悪いところも、かわいい。つい独占したくなってしまう。傍よりももっと近く、心も体も自分と重ねたくなってしまう。もっとも、朝也さんはうちを恋愛対象として見てくれなかった。あくまで保護対象。だから、いけないと分かっているのに、棘を刺してしまった。

 逆に、それでいいかもしれない。面倒くさい女で。朝也さんがうちを疵物にできないと言うなら、うちは朝也さんの枷になりたくない。捨ててもらって構わない。

 朝也さんはもっとほんわかして、包容力のある人と付き合うべきだ。派手じゃなくても、良妻賢母になりそうな人。それで二人くらい子どもを作って、なんだかんだでオシドリ夫婦のまま一生を終えるべきなんだ。母親と小さないざこざで家出してるような女じゃ釣り合わないよ。

 ――なのになんで、うち、ここに来てるんだろ。



「隣、いいですか?」


 伊月と初めて出会った場所。プチストップ西池袋五丁目店のイートインスペース。伊月は何も言わず、俺を一瞥した。せっかくの冗談を流すなよ。


「シフト表見たよ。どこいってたんだよ、今日は」

「友達と会ってた、しばらくお世話になるからさ」


 頬杖を突いたまま、伊月はパックジュースのストローを口に運んだ。俺もコーヒーを一口すする。


「それにしちゃ、いやに顔が浮かないな。……なんでお互いこう、顔に出やすいんだろうな」


 ははっと乾いた笑いが出た。伊月は笑わなかった。


「友達がね、結局元鞘に戻っちゃって。やっぱ日野さんみたいに、恋人同士って磁石みたいなもんなんだね。衝突するとすぐ離れて、でもどっちかが向きを変えるとすぐくっつくんだ」


 やっと、伊月から苦笑がこぼれた。


「でも大丈夫だから。お金あるから何とかやりくりして、朝也さんの迷惑にかからないようにするから……」

「最初の取り決めと違うだろそれじゃ。年明けに一人暮らし始めるから、それまでって話だったろ?」

「だって、つまんないんだもん」


 わざと澄ました横顔。分かりやすい。


「朝也さん、ヘタレなんだもん。一緒に住んでるのに、求めてこないし。誘っても来てくれないし、傷ついちゃった」

「対等とは言えない関係だ。それでやっても、お互いによくない」

「またそういう風に言って逃げるんだから」

「……そうだな、逃げてばっかりだ、俺は」


 コーヒーをまた一口。苦みが心地よい。


「もういっそ、お前に甘えることにした」


 伊月の横顔を、真正面から捉える。


「俺にお前を守らせてくれ。お前が独り立ちする、年明けまで」

「……なにそれ、きもい。自己満じゃん、オナニーじゃん」

「ああ、そうだよ」


 肯定する俺に、伊月はちらりと目をくれた。


「自己満だ。結局、最初から根は変わってないんだよ。お前がどっかでレイプなんてされたら、俺が耐えられねえんだ。このままじゃ俺が心配で、俺が疲れるんだよ。俺のためにきてくれ。それくらい、お前のことがほっとけないんだ」


 ただ子どもみたいな、わがままな願い。

 知ったことか。誰が何と言おうと、きっちり自立する姿を見届けるまで、俺はこのねこギャルの手を放したくないんだ。


「……」


 伊月は目を丸くして、真正面から俺を見据えた。

 それでも、決めるのは伊月だ。俺は言い切った、これでダメでも……前より少しだけ、何かをつかもうとする人間になれる。そんな気がする。


「……はは、何それ、ほんとキモッ」


 泣きそうな目で、噴き出した。


「むかつく、自分だけ言いたいこと言って。これ以上、朝也さんに甘えられないんだってば」

「いつも洗濯も掃除もしてもらってて飯までうまいんだ、もっと俺に甘えていい。そして互いに甘えて甘えられる関係……それでいいじゃんか。一人でずっと肩ひじ張りあってても、疲れるだけだ」

「……甘えても、いいの?」


 頬杖をやめて、上目遣いで俺を窺う。


「今さらだよ」

「朝也さんが、損するんじゃない?」

「相手の甘えに甘えるかは、本人が決めるってことで」

「なにそれ、もっと学のない人にも分かりやすく言ってよ」

「つまり、お互いに甘えていいけれど、お互いに譲れないところは譲らないってことで」

「……じゃあ、朝也さんのこと、落としていいんだね?」


 不意に、耳元に寄ってくる。


「エッチしたら、彼女にしてくれるよね。好きなんだもん。うち、そこ譲れないから」


 耳がくすぐられる。同じことをされたのに、慣れない。心臓が跳ねる。

 こんなかわいいギャルに告白されて、イヤな男なんていない。

 けれど、今の俺はフン、と鼻を鳴らせる。


「迫られても俺のルールはぶれないよ。同居中はやらない。そこは譲らない」


 ペチン、と鼻の頭を人差し指で弾かれた。


「言ったな、この」


 ニヒヒっと、やっといつもの顔に戻る。暖かい、元気になる顔だ。


「言っとくけど、うち、結構面倒くさい女だよ。分かってる?」

「知ってる。それを承知の上で守るって言ってんだ。今さら、捨てるか」

「……やっぱ、朝也さんなんだ」


 伊月は頷くと、一気に上へ腕を伸ばした。伸びた猫のごとく。


「なんか、疲れちゃった。帰ろうよ」

「そうだな。あ、でも、たまにはこのコンビニでちゃんと弁当買ってくか」

「それな! いつも長居して悪いもんね」


 お互いに弁当を選び、並んでコンビニを出た。店員さんは何も驚かずただ当たり前に対応したけれど、そういうものだ。世界が大きく変わったわけじゃない。それでいいんだ。


「……朝也さん」

「何?」

「……なんでもない、呼んでみただけ」

「なんだよ」


 伊月が寄ってきて、俺の腕にくっつく。まるで気まぐれな猫が甘えてくるように。

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