第30話 ベッドが届く、彼女は遠く
目は覚めていたが、もう少し眠っていたかった。
「……はぁ」
――嘘だ。伊月の顔を見るのが怖いからだ。どんな顔すればいいのか分からないからだ。
また溜め息を吐いて、俺は布団を被った。足音が聞こえる。そして、ガチャリと玄関のドアが開き、閉じる音。
「伊月……?」
まさか、もう出て行った、のか!?
そう思うと、布団を跳ねのけていた。伊月の部屋を開ける。
衣類が几帳面に畳んである、整頓された部屋。寝袋の隣に、キャリーケースが置かれていた。
……落ち着け。思えば今日は日曜だ。バイトの日じゃないか。
戸を閉める。テーブルに置いてあった朝食を片付けることにした。
スクランブルエッグにウインナー、大根サラダ。今日は洋風だ。パンを焼いてスクランブルエッグを載せて食べる。普通に、おいしい。本当に普通で、おいしい。
――伊月が出て行くと決めたんだ。俺はやれることをやったんだし、いいじゃないか。
皿を洗う。水が排水口へと流れている様を何んとはなしに見つめていた。
マーガリンを戻しに、冷蔵庫の扉を手にかけた。ふと、マグネットで留められたシフト表が目に入った。十月九日に蛍光ペンで書かれている文字。
『林田さんと交代、休み』
……今日は休みだったのか。
だからなんだ。荷物はあるし、出て行ったわけではない。あいつにだって一人で外出したい時も用事もあるだろうに。いや、出て行ったところで……俺が止める理由も資格もないんだ。
テレビを点けるが、すぐ消した。スマホを見るのもうざったい。
ただただイライラする。頭を掻いた。血が出るかと思うほど、強く掻いていた。
ピンポーン、と不意の呼び鈴。すぐにドアを開けた。
「浅井朝也さんにお届け物です」
作業着の配達員が立っていた。伊月じゃない。当たり前だ。呼び鈴を鳴らす意味が分からない。
「……え、すみません、差出人はどなたですか?」
しかし、何か注文した覚えはない。しかもよく見れば配達員二人がかりで、バカでかい段ボールと丸い布の塊を持っている。
「日野駿さん、とありますが。ベッドと布団セットのお届けです」
戸惑いを隠せない配達員とは裏腹に、一気に腑に落ちた。日野ならあり得る。サプライズとか称して、事前に連絡してこないなど、容易に考えられる。
突っ立たせていても失礼だ。とりあえずリビングに置いてもらった。そして速攻、日野に電話する。
「あー届いたか! 呑んでた時に伊月ちゃん寝袋で寝てるって聞いて、サプライズプレゼントってわけ。埋め合わせも兼ねてよ。いつもまでも寝袋じゃ疲れちゃうだろ。独り立ちする時になったら、伊月ちゃんが持って行ってもいいしお前が使ってもいいし。そこは任せるよ。あー、金の事は心配すんな! 実はポイントが使い道なくて貯まったまま有効期限迫ってたんだ。むしろちょうどよかったよ」
一方的にまくし立ててきた。こちらは驚いただけで何も損はしていない。だから呆れこそすれ怒る理由はない。
「ありがとよ。でもサプライズは余計だから。こういうのは事前に連絡してくれ、頼むから」
事実を言って電話を切る。
伊月にプレゼントされたものだ。だから伊月の部屋に持っていく。
「……」
気付くと組み立てていた。どっちみち、今日は予定などなかった。いい暇潰し。説明書を見ながらの無心の作業は、むしろ心地よかった。
布団もビニールを開け、ベッドに載せる。ビニール袋やら段ボールやらを片付けると、入口からすぐの壁際に晴れてベッドが完成した。
座ってみる。新品の敷布団は、俺のせんべい布団とはまるで違い、ふかふかだった。
あらためて伊月の部屋を眺める。キャリーケースだけがあるだけで、殺風景だった。本棚もなければ机もなく、かろうじてカーペットがあるだけ。当たり前だが、キャリケース一つで家に来たのなら、キャリーケース一つで出て行けるわけだ。
時間は午後四時。油断していれば、すぐに夕闇に包まれる。そんな時分。
「……?」
ふと、窓際に見覚えのあるものがあった。手に取って確かめる。
「……なんで使わなかったんだよ」
俺が誘った時に渡した、つっぱり棒だった。封すら開けていなかった。ビニールに包まれて、片方の端にはホチキスで紙の札が付いたままだ。商品棚に吊られていた、そのままの姿。
じゃあ、俺は伊月を抱いてよかったのか? それが伊月のためになったのか? 少しでもお互いに好意があるのならむしろするべきだったのか? その方が割り切れたのか?
――やっぱりダメだ。
伊月が、じゃない。俺が自分を許せないからだ。そして疲弊する。イヤだ。疲れるのなら、納得して疲れたい。
あいつは、伊月は、妙に律儀なやつだ。俺と別れて、今度こそ等価交換の名分で体を差し出すかもしれない。自分を傷付けることを、平気で選ぶヤツだから。
伊月を守りたい、たとえそれが自己満足だとしても、これだけは本物だ。
譲れない、一つの思いだ。
スマホを手に取った。ラインメッセージを送るが、既読スルー。
でも、どこにいるか見当は付いていた。あそこしかない。
俺はスニーカーをつっかけて、家を出た。
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