第28話 三つの頭、前を行く背中

「う、鶏皮食べすぎた……」

「ばかだね~」


 半分冗談で、半分本当だった。調子を戻したかった。伊月もそれを察してくれ、呆れて笑っている。


「……ちょっとごめん」


 尿意まで来た。伊月に断って、近くの書店に駆け込む。ビル一棟ある有名な店舗だ。申し訳ないが、トイレ貸してもらおう。

 三階まで上がって、無事に用を足しトイレを出る。伊月が見当たらない。フロアを見て回るが、どこにも姿がない。ラインでメッセージ送るか……と、立ち止まった矢先。


「浅井さん」


 耳慣れた声。まさかと思って背後を振り向く。

 森谷さんが立っていた。


「え! どうしたんですか?」

「映画の帰りで……浅井さんがこの前話してた小説に興味があって、寄ったんです。そしたら、びっくりしました」

「いや、まさかですね」


 今日はブラウンのロングスカートに、紺のジャケット。当然食事会の時よりは着飾っていないが、素朴で素敵だ。


「浅井さんは、ここよく来るんですか? もしよろしかったら、その小説どこにあるか教えていただきたいんですけど……あまりこの書店来たことがなくて」

「あー、それならライトノベルコーナーにあると思います。漫画と同じ売り場なので、地下階ですね」


 とりあえず伊月が外に出ているとは考えにくい。そしたらラインにメッセージくらいあるはずだ。中のどこかにいるんだろう。後で落ち合えばいいか。

 森谷さんを連れて、エスカレーターで地下階へ。壁一面に設置されたライトノベルの棚から例の一冊を探す。奥まったところに面陳列されていた。少し前にアニメ化されたとはいえ、まだ売れ筋なのだろう。いわゆる悪役令嬢と言われているジャンルで女性向けレーベルから出ているが、コメディ要素が強く男性にも人気が高い一作だ。


「ありがとうございます。読んでみますね」


 手に取る森谷さんに、ふと不安が芽生えた。


「……あの、今さらですけど、ライトノベルとか馴染みありますか? あまり趣味に合わないものにお金使っても」

「そんなことないですよ。お色気を前面に出されると苦手ですけど、読んでるものもあります。『タイドラ』とか」

「あー流行りましたもんねあれ! よかった~お色気はないので、大丈夫だと思います」

「ホントに真面目ですね、浅井さんは」


 柔らかい顔がこれまた今日の服装に似合っていた。

 上がって一階のレジ。カバーまで付けてもらった一冊をハンドバッグにしまった。

 出入口の脇の壁際で、森谷さんは立ち止まった。


「……あの」


 もじもじして、指を絡ませている。飼い主の様子を窺う子犬のよう。つまり、めちゃめちゃ可愛い。


「……お会いできてうれしかったです」

「あ、ありがとうございます」


 感謝するのも返しとしておかしい。けれど、俺が彼女の心の中にいることには、絶対感謝しておきたかった。


「それでは、また――」

「あ、朝也さんいた。どこにいたのさ、も……」


 背後からの声。振り向くと、伊月が俺の後ろに立っていた。


「あっ……」

「えっ……」

「へっ……」


 三つの声が重なった。キョトンとしている伊月と森谷さん。

 俺は跳ね上がった心臓をなんとか制する。


「えと、あ、彼女は――」

「以前お話してた、一緒に暮らしてる方ですか?」


 にこやかな表情に戻る森谷さん。あわてて合わせる。


「その、そうです。えと」

「深見伊月と言いま、申します」


 伊月は前に出て俺に並び、頭を下げた。その顔は神妙というより無表情だった。


「私、森谷夕紀と申します。浅井さんと一緒の職場で働かせていただいてます。実は、お話だけは伺ってまして」

「……うち、わたしも職場でのお話は聞き、伺ってます」


 たどたどしい敬語の中にトゲを感じ、俺は反射で苦笑していた。

 もっと笑えるだろ、お前は。


「……なんかびっくりしちゃいました」

「え」


 森谷さんの言葉に、伊月はほんの少し顔を崩した。眉の力が抜けたように見えた。


「お話で聞いてるより、ずっとかわいいなって思って。すみません急に」

「……それはどうも、ありがとうございます」

「それでは長居も失礼ですので。まだ早いかもしれないですけど、お休みなさい」

「は、はい。ではまた月曜日」


 にこやかな顔のまま、森谷さんは手を振って店を後にした。俺も手を振って返し、伊月は軽く頭を下げた。


「……はぁ」


 あからさまに、伊月の肩の力が抜けていくのが分かった。


「……しっかりしなよ。駅まで送っていくところでしょここ」


 そして、俺に向けて眉を顰めた。


「ていうか、どこにいたんだよ」

「うちもトイレに行きたくなって。女子トイレは二階じゃん? で、用足して戻ってきたら朝也さんいなくて。とりあえず一階でスタンバってたの」

「ああ、すれ違ってたのか。ごめん」

「それより早く行ったら? まだ間に合うじゃん」

「……いいよ。別れのあいさつまでしたし、駅もすぐそこだし。それに、今日はお前を付き合わせてるから」

「……やっぱり、朝也さんって感じ」


 伊月は出入口向かって歩き出す。


「例の同僚さんでしょ」


 俺は伊月から一歩下がってついていく。


「……きれいな人だね。おっぱいもおっきくてさ。朝也さんのこと大好きって感じ」

「なんだそれ。容姿はともかく、一目見ただけだろ」

「見ればわかるよ。それに性格も最高じゃん」

「最高な性格ってなんだよ」

「うちのことお世辞でも褒めてくれてさ。……うちは、お世辞でも褒められなかった。地味なだけで、めちゃくちゃ美人だったの、すぐ分かったのに」


 言いながら、伊月は両腕を広げた。俺に並ばれるのを拒むように。

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