第27話 焼き鳥のタレ、根なし草のワケ
半休を取った火曜の夜。いつも通りの夕食。伊月は、一切月曜のケンカを引きずった様子はなかった。
しかし、克服してもいない。伊月の母親のことについては何も話していない。
まるで、何もなかったかのようにスルーしている。だからこそ、かえって俺たちにはしこりができていた。腫れ物を触るような、地雷を見極めるような、居心地の悪さ。
伊月にだって、それは分かっているはず。いいヤツだからこそ気付いているはずだ。
それを日野に軽く話し、意見を求めた。すると、
「やっぱそりゃ飯じゃねえか。深く考えずシンプルでいいと思うぜ。ただ、いきなり高級レストランなんて気後れするし不慣れだし、気軽なところでいいと思う。飯も食える居酒屋とかな」
なるほど、やはり一日の長がある。なると、俺がたまに行く『鳥男爵』ぐらいがちょうどいいか……。
そして水曜の夜。夕食の後、皿を洗う伊月に切り出した。
「次の土曜、外に飯食いに行こうぜ」
「外食? この前行ったじゃん、朝也さん」
「俺の予定だろ。伊月は行ってないじゃんか。一昨日看病してもらったお礼だよ」
「別にいいよ、それは」
「『鳥男爵』って居酒屋あるだろ? チェーンの安いところ。俺は下戸だけど、あそこの鶏皮は好きで、たまに無性に食べたくなるんだよ。そのサイクルが今来ててさ。自分だけ行くの変だろ、今回はお礼も兼ねて俺が持つよ」
「……わかったわかった。朝也さんってときどき頑固だよね~」
はいはいと頷く顔は、まだ繕っているように見えた。
当日。遠目パジャマ太郎にならないよう注意した。俺だって日々学んでいるのだ。グレーのチノパンと明るい青の長袖シャツで合わせる。。
伊月のバイト先の近くの公園で待ち合わせると、事前に予約していた最寄りの鶏男爵に時間ぴったりに入る。通されたのはカウンターの一番端の二人席。奥まった狭い所だが、その分話し声も漏れず周りの声にも邪魔されず、もってこいだった。
「皮の塩とねぎまの塩とももの塩……」
「え、塩ばっかじゃん! タレでしょ、焼き鳥って」
「タレ~? まずくないけどさ、口ん中甘くなってくるじゃん。それに、タレの味が欲しかったら蒲焼き食べた方がいいし」
「だったら塩だって家で塩焼きにすればいいじゃない」
……いかん、さらなる地雷を増やしてどうする。ここは大人が折れよう。
「……じゃあ、塩とタレ両方頼もう」
塩も譲れない。これが一番いい。
一気に串が並んだテーブルを、二人で片付けていく。伊月もなかなかペースが早い。バイト後は結構腹がすくからな、俺にも体験がある。
ドリンクが運ばれてきた。俺は烏龍茶、伊月はレモンスカッシュ。
「……悪かったな」
口を潤してから、俺は切り出した。
「え、何が?」
「何も知らずに、急に口挟んで」
謝るべきではないと、最初は思った。俺に非があると上辺だけ繕って折れても、お互いのためにならない。
けれど今は、張り詰めたままじゃ疲れる。スペースを空けてやりたい。伊月が入って来れるためには、俺が一歩下がらなくちゃいけない。
「……やめてよ。朝也さんにも背負わせようとしたのはうちだもん。だから聞こえるように言ったんだから」
俺から顔を逸らし、一口あおった。愁いを帯びた瞳。
いいヤツだ。もっと俺を叩いてくればいいのに。
「……ねえ、聞いてくれる?」
グラスを置き、向き合う。無言で頷いた。
「って言っても、別に重い話じゃないから、どこにでもある、よくある親子ゲンカ」
自嘲の笑みに、胸が縮まる。
「うちね、母子家庭なんだ。十歳までは両親もいたんだけど、お父さんの不倫が原因で別れちゃってさ。お医者さんで頭よくておおらかな人なんだけど、おおざっぱでもあったんだよね。うちは優しくて好きだったんだけど。それで、バランスが崩れちゃった」
ポツポツと語る。言葉が重なる度、深く水たまりとなっていく。
伊月の母・深見可奈子さんは、看護師の仕事の傍ら伊月を女手一つで育てた。ただ忙しかっただけなら、ここまでこじれなかったかもしれない。
端緒は、ずっとストレスを引きずっていたのか、離婚してから可奈子さんがやたら口うるさくなったことだった。勉強しなさい、いい学校に行きなさい、人の役に立つことをしなさいと、家を空けることの方が多いのに言ってくる。伊月も最初はそれに従っていた。毎日勉強したし、塾にも通った。可奈子さんも結果を出せば褒めてくれた。板橋の古いアパートで二人暮らし。まだ幸せな時期だった。
しかし、ある時を境に一変する。高校入学直前に、可奈子さんが恋人を連れてきた。同じ病院に勤める、一個下の男性だった。
伊月の糸が切れてしまった。突然思ってしまった。自分が母親の言いなりになったところで、何が待っているのだろう。自分の知らないところで勝手に離婚して、再婚相手を見つけてきて。娘の傍にいなかったくせに、恋人の傍にはいたのか。自分勝手じゃないか――そう思うと、勉強する気が起きなくなった。ゲームや漫画やアニメを楽しむ方が、自分にとっては有意義。
途端に成績は落ちた。身なりも真面目である必要はない、楽しんだっていいじゃんか。
可奈子さんは怒った。その度に返したという。
「お母さんだって勝手にしてんじゃん。じゃあなんでうちはダメなの?」
気付けば、高校三年生。進路を決める頃合い。可奈子さんはお金はある、だから大学に行きなさいとことあるごとに言った。息苦しかった。早く家を出たかった。だから、勝手に就職希望にマルを付けた。一人暮らしするにはどうすればいいか調べた。保証会社にも問い合わせたが、働いていないと難しいと取り合ってくれなかった。結局、可奈子さんが担任と話して大学希望に変えさせた。
受験勉強もなんて一つもしなかった。進学も就職もせず、卒業式を迎えた。
可奈子さんは勝手に予備校へ手続きをしていた。我慢して半年だけは通った。けれど、所詮我慢は続かない。予備校は池袋にあり、近くの佐倉屋でバイト募集の貼り紙を見つけた。
迷わず応募した。労働をして、賃金を得る。予備校に行くよりずっと張り合いがあった。
「――もう、勝手にしなさい」
バイトがバレた時、可奈子さんはそれを言ったきり、何も言わなくなった。
その代わりとでも言いたげに――籍こそ入れていなかったが、再婚相手を家に招いて一緒に住むと言い始めた。物置になっていた父の部屋を片付けると説明した。
今度こそ、息ができなくなると、伊月は思った。
「そんな人はお父さんでも何でもない! 気持ち悪い!」
「イヤなら出て行きなさい!」
言われた通り、キャリーケース一つで出て行った。
それが、今年の八月初めのこと。
「売り言葉に買い言葉ってヤツ。でも後悔はしてないよ。ま、その再婚相手の人も何度か会ってるけど、悪い人じゃないの。むしろ優しくて、よく気が利く人。気弱ですぐおどおどするけどね……要は、うちが認められないだけ。ほら、よくある話っしょ?」
確かに、ありそうな話だ。
けど、伊月のこんなに整った顔を自嘲の笑みでいっぱいにするほどであることも、紛れもない現実なんだ。
「あと、これ最初に言っとくべきだったね」
「……何が」
「うち、朝也さんことは絶対守るから。誘拐したとか仮にあの人が主張したとしても、一切事実無根だって言うから。安心して」
「……」
格好悪い。守るとか面倒を見るとか腹は括ってるとか、絵空事か。守られるのは俺の方かよ。
「……職場に電話してくるくらいなんだし、一言だけでも」
口に出してすぐ、自覚する。焦ってしまった。つい大人ぶっただけの、最悪の言葉を吐いていた。かける言葉が見つからなかったとはいえ。
「……聞いてくれるだけで、うちはうれしいのに」
漏れた言葉は取り返せなかった。
「朝也さんの家族って、どんな人? そういえば実家はどこなの?」
長野と答えて、両親の話をした。どこにでもいる、朴訥な親だ。
「たまに帰ると、仕事は何時から始まって何時に終わるんだとか、どうでもいいこと聞いてくるよ」
「そっか、いい家族じゃん」
それきり、話は他愛のないものへと移った。
焼き鳥のタレで口の中を甘ったるくする。今ほど、アルコールを欲しいと思ったことはなかった。
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