第26話 止まらない咳、抱きしめの刑
食器は自分で洗い、シャワーを浴びて自室の机に座る。単純に居場所がないからだ。もちろん、机に座ったところで何も変わらない。
かといって、今声をかけたところで火に油。ネガティブな方向へ転がるだけだろう。仮に謝ったところで何を謝ってんのかが分からない。ご機嫌取りが逆効果だ。
「……忘れてた」
机の引き出しが目に入り、一つ思い出した。そこに手をやると、セロハンテープがまだ貼りついていた。剥がして丸めて捨てる。
「……はぁ」
森谷さんに腹は括ってるとか言っておいて、すぐにこれか。予測はできなかったこととはいえ……いや、俺も察してはいたんだ、伊月の実家のことについては。目を背けていたのは俺も同じだ。
「……はぁ」
憂鬱な気持ちになってくると、また一つイヤなことを思い出した。明日はある定期の仕事が来る。前に電話で質問したら、先方のミスなのに理不尽に発狂しはじめたところからだ。意味が分からなかった。担当営業さんに話したら、そういう人でどうしようもないと言われた。何の救いもありゃしない。
もちろん先方にミスがなければいいだけの話だし、そもそもがプリセットがあるからすぐに終わる作業ではある。あるが……。
「……寝るか」
せんべい布団の上、タブレットで動画サイトを開く。「睡眠用」とタイトルにある動画を再生しながら床につく。ないよりはマシだ。
……――熱い。体が妙に火照っている。毛布を取った。ぞわりと背中に悪寒が走る。毛布を掛け直す。この感覚には覚えがある。
ヤバい。避けようがない。
ゴホッと一つ、咳が出た。それを皮切りに、ゴホゴホッと何回も咳が出る。止まらなくなっていく。
喉が熱くなる。痛くなってくる。胸も苦しい。しかし止まらない。
落ち着け、と脳が命令してくる。以前も同じだった。ストレスから来るものらしい。苦しいが、放置しておけば自然と治まる。それまで耐えろ。
「ヴェッ! ゴホ! ゲホッ!」
耐えるしかない。一度過ぎ去ればケロッとする。それまでの辛抱だ。
けど痛い。胸が喉が、頭も痛くなってくる。
不意に、目に光が入った。
戸が開けられたらしい。
額に冷たい何かが当てられた。
気持ちがいい――。
「……ん?」
薄い光に目が覚める。もう朝らしい。
「あ、起きた?」
伊月が覗き込んでいた。Tシャツに、下はジャージの長ズボン。いや注目すべきはそこじゃない。
額に冷たくて心地よい感覚。手を伸ばすと、濡れたタオルだった。
「……悪い、うるさかったか?」
「いきなり言うことがそれなんだ」
ぷっと噴き出し、俺の胸に手を置いた。
「ほっとけるわけないじゃん。それに、うちがその状態だったら、朝也さんも同じことしてくれたと思うし」
今度は額に手を置いて、軽く頭を撫でた。
「朝也さんの寝顔って、なんか子どもっぽくてかわいいじゃん」
「なんだそれ」
森谷さんにも似たようなことを言われた。童顔のつもりはないが、顔つきが幼いのだろうか? 子ども扱いされていい気がする歳じゃねっつうの。
たまらず、上半身を起こす。
「今何時だ?」
「七時二十分」
「そろそろ準備しないと」
起き上がろうとする中、肩を両手で掴まれた。
「いや無理でしょ! あんな咳出てたのに」
「前にも同じようなことあって。そん時は大丈夫だったし」
「前が平気だったからって今日も大丈夫とは限らないじゃん」
「休むと面倒なん――」
まず感触が来たのは、鼻。柔らかい感触。そしてこめかみ、目尻。ふんわりとして、心地いい。
「……お、い」
膝立ちになった伊月に頭を抱かれ、胸を押し付けられていた。
「抱きつきの刑。奴隷モードになるなら、また前みたいに首のマッサージしてむりやり休ませるからね」
「……わ、わかったよ」
息苦しさが解放される。代わりにむずがゆくなるケツ。伊月の方は見られなかった。
「午前だけ半休取るよ。間取ったってことで」
「はいはい、そういう人だよね。うちバイトあるから。朝ごはんテーブルの上に置いとくから好きな時に食べて」
寝かされ、布団を直される。これじゃ完全に子ども扱いだ。「いいって別に」と反抗してみるが、あやすようにまた「はいはい」と胸を叩かれる。逆効果だった。
ラインのグループに半休する旨を書いて、また眠りに落ちる。
十時半頃また起き、朝ごはんを食べる。すっかり調子を取り戻し、食欲もあった。
(おっぱいのパワーってすごいんだな……世の恋人たちは毎日こんなんしてんのか)
我ながらバカみたいな言いぐさだ。
けど、本当のことでもある。柔らかい感触を思い出すと、性欲以前に元気になってくる。
「……ふう」
味噌汁を飲み干して、やっと充電がされきった感じ。
……そして、何よりも分かったのは。
伊月はいいヤツだってことだ。
守ってやらないと、大人として。
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