第25話 目は三角、口にはノンアル

 日曜は瞬く間に過ぎ、月曜日。今日も今日とて真面目に出勤する。それが日本のサラリーマン。


「おはようございます」

「お、おはようございます」


 噛んでしまった。一昨日のことが頭から離れない、あの艶やかな姿もそうだが、告白された言葉も。今日は普段通り化粧薄めのパンツルックでビジネスカジュアルだが、意識してしまう。

 彼女の切り替えがすごいのか、俺が情けないのか。多分両方だ。


「あの、浅井さん、聞いてもいいですか?」


 仕事が始まってしばらくして、シール用紙を手に森谷さんがやってきた。思わず「は、はい、どうぞ!」とどもってしまった。


「シールの印刷の仕事なんですが、うまく出力されなくて……フォルダ内に浅井さんが残したメモファイルがあって、その通りの設定にしてるんですけど」


 きちんと森谷さんは仕事している。

 いかん、俺もしっかりしないと。


「あー……これか……実はプリンターが森谷さんの入社と同時に変わったんですけど、以前の機種でのメモですから……POD機でやったらどうですか?」

「やってみたんですけど、たまに失敗するんですよね」

「湿気や小さなほこりも影響しますからね。そんな枚数を求められる仕事じゃないですから、何割か失敗覚悟でやるしかないですね」


 ふと、思い浮かぶ。勢いのまま口に出していた。


「神頼みですね、紙だけに」

「…………」


 ……しまった。めっちゃキョトンとしてる。


「……あ、そういう意味ですか!」


 遅れて、ふふっと噴き出した。

 危ない! とんだ大事故になるところだった! まあ事故ってはいるが!


「……すみません、なんか」

「いえ、私が拾えなくて。すみません」


 鼻を指をあて、ふふふっと笑みをこぼす森谷さんを見ていると、こっちまで笑いが浮かんでくる。

 さっぱりしてくる。

 一昨日のことは早くも更新されていった。


 今は、森谷さんに甘えてもいいのかもしれない。どのみち伊月が独り立ちするまで、何も答えは出せないのだから。


「――ただいま」


 自宅の玄関を開けると、同時にびくっと体が跳ねた。何か、やたらうるさい。


「……おかえり」


 伊月は俺に背を向けたまま答えた。音の正体は、スマホから流れているヒップマイだ。かなりの大音量で流しているからか、もはや音が割れかけている。

 見るからに不機嫌だ。思い当たる節は俺にはない。ただ、思い当たる出来事は、ある。

 あの電話だ。『深見可奈子』――親族と見るべきだろうか。


「……」


 不機嫌の女性に何か言ってもどうしようもない。姉貴との実体験で勉強済みだ。ここは好きにさせておこう。大音量で音楽が流れていることぐらい、どうってことない。

 そう思って洗面所で手洗いを済ませると、缶をあおっているのが気になった。


「……お前、何飲んでるんだ?」


 伊月の目の前でしゃがみこんで確かめる。


「……何だっていいじゃん」


 身をよじり、隠すような仕草。だがすぐわかった。日野と宴会した際に残った缶ビールだった。


「ほっといてよ、今日は」


 近くで見ると、もはや目を三角にしている勢い。


「……分かったよ」


 本人がそう言うなら、そっとしておこう。こいつだって、ムカつくこともあるし、何もかも投げ出したい日もあるだろう。

 テーブルの上には牛丼と野菜ジュースがあった。健気に夕食まで作ってくれるのなら、何も言うことはない。


「いただきます」と手を合わせ、牛丼を一口。広がる甘みと脂肪の旨味。うむ、いつも通りうまい。


「あっ! あー!!」


 思いがけぬ大声。むせかける。


「なんだ、どうした!?」

「止めないからおかしいと思ったら、これノンアルじゃん!」

「そうだよ、ノンアルコールビール。え、分かってて飲んでたんじゃないの?」

「はぁ!?」


 買ったはいいが、結局俺が飲みきれなかったあまりだ。


「いや、かっこだけでも酔いたいのかなーって」

「そんなわけないじゃん!」


 立ち上がると、ずんずんと冷蔵庫に進む。取り出したのは、日野が置いていった琥珀色の液体。

 捨てるのも忍びないままになっていた、ポケット瓶のウイスキーだった。


「おい、それはダメだ」


 リビングに戻ろうとする伊月を制し、強引にその手首を掴んだ。


「もう来月には二十歳だもん」

「それでも今はまだ十九だから」


 瓶を引き剥がす。

 代わりに、俺は肩を突き飛ばされた。


「保護者みたいなこと言わないでよ!」


 がなられて、耳をつんざかれる。よろめく。何とか右足で踏ん張った。

 俺には目もくれずリビングにへたり込むと、ボスボスとクッションを殴り始める。


「職場まで電話してきて、うざいんだからもう~!」


 大きすぎる独り言。俺にも届かせるように。

 何かから逃げてもほんの一時的に軽くなるだけだ。それを伝えるのも、大人の役目じゃないのか……。

 だから、できる限りのことはしたかった。


「もしかして、母親から電話来たのか?」


 何も答えない。だからこそ、きっと合っている。


「……ただ自分の沿ったレールを走らせたいだけなんだよ、あの人は。うちはおもちゃの電車じゃない」

「……でも生きてるかどうかくらい」

「口挟まないでよ」


 俺にも届く声で言っといて口を挟むな、か。理不尽だが、構わない。サンドバッグにしたいなら自由にすればいい。

 だから。


「分かった。けど、お前がお前自身を傷つけることだけはするな」


 これだけは、言いたかった。

 伊月は黙って、立ち上がった。


「……うちのこと、抱けもしないくせに」

「……え?」


 取りこぼした伊月の言葉が、宙を舞ったまま落ちてこない。

 返答が思いつかない内に、伊月の部屋の戸が閉まる。完全な殻、天岩戸。


「そんなこと言ったってよ……」


 牛丼の残りを食べ始めたが、すっかり冷めていた。

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