第24話 ひどくお疲れ、子猫の出迎え
その後は、最近面白かった小説や映画やアニメの話にシフト。
いよいよ制限の二時間が経過し、食事会は終わった。二人合わせて七千円と少しだったが、すべて森谷さんが優待券で払ってくれた。
「送っていきます」
「え? でも交通費が余計に」
「おごっていただきましたから、これくらいさせてください。池袋から赤羽なんて、埼京線で一駅ですし」
サンシャイン六〇につながる大通りを、駅に向かって並んで歩く。
「女性の同僚を一人で帰らせる方が精神上よくないんですよ」
「……じゃあ、お願いします」
帰り道では、お互いの家族の話をした。今回の優待券も父親が入手したもので、森谷さんの姉へと渡り、東京に遊び来た折にもらったのだという。
「高校の頃に、姉がいわゆるデキ婚をしまして。それで、姪っ子の面倒を私も見ることになって……そこから子どもが好きになったんです」
まあ保育の仕事は辞めちゃいましたけど、と苦笑いする。彼女ならその苦笑が鎧と化していることも自覚しているのだろう、きっと。
赤羽駅から十分程度歩いて、彼女のアパートへと着いた。白く、新しそうな外装。一階の彼女の部屋の前まで行く。
「……それじゃ、また会社で」
「……はい、ごちそうさまでした」
一瞬だけ、森谷さんは何か言いたげな顔をした。けれど、すぐに微笑になって、頭を下げてくる。ごちそうになったのは俺だからと、負けじと頭を下げた。玄関の扉が閉められる。突っ立っていても不審者にしかならない俺は、そそくさと駅へと引き返す。
今さらだが、食べ過ぎた。腹がきつい。こなれるまでゆっくり行こう。わが家まで電車と徒歩でちょうどいい距離だ。
「――ただいま」
帰ってきたのは、十時半を回った頃だった。
返事はなかった。部屋で寝ているのかもしれない。
初めはそう思ったが、すぐリビングで寝転がっている伊月を発見した。左の脇を下にして、手足を投げ出している。伸びた猫のようだ。
俺を認めた。伊月からは見上げる形になる。
「早かったね」
「そうか? もう十一時になるぜ」
ジャケットをテーブルの椅子に引っ掛け、キッチンへ。水を一杯、飲みたかった。
「同僚さんの家とか行かなかったの?」
「そりゃ送ってったよ」
「それで、上がらなかったの?」
コップで水を飲みながら「うん」とだけ返す。
「……はぁ」
溜め息に似た返答。
呆れているのは明らかだった。
「でも、朝也さんらしいや」
にへへ、と俺を見上げて笑う。妙に恥ずかしくなってきて、つい「なんだよ」と言葉が漏れた。
さっさとシャワーを浴びることにする。湯に当たっていると、緊張がほぐれていく。
「あー、疲れた……」
パジャマのズボンとシャツ一枚でシャワーから上がる。伊月はおらず、空いたリビングのクッションに腰かける。
「疲れたなぁ……」
また出た。
原因ははっきりしている。胸のつかえが取れないからだ。
森谷さんは俺のことを悪く思っていなかった。それは俺の勘違いだった。けど、それどころか……真逆だった。好きでいてくれたのだ。
こんなにうれしいことはない。付き合えるなら付き合いたいし、率直に言えば……肌を重ねたい。
それに、俺はきちんと応えられたのか。伊月を盾にして、先延ばししたんじゃないだろうか。森谷さんが、結論を待ってくれたんだ。
優しい。その優しさに、すっかり甘えてしまった。
「かといってなぁ」
伊月を放っておけない。あいつは容易に、居場所を失う。寝る場所さえ困る。自分の方が大人なんだからしっかりしないと。
やにわに、ガラッ、と無機質な音。戸が開いた音だ。伊月がトイレでも行くのか――
「にゃ」
猫が、いた。
頭にネコ耳、手に肉球グローブとでも言うようなものを着けている。体には黒いスポブラとパンツのみ。素材がポリエステルなのか、光沢がある。よく見れば尻尾もある。
「……なっ」
言葉が出ず、顔に血が上るだけ。我ながら完全に泡を食っていた。
「にゃ~? にゃ~?」
俺の元へ四つん這いでくるやいなや、頭を撫でてきた。くしゃくしゃになる髪と揺れる頭で、やっと言葉がまとまる。
「な、なんだよ、どうした」
「……コレ、バイト先の先輩が売ろうとしてたコスプレグッズでさ。破けてる箇所があって二束三文にしかならなくて、捨てるならって引き取ってきたんだ。うちが補修して、この通り。すごいっしょ?」
「それは分かったけど……なんで今、俺の前で」
「疲れてるなって思って。こういうの好きでしょ?」
「別に好きでも嫌いでもないよ」
「うそ。だってこの前カップ麺のCMめっちゃ見てたじゃん」
にたーっと笑う。確かに、あの時は伊月には似合いそうだと思ったが……よもや。
「こういうの好きかなって」
立ち上がると、くるりと一回りして見せた。
「……たまたま珍しかったから見てただけだよ」
かゆくもない頭を掻いて、強引に視線を外した。あまり見ていると、不整脈を起こしそうだった。それほど……はっきり言って、かわいくて、エロい。
「分かりやすっ。絶対うそだ!」
「そんなことして媚びなくっても、俺はお前を追い出したりしないよ」
映ってないテレビの端を見ながら返す。ほこり一つない。よく掃除してくれている証拠だ。
「……そんなんじゃない」
軽い声音は、重く鈍く変わる。気になって見ると、俯いていた。
しなやかな動き。また四つん這いで俺に迫ってきた。しかし、今度は俺をじっと、射抜くように見る。
「かわいい?」
光を湛えた、瞳。
「……かわいいよ」
これは嘘偽りのない、本音。
「
「…………
押し倒せる距離だ。お互いに。
「不発で溜まってんじゃない? いいじゃん、少しくらい」
ごはんを待つ、猫のような目で。少しくらい――その提案に、タガが外れかける。そこに血が集まっているのも事実だった。
それでも、ダメだ。
大人の俺が、しっかりしなくちゃ。
「……無理すんなよ処女が。それに俺、お前がバイト行ってる間にめっちゃオナニーしたから」
意趣返しも兼ねて、言ってやった。だが、俺だけが気恥ずかしいばかりだ。伊月はアヒル座りして、無表情だった。
しばらくして微笑みを浮かべると、うん、と小さく漏らした。すぐさま、プッと噴き出す。
「気取っちゃって。言っとくけど、分かるんだからね、それくらい」
鼻で息を吐く俺の傍らで「でもよかった」と呟く。
「朝也さんにかわいいって言ってもらいたかっただけだから」
いつもの顔つき。さわやかな、まだ子どもっぽい表情。
……朝から張っていた緊張の糸が完全に切れた。カーペットに寝そべる。
「疲れた。このまま寝たい」
「いいんじゃない。明日は日曜だし」
グローブで頭を撫でられる。もう好きにしたらいい。
なぜだか俺も妙に落ち着いてきた。
深い海の底に落ちていくよう。
「……おやすみ」
意識が途切れる直前。最後に聞こえたのは、儚げで可愛らしい声だった。
――ヴヴヴ、と耳障りな音。
目を開けてみれば、すでに朝だ。
バイブ音は鳴り止まない。俺のスマホは確かテーブルに置いたままのはずで、それにしては震源地が近すぎる。
起き上がる。隣で猫のコスプレのまま伊月が寝ていた。おいおい、こんな格好で腹壊すぞ……と、震えていたのは伊月のスマホだった。
「伊月、スマホ。電話来てる」
「え、うん……」
細く目を開けて、グローブを脱ぎスマホに手を伸ばす。
表示を見て、迷わず応答拒否の赤いボタンを選んだ。
「……さすがにちょっと冷えるか。油断したわ、はは」
手櫛で髪を梳きながら、伊月は立ち上がった。「シャワー浴びるね。ってまず着替えるか」と苦笑を浮かべ自室へ向かう。
「……」
何も言わなかった。……いや、怯んで言えなかった。
震えていた伊月のスマホ。その表示には『深見可奈子』とあった。
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