第20話 食事のお誘い、同居者の問い
「ただいま」
「おかえりー」
夜。すっかり慣れたシャツとペチパンツ姿で出迎えられる。そろそろ残暑も終わって、本格的な秋になっていく。この格好では寒くなってくるだろうに。
少しでも睡眠を取った影響か、薬の効きが遅かっただけなのか、頭痛は午後にはだいぶよくなった。今も少し痛むが、寝れば明日には回復するだろう。
「……んー、ちょっといい?」
おもむろに調理していたキッチンを離れ、俺へと近づいてくる。
「何、どうした?」
俺の顔をまじまじと見る。何かついてるのだろうか。かと思うと、急に両手を伸ばして目の下瞼を引っ張った。
「ちょっと顔色冴えないね? どっか悪いの?」
「い、いや……」
「……もしかして、昨日マッサージのせい?」
伊月の眉が上がる。俺の視線を捉えて離さない。
「隠されるのイヤだから、うち」
先手を打ってきた。
……なら仕方ないか。
「ちょっと朝から頭痛くってさ……でももうほぼ治ったから」
「……やっぱり。ごめん、ほんと」
急降下する眉。縮こまった体で、両手を合わせた。
「いいよいいよ、良かれと思ってやってくれたことなんだから。こんなんで追い出したりしないから」
不器用だが、ちんけな器ではないつもりだ。安心させようと言ったのだが、伊月は「うん」と頷きながらも固まっていた。釈然としない、と言いたげな表情。
「飯食べようよ。お腹減ったし」
「そだね」
今晩のおかずは回鍋肉。伊月曰く、具材を市販のソースで炒めただけと言うが、めちゃくちゃうまい。米が進む。
そうだ……ご飯から連想したが、必要なことは早めに言っておかないと、また要らぬ心配をさせてしまう。
「ごちそうさま」
食べ終わった頃を見計らって、切り出した。
「今度の土曜の夜、夕飯いらないから」
そう、と軽く受け応えれば済む話。だが、伊月はギョッと鳩が豆鉄砲を食ったよう顔を見せた。
「……なんで?」
声が低く、こっちまで面食らってしまった。しかしごまかしてもメリットはない。
「や、ちょっと同僚と食事に行くことになって」
「例の森谷さんって人?」
「うん、そうだけど」
「……デート?」
「……いや、それとは違うんだよ。この前、休日出勤しただろ? その時、俺が手伝う形になったから、お礼としてね」
「ふうん、よかったじゃん」
よかったじゃん、との台詞とは裏腹に、とても祝っている雰囲気ではない。むしろ、とげとげしい。剣呑な空気をまとって、皿を洗いはじめている。
怒ってるのか? 確かに、自分が苦労してるのにそっちはのんきに食事会かよ、しかも異性と……と思いたくなる気持ちは分かる。俺も転職活動でひーこら言っている時期、日野の惚気を聞かされてムカついたもんだ。
「なんでも実家にいる家族がとある飲食店の株主で、優待券をもらったんだって。おこぼれにあずかっただけだ。深い意味は……」
ないよ、と言いかけて口が止まる。
自分で説明すると、客観的に見えてくる。
大人の未婚の女性が、同じ職場とはいえサシで異性を食事に誘うことが、どんな意味を持つか。
本当に深い意味はないと言い切れるのか。
「場所はどこ?」
「い、池袋だけど」
「それで、連れ込んでエッチするから出てけって?」
「……ばかかお前!」
自分で自分の大声にびっくりした。遅れて後味をかみしめるように、感情を自覚する。そんなことできるわけない。モノ扱いじゃねえかそれじゃ。見くびられたもんだ。
「……ごめん、意地悪した」
伊月は体ごと俺に向け、俯いて指をいじった。
「すまん、俺もちょっと感情的だった。でも、別にお前が」
「待って、先に言わせて」
手を拭いて対面に座ると、俺の顔をじっと見つめてくる。
「マジな話ね、朝也さんもその同僚さんも、大人同士なんだから……不倫や浮気でもないんでしょ? だったら、自由だと思う」
反論を寄せ付けぬ視線で、でね、と続ける。
「食事に誘うんだから、好意がないわけない。しかも女の子から誘ってるんだよ?」
「む……」
やっぱり、伊月が見てもそうか。
「朝也さんは、同僚さんが仮に抱きついてきたらムラムラすんの?」
「え……」
想像する。普段のビジネスカジュアルの服装の森谷さんが、抱きついてきたとしたら。俺の胸に顔を埋めたり、上目遣いで見てきたら。
「めっちゃする」
「だからさ」
伊月の口調にますます力がこもる。。
「もしその森谷さんと関係を持ちたいのなら、遠慮なく言って。朝也さんは優しいよ。でもね、うちにかけた優しさのせいで朝也さん本人が幸せを逃すなんて、あって欲しくないんだよ。うちにだって、それくらいの覚悟はあるよ」
最後に、「どうなの?」と結んでくる。
巷には、ありふれた話だ。大の大人が、いいと思った相手を誘い、相手はそれに応え、肌を重ねる。しかるべき準備さえすれば、そこに何の問題があるというのか。
俺だって男だし……なにより森谷さんは、すごく魅力的だ。清楚な眼鏡美女。少なくとも俺のストライクゾーンのど真ん中を抉っている。
「……」
宙に向けていた目を、伊月に戻す。
「……前に言ったろ」
俺も視線を返した。
「俺のために、お前にここにいて欲しいって言ったんだから、それは守る。それにもし、そういう雰囲気になったらホテルに行くよ。曖昧にウチでお茶しませんかって言うより、いっそ堂々とした方が合意も取れやすいだろうから」
だから、と一息。
「お前はここにいろ。たまには出前でも取れよ」
笑いかけるが、伊月は硬い表情のまま。俺を穴あくまで見つめて、一回頷く。
「……うん、わかった。じゃあ久しぶりにコンビニ飯でも食べようかな」
やっと、小さく笑った。
つくづく思い知る。俺なんかより、伊月の方がずっとずっと考えてるんだ。
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