第19話 密かな居眠り、昔は保育士

「おはよう、ございます……」


 いつも通りのテンションで出勤したつもりだった。


「おはようございます……あまり元気ないですね」

「エッ。そんなことないっすよ」


 森谷さんのあいさつに、素知らぬ顔で答える。見抜かれていた。まずいな、顔に出てしまっているのか……?


 実は、頭が痛い。


 予兆は起きた時からすでにあった。目が覚めると、額の横に痛みが走った。低血圧だ、朝食食べている内によくなるだろうと最初は思った。だが、顔を洗って飯を食べていると、逆にどんどん痛くなってくる。

 低血圧ではない、となると……昨日のマッサージの影響、か。かなり前の話だが、マッサージ店で施術を受けた翌日、ひどい頭痛に見舞われたことがある。揉み返しというものなのか、血行が一気に改善された影響なのかは素人には分からないが、とにかく一日中頭痛で苦しむ羽目になった。

 それと同じな気がする。それを朝食の終わりに思い至ったのだが、


「……ん? 朝也さん何?」

「いや、なんでもないよ」


 しかし、よかれと思ってやってくれたことだ。伊月を責めるわけにもいかず。こっそり頭痛薬を飲んで出た。だが、電車に揺られると痛みがさらに増してきた。

 そして朝礼の終わった今、はっきり言って、結構キツい。


「んん……」


 額を押さえる。有給使うか? 今急ぎの仕事は幸いにもないし、まだ日数は残っている。切り札はある。だが……月曜は伊月が休みで、家にいる。もし帰れば、おそらくバレる。妙に律儀なやつだ、自分のせいで俺を苦しめたと知れば自分を責めるだろう。


(横になりたい……)


 脳内にあふれ出る弱音。とりあえず、ゆっくりでいい、仕事をする。そして昼休みを見計らって、会議室の椅子を使って横になろう。どうせ昼休み中は使わねえだろう。

 ぐわんぐわんしてくる頭に耐え、やっと昼休みが訪れた。こっそりと何食わぬ顔で、俺は会議室へと移動。会議室といっても、パーティションで区切られただけの入口脇の一角だ。三個並んだ椅子に膝から上を投げ出した。回復体位を思い出し、横を向く。荒い息を抑えきれず、めまいがしてくる。

 たまらず目を閉じた。少しだけ、少しだけ眠ろう……。


「……――はっ!」


 胸騒ぎがする。この感覚、勘。寝すぎた!

 起き上がろうとするが、うまく体に力が入らない。変な体勢で眠ったからだ。


「まだ大丈夫ですよ。昼休み終わりまで五分ありますから」


 爽やかな声。その方に目を向ける。寝ながら上目遣い。見事に連なる山が見える……いや違う、胸だ……。

 森谷さんだ。


「あ、すみません」


 五分あるとはいえ、もう起きた方がいい。だが、まだ力が入らない。全身を使ってやっとこさ身を起こす。

 不意に、ふふっと森谷さんが笑った。のろのろと、覇気もない姿……確かに、傍目から見たら妖怪のようだったかもしれない。


「そんなに笑わなくてもいいじゃないですか」


 手櫛で髪を梳きながら、軽く言ってみる。森谷さんはホチキスで留められた書類の山を前に置いていた。針の取り外しに広いテーブルのある会議室まで来ていた、ということらしい。


「いえ、浅井さんの寝てる顔、ちょっと子供みたいだなって。昔を思い出しまして……」


 童顔ってことなんだろうか。それよりも、後半に興味が惹かれた。


「昔、ですか……?」

「私、ほんの一時期、保育士だったんです」

「え、そうなんですか」


 自ずと驚きの声が出た。もちろん世間では保育士から一般OLに転職する例もあるだろうが、身近では聞かない話だ。

 しかし、想像してみるとすぐしっくり来る。森谷さんの雰囲気は、確かに保育士が似合いそうだ。柔和で優しい雰囲気。子どもを受け入れる姿が容易に浮かぶ。


「子供は好きなんです。今でも。ですが、好きだけじゃダメな業界で……クレームばっかりですから。好き以上に、したたかさがないとダメでした。通用しなかったんです」


 表情は、笑っていた。あきらめの笑い。言葉に詰まる。


「……大変だってのは、確かに聞きますね」


 目が合う。瞳の奥は暗く、沈んでいた。

 子どもが好きなのは嘘ではない、でも追い詰められたことも嘘ではない。

 きっとただ、それだけ。


「……人生、色々あるよね。でも昔は昔で、別に今、目の前にあるわけじゃない。足を引っ張ってもないから。俺はそう思うようにしてる」


 俺なんかが、力になれるとは思えない。ただ、まるっきり離れているわけではないはずだ。俺だって、不器用なことには自信がある。誇ってどうするって話だが。


「…………」


 森谷さんは無言のまま俺を見ていた。

 かっこ付けすぎた気がする。やばい、しかも思わず敬語もなくなってたし。うざい先輩面してしまったかもしれない。


「えと、その」


 耐え切れず、一度逸らしていた顔を戻す。

 彼女は優しく、微笑んでいた。


「最近、とんと寝癖なくなりましたよね」

「え? ああ」

「あの……」


 切り替えるように、座り直す彼女。


「一緒に食事、行きませんか?」


 一転して上目遣いの視線が、俺を捉えた。

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