第12話 夜は更けゆく、童貞のルール
「でさあ、ここのお風呂どうやって焚くの?」
なんと、風呂まで掃除までしてくれたとのこと。シャワーしか浴びず浴槽が薄汚れていたからありがたい。
「お湯の温度設定を四十五度くらいにして、お湯出しっぱなしにしとく。と、溜まった頃にピピっと音するから蛇口を止める。追い炊き機能とか残念ながらない」
わかったー、と風呂場へ行き、すぐ戻って皿洗いを始める伊月。二人分の器もすぐに洗い終わった。
「…………」
会話の凪。特に話すこともない。伊月はスマホをいじりはじめ、俺もそれに倣った。
こういう時間が何気にきつい。とはいえ、もう話題も見つからないし、伊月だって話したくない時間もあるだろう。ムリに何かすることもない。
電子音が鳴り、伊月が蛇口を止めに行った。
「先入っていいよ、掃除してくれたんだし」
「いや家主から入ってよ。そのためにきれいにしたんだから」
お言葉に甘えることにした。譲り合っても湯が冷めるだけだ。
ずっとシャワーだけで過ごしていたから、久しぶりの風呂だ。筋肉がほぐれていく。脳みそもほぐれていく。こんな気持ちいいものだったのか、風呂。ふぁ~、溶ける。お湯と一体になっていく……。
……危うくのぼせかけた。冷や水を頭からぶっかけるはめになった。
交代で伊月が入り、お茶をがぶ飲み。ふぅ、と息を吐いてテーブルの椅子に座り込む。
久しぶりにテレビを点けてみるが、たいして面白そうなものをやっていなかった。早いけど、寝るか……といっても、頭はぼうっとするが、どうにも目は冴えている。
「お風呂もらいました~」
ぼんやりしていると伊月も上がっていた。昨日と同じく、白シャツにペチパンツ姿。火照った肌で、テレビの前のクッションに座り込んだ。
「朝也さんさぁ」
「ん?」
「エッチしよっか」
「……え?」
一瞬、何を言っているのか分からなかった。雑音が耳を通り抜けた感覚。
「朝也さん、人生は互助って言ったじゃない? お風呂で考えたんだけど、やっぱりうちがもらってる分が多すぎるよ。だから、うちにできること何かなって思って」
……またそんな理屈をこねやがる。
「そんなこと気にしなくていい。無理するな。処女のクセにビッチみたいな振る舞いするんじゃないよ」
「無理はしてないよ。朝也さん、こっち向いて」
無視するわけにもいかず左を向くと、こちらにアヒル座りをする伊月と目が合った。
「全然、いいよ。朝也さんのこと、生理的に受け付けないわけでもないし、乱暴にしなさそうだし。コンドームなら、友達がもしもの時のためにくれたのがあるし」
じっと俺を捉える、挑戦的な瞳。
確かに、怯えの色はなかった。
「……うちじゃイヤ? ヘテロではないとか?」
「いや、そういうわけじゃない」
「自分で言うのもなんだけど、そんなブスかな?」
「……ブスではないよ、間違いなく」
「ありがと。ならさ、ね。うちはいいよ。初めてあげても。初体験が朝也さんなら、後悔しないと思う」
言いながら、視線を外さない。
ハリのある健康的の肌、長いまつげ、リップやグロスがなくても輝く唇、弾力を感じさせる体つき――どれをとっても、きれいだ。モデルの仕事をしていないのが、おかしいくらいだ。
男の部分が、筆で撫でられるように、くすぐられる。このまま隣に座って抱きついたとしても、伊月は拒まないだろう。
――けど。
「童貞をなめるなよ!」
俺は立ち上がった。そして、胸を張る。
「不平等な関係で弱みにつけこんだようなシチュエーション。そんなんで童貞を捨てたくない」
言い切ると、伊月はポカン、と口を開けた。
しばらく、時が止まる。そして、おずおずと伊月は口を動かした。
「え、朝也さん童貞だったの!?」
「いや溜めて言うことがそれかよ! 悪かったな!」
「彼女いたことないの!? 大学行ってたんでしょ?」
「できなかったんだよ! 大学行ってるヤツが全員彼氏彼女できると思うな!」
これは本当に、世の中に対して言ってやりたい。
「とにかく、だ」
俺はわざと一つ、咳払いした。
「俺たちは三カ月くらいで区切りを迎える関係で、そんな男に大事な初めてをあげるべきではないと思う。俺よりもっと高スペックで、優しくて、イケメンを捕まえられるさ。お前の美貌ならな。お前の人生は、今ちょっとつまづいてるかもしれない。けど、これからだろ? もっと大事にしろよ」
「……」
伊月は反論しなかった。ただ黙って、眉根を寄せていた。なぜかは、よく分からない。結構直接的に褒めて励ましたつもりなんだが……。
「……はぁ。ま、それも朝也さんらしいってことなんだろうな」
パッと、相好を崩す。呆れているようにも見える、苦笑。
立ち上がると、大きく体を伸ばした。へそが見える。
「明日バイトだから。九時半くらいに家出る」
「ああ、もう寝ろ。昨日までロクに寝られなかったんだから。まだダメージは蓄積されてるだろ」
「そうかもね」
伊月は自室の戸を開けるが、中に入らずその足を止めた。
「朝也さん」
振り返って手招き。不思議に思いつつも応じると、耳元に口を寄せてきた。
「……おかずにするのは自由だからね」
「なっ……!」
息がこそばゆい。ついで言葉が脳内を駆け巡る。顔に血が上る。この耳年増め。
「おやすみ、朝也さん」
にへっと舌を軽く出し、伊月は自室の戸を閉めた。
「……まったく、からかいやがって」
毒を吐きつつ、頭を掻く。しかし、なかなか収まりはつきそうになかった。
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