第11話 カレーは大辛、彼女のこれから

「はい、まずはこれ」


 テーブルに着くなり、トン、と置かれたのは、刻んだオクラが乗せられた冷ややっこ。


「あっさりしてていいなぁ。健康数値が上がる」


 醤油をぶっかけ、端から摘まんでいく。清涼感が口の中いっぱいに広がる。寿命が伸びていく心地。


「ビールとか飲まないの?」

「ああ、俺、下戸なんだ。一杯も飲めないほどじゃないけど、ごくたまにしか飲まない。すげームカついた時とか」

「やけ酒かい」


 パクパクと早くも食い切ったところで、ハッと忘れていたものに気づく。自室に取って返すと、手紙とともにタッパーを袋ごと渡した。


「ありがとう。おいしかったよ」

「でっしょ~!」


 歯を見せて、笑った。こういう純粋な顔が一番似合う。


「朝也さんはいつもお昼何食べてんの? 社員食堂?」

「俺の会社、総勢二十名だぞ? オフィスビルのワンフロアぞ? 中小にそんなものはないよ。だからいつもは割引の総菜パンとかカップ麺とか食べてる」

「え!? そんなレベル!? いや、てっきり池袋の駅近で2LDKだから大企業に勤めてんのかと」

「ズバリ言っちゃうとだな、俺なんてなんとかワープアにならない程度の稼ぎだぞ。年収三百万ちょっとだ、平均よりだいぶ低い。手取りじゃ月十八万ほど。この家は、家賃が八万なんだ。だから生活を維持できてる。もっとも家計簿付けてると毎月ギリギリだけどな……。それよりも引っ越すのが面倒でさ」

「そうなんだ……」


 伊月は目を丸くして、完全に箸を止めていた。


「金ない男で期待外れだった?」

「そんなこと一言も言ってないんですけど!」


 強めの声音。冗談半分のつもりだったのだが……まさかマジギレするとは。


「す、すまん。ちょっと貶めすぎた」


 どうも今日は女性の機嫌を損ねる日だな。伊月は空気を読んで無言で流し、笑うでも怒るでもない、デフォルトの顔で続ける。


「ていうか、家賃安すぎない?」

「そうなんだよなー……実はここ、大学ん時の友人の日野ってヤツとルームシェアしてた物件なんだ。そいつが見つけて、持ち掛けてきた話だから、なぜ安いかまでは知らないんだよ。聞いたことはあるんだけど、『まあちょっと古いからさ』としか答えない。このアパートの住戸全体が安いのか、この部屋だけ安いのか、それすらも分からん。管理会社に質問して『そうですね。じゃあ家賃上げましょう』ってヤブヘビになるのもイヤだし」

「……ねえ、出ないよね、ここ」

「見たことはないな。不可思議な現象も起きたことない。俺に霊感がないだけかも」

「うちも霊感ないから、じゃ大丈夫だね」


 それで安心するのはおかしい気がするが、それこそ水を差すこともあるまい。


「……ごめん気になるんだけど、その日野さんはどうしたの?」

「三カ月ほど前に『オレ、彼女と同棲することにしたから!』って出て行った」

「あははは、よかったポジティブな方向で! ケンカ別れしたのかと思った」

「俺はネガティブだったけどな……ま、もう過ぎたことだ」

「じゃこれもついでだけど、うちいて大丈夫なの? 賃貸ってさ、契約者以外が住んでたら違反になるでしょ? 追い出されたりしない?」


 へえ、勉強してるな。


「ここは俺が代表者契約物件だから、大丈夫。日野が当時非正規だったから、正社員の俺が代表で契約することになったんだ。で、契約者の俺が住んでなかったら問題になるかもだけど、日野が誰かと入れ替わってても問題はない。要は、俺+住人一人以下って契約内容だから、それが守られてればいいわけ」

「はあ、なるほどね……」


 ふむふむ、と頷きながら伊月は席を立ち、鍋の火を灯した。

 俺の丼と、自分用の皿に米をよそう。何ともアンバランスだが食器がないので仕方がない。そこにカレーをかけると、スパイシーな香りが強くなる。


「いただきまーす」


 伊月はエプロンを脱ぐと、シャツだけになった。下のブラジャーが、少し透ける。視線をカレーに移し、無心でスプーンで口に運ぶ。


「かっっっら!」


 口の中がピリピリする! なんだこれ!

 テーブルの端に置いてあったルゥのパッケージを見ると『大辛』とあった。


「カレーはこのくらい辛くなきゃ!」


 伊月は汗をかきつつも、平然と笑顔で口に運んでいる。マジか、楽しめる辛さなのかこれ。


「……まあ、創造主がよけりゃいいや」


 伊月の首筋と額に汗が滲む。食べながら手首で拭うたび、きれいに毛の剃られた腋が見えた。心なしかシャツ全体が汗で濡れてきて、ブラの影が鮮明になった気がする。

 カレー一つで妙に色っぽいな……と思いつつも、俺は無言でスプーンを口に運んだ。


「ごちそうさま」


 途中から慣れてくれば旨味も感じるようになってきた。たまには、こういうカレーも悪くはない、とまで思えるくらいにはなんとかなった。かといって二度目はごめんこうむりたいが。

 デザートと口を冷ます目的で出されたのはヨーグルト。乳製品のまろやかさが、疲れた口を和らげてくれる。


「……あのさ、朝也さんさ」


 そんな中、伊月はあらたまった様子。スプーンを置き、背筋を伸ばして、膝に手を置いている。


「これからのことか?」

「うん」


 いくらでも聞く覚悟はある。俺もスプーンの手を止めた。目で促す。


「三カ月くらい、いさせてもらってもいい?」

「……え?」


 思わぬ提案に、身が固まる。給料が出た後、次の一カ月をどう乗り切るかの話になるとばかり思っていた。ビジネスホテルでも今は三十連泊プランがあるし、ラブホテルでも探せば同様のサービスはある。一応、昼休みに調べておいたのだ。お金が心配なら、多少なり援助してもいい。そして、一旦きちんと寝る場所を確保してから、さらに次のことを考えればいい。相談ならいくらでも乗れる。

 けれど。よもや、俺のところにいることが選択肢になっているとは、微塵も思っていなかった。

 女に手をあげる趣味はないが、俺だって男だ。今は優しくても、女性からしたら暴力の懸念は拭いきれるものではない。優しさをちらつかせて豹変する男なんていっぱいいる。それが分からないほど純真ではないはず。なのに。


「ごめん……やっぱダメだよね」

「いや、違う。ただびっくりしただけだ。拒否の無言じゃない」

「じゃあ、とりあえず聞いてくれる?」


 頷くと、伊月は語り始めた。

 高校生の時から、卒業したら一人暮らしするつもりだったらしい。まず、十八歳が親に頼らず家を借りられるかだが、それは二〇二二年の成年年齢の改正で可能だ。ただ、保証人はやはり立てなければならない。そこで、家賃保証会社に頼むことにした。だが保証会社側が、安定した収入があり、かつ一年以上勤務しているとの条件を出してきたため、断念した。まあ無理からぬ話だ。家賃保証会社もボランティアや福祉ではなく、営利企業だから。そんな状況で、高校卒業してからはやむを得ず実家にいたという。

 しかし、今。バイト先は去年の十一月から働いているため、来月で一年経つ。バイトでも一年以上真面目に勤務していれば、保証会社も突っぱねはしないだろう。家決め諸々合わせて、キリよく来年の初めから一人暮らしを始めたい。その準備として三カ月間だけ、できる範囲で援助はするから居させてもらえないか……という話だった。


「そうか……」


 いくつか気になる点はあった。最初から親を保証人に立てないところ、卒業してからバイトするまでの期間を妙にぼかしたところ。

 帰る家がない時点で察し、実家はムリだと即答した時にすでに確信していた。有り体に言えば……親との折り合いが悪いのだ。それもかなり。

 ここで「親と仲直りしたら」なんて言葉が一番よくないことくらいは、俺でも分かる。


「わかった、いいよ」


 根なし草とはいえ、将来のことを考えていないわけではない。来年一人暮らしをする、との目標はある。だから、藁にすがる思いでこいつは切り出したんだ。俺が表面しか見ていなかった、浅はかだった。聞くと給与手取りで十五万ほど。なると、ホテルを利用するなどの出費は避けるべきだ。


「……いいの?」


 言い出しっぺのくせに、戸惑いが顔に出ていた。

 ホテルがダメなら、それより安いネカフェを使えよって? そんなことをすればまた目にクマを作る。そんな顔は、二度と見たくない。


「家賃保証会社を使うなら、通常家を借りる時よりも金がかかる。まず、その金を貯めなきゃ話にならないだろ? それに一人暮らしするのにも、少しは有事に備えておかなきゃいけないし。いいよ、うちにいていいから、思う存分準備しとけよ」


 そうだ、と弾みをつけて続ける。


「家賃は負担しなくていい、光熱費も俺が持つ。だから、食事だけは任せる。伊月の給料から俺の飯の分まで出してくれ。それ以外は要求しない」

「え! そんな」

「乗りかかった船だ。俺も食費分は節約できるし。互助だよ互助」


 あえて遮った。伊月の顔はまだ釈然としていない。


「この家出て行って、どっかでレイプでもされたらそれこそたまらないんだよ」


 尻がかゆくなり、ヨーグルトにまた手を付けた。


「……いいんだね?」

「いいんだよ」

「ありがと。やっぱり、優しいね朝也さんは」


 ふっと微笑む。もっと尻がかゆくなって、俺は姿勢ごと横に向けた。


「そういや、バイト先ってどこなんだ? 察するに池袋周辺みたいだが」


 話題の切り替えもあるが、知っておきたかった。同居人の勤務先くらい知っておいていいだろう。

 顔立ちもいいし、おしゃれな雰囲気もある。ただ給料があまり高くないとなると、予想するにアパレル関係か?


「あそこ。駅の反対側の、アニマートの向かいにある、佐倉屋池袋店」


 佐倉屋……オタク商品向けのリサイクルショップだ。

「え、あそこなの? 俺、一年くらい前に売りに行った」

「うっそ! じゃあ会ってたかもしれないね!」


 一気に顔がほころんだ。月並みな言い方だが、明るくて、かわいらしい。それでいい。


「何売ったの?」

「……あー……アニメだよアニメ」

「もしかして、エッチなヤツ!?」

「そんなんじゃ、ねーし」

「いーや絶対だね。その顔は間違いないよ。うへへへへ」


 実際その時売ったのは、『姫騎士アンジェ~絶対無敗の高嶺の花が淫らに咲き誇るまで~』というエロアニメだ。口が裂けても言えない。

 別に、ネタになるなら十分なんだけどね。ヨーグルトがいやに酸っぱいぜ。

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