第10話 ニーズは新妻?
定時の十七時半になった。もともと考えていたスケジュールを繰り上げていたら、キリの悪いところで終業となってしまった。中途半端になるより残業して仕上げて、金をもらおう。
……と、普段ならそう考えるところだが……伊月に「七時前には帰る」と言った手前。巻きで仕事が上がっているし、別に半端でもいいだろう。
「お疲れっした」
タイムカードに十七時三十五分と打刻された。いつもは残業しなくても、なんだかんだで十五分、二十分経ってから押している。定時から五分、久しぶりの速さだ。
池袋に着いた。さて、夕飯をどうするか……じゃ、ない。伊月がいる。一回様子を伺ってから飯を食いに行くなり買いに行くなりすればいい。とりあえずまっすぐ帰ろう。
駅から徒歩約十五分。玄関のドアを開けた。
「ただいま……」
「あ、おかえりなさい!」
まず気付いたのは、カレーの匂い。食欲が一気に湧き上がるスパイシーな匂いだ。ついで、白シャツとジャージのハーフパンツに、青いエプロンをした伊月。白い猫のシルエットがある。
「今日も暑かったね~」
「あ、ああ」
鍋の火を止め、俺の元にやってくる。俺のワイシャツのボタンに手をかけた。
「いや自分でできるわ!」
子どもじゃない。身をよじって拒むと、「え~」と残念そうに声を上げた。
「せっかく新妻っぽくしたのに~」
唇を尖らせる。
「そんな気遣いいいから……」
……とは言いつつも、正直妙なリアリティに、ドキドキしていた。こういうラフで地味な格好の方が確かに新妻っぽい。
「裸エプロンの方がよかった?」
にやりと憎たらしい顔。
だが俺はブレない。
「前から思ってたけど、裸エプロンは汗とか体液が床に落ちて汚いだろ。お腹も壊しやすそうだし」
部屋着に着替えようと自室の戸を開ける。ほこり一つなく、洗濯物が綺麗に畳まれ、山になっていた。
「悪い、やってくれたのか」
振り返った途端、むっと漏れ出る。あごに指。口が強制的に閉じられた。
「また言うね。ここにいられなかったら、うち図書館か公園で時間潰すしかなかったんだからさ、気にしないで」
それとこれとは別問題――と言えなかった。それを見越しての、伊月の指か。
「夕飯食べよ。はよ着替えて」
そうだな、と軽く返して、自室の戸を閉める。
「……さて」
電灯を点けると、まず机の前でしゃがむ。頬を床につけて一番下の引き出しを検めた。
朝、簡単な仕掛けを一つしておいた。机の一番下の引き出しは鍵付きになっている。そこに通帳や貯金箱を避難しておいたのだ。もし少しでも引き出しを開けようすると、下に貼ったセロハンテープが落ちる仕組み。もっとも、金目のものなどこの家には引き出しに収まる分くらいしかないということだ。テレビだのパソコンだのも、最悪盗まれてもかまわない。自分で誘った手前、それくらい覚悟は決められる。
「変化なし、と」ひとり呟いて立ち上がる。
伊月のことを信用しきれていなかったから、というわけではない。盗みや美人局目的にしてはまどろっこしすぎるし、目のクマはどう見ても本物だった。
ただ、伊月という人間について、俺はごく浅くしか知らない。
放っておけなかった、それは事実で、しかし知り合い程度でしかないのもまた事実。厳然たる現実の前に、念には念の入れたまで。取り越し苦労だったわけだが、コソ泥でないことが証明されて、一つ安心した。むしろ今までの様子で健気であることは十分に分かっている。
「まあつっても」独り言が漏れる。
すべてあいつの給料の出る月曜までだ。同居生活も土日で終わり。それなら、もうこれ以上深くお互いを知る必要もないか。
せめて、カレーはよく味わわせてもらおう。料理する元気なんぞ、もはや俺には残っていない。なにせ毎日冷食三昧なのだから。
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