第2話 俺の失敗、つかんだおっぱい

 無機質な電子音で目が覚める。正確には、少し前に目は覚めていたが、現実から目を逸らしていた。カーテンから差し込む光が薄いので、曇りらしい。


 朝が……来てしまった……。体力ゲージは六〇%程度しか回復できていない気がする。まあ、いつものことだが……。


「あぁ……」


 呻きを漏らすと、布団から這い出る。このまま二度寝しても遅れるだけだ。体にハッキリした異常がないのなら有給は使いたくない。


 池袋の2LDK。LDKと言っても、壁際にキッチン、玄関側にテーブル一台置いてダイニング、奥側にテレビとカーペットとクッションを置いてリビングにしているだけ。それでも元来二人暮らし用の間取り、独りには十分すぎる。

 自室を出て左に折れる。洗面所で顔を洗う。凡庸で覇気のない、クマが取れない顔面を無視しして、ダイニングで朝食。立ったまま軽く、ほんの一分で終わる食事だ。あまりうまくないが安くて早い、それで構わない。いちいち調理とか面倒くさいし。


 定まらない目に、開けっ放しになった一部屋が映る。俺の隣の部屋は、主がいなくなったままほこりを溜めるだけになっている。そろそろ掃除機でもかけないといけない。


『アサイも早く彼女作れよ!』

「うぜえ……」


 自ずと浮かぶ部屋主だった男に、悪態を吐いていた。いけない、こういう自分で自分の精神をすり減らす行為はよくない。


「うしっ」


 最低限の身だしなみとやる気を整える。山手線に揺られること三十分。電車内ではサブスクでアニメを見て過ごす。アニメは好きなのもあるが、紛らわさないと疲れを自覚しはじめてしまう。ネガティブなことばかり考えるようになる。

 しかし、どうしてこんなに疲れてるんだろう……。確かにこの前は二時間残業した。しかしいつもではない。中途で入社して三年経つが、月十時間以上残業したことはない。前の会社と比べたら雲泥の差だ。なのになぜ、こんなに疲れてるんだろう。


 答えは出ぬまま、出社してタイムカードを押す。


 港区のとあるオフィスビル三階のワンフロア、株式会社アサマサービス。総勢二十名ほどの小さなド中小企業が、わが職場だ。主な業務は印刷・出力、書類の電子化。待遇を率直に言えば、まったり薄給を地で行く会社。


「おはようございます……」


 だから、大声で聞こえるようにあいさつしなくても結構。

 始業十分前、パソコンを立ち上げメールチェック。面倒くさい案件は勘弁してもらいたい、朝からテンションが下がる。とはいえ、ままならぬものだ。


「あの、浅井さん」


 祈りながら送受信のバーを見ていると、隣からの声。フレームレス眼鏡を付け、こちらに少し半身を傾けている彼女と目が合った。

 森谷夕紀ゆき――アサマサービス最年少の二十五歳。俺と同じ内勤グループで、社内唯一の後輩に当たる。


「おはようございます。今、大丈夫ですか?」

「あ、うん、かまわないっすけど」

「パソコンのことなんですけど……」


 森谷さんが身を引き、美しい黒髪のロングヘアが揺れる。同時にかすかに甘い香りが鼻腔をくすぐった。白いブラウスにベージュのパンツ、飾り気のないいつもの姿。化粧っけも薄い。だが、特徴的な垂れ目は吸引力が高く、顔の印象は優しげで癒される。むしろ、地味なところがすごくストライクな感じ。……無論、そんな気持ち悪いことは絶対に口に出さないが。


「一昨日からパソコンがシャットダウンしなくなってしまいまして……。電源落としてもオレンジのランプが点いたまま消えないんです。何も設定変更はしてないんですが……」


 子犬みがすごい。ただでさえ物静かな彼女がおろおろしている様は、まさしく寂しげに鳴く子犬だった。

 しかし、だ。


「あ、それ俺もこの前なったんですけど、OSの自動アップデートが原因かと。で、高速スタートアップがデフォルトでチェック入っているので、それを外すと直りますよ」


 あくまで淡々と距離を置いて接する。俺に近寄られても、迷惑なだけだろうから。


「高速スタートアップ? どこですかね……?」

「電源オプション」

「電源オプション……?」


 む、口頭じゃ限界あるか。まああまり普段触れない箇所だからな。やむを得まい。

 俺は椅子ごと森谷さんの方に寄り「ちょっといい?」と彼女の右手に収まっていたマウスを手に取った。脇腹の方から割り込む形で右腕をピンと伸ばし、彼女の前で操作する。


「システムツールからコントロールパネル行って……」

 と、しまった、いくらなんでも距離を取り過ぎた。


「ここのチェッ……おおっ!?」


 少し寄ろうしたら、椅子のキャスターが机の脚に引っかかる。つんのめった。危ない、下手したら俺なんかが彼女に手を触れ――あれ? なぜか、右手のマウスがやけに柔らかい。

 それもそのはず。俺の右手は、弾みで彼女の胸に被さっていた。大きな、たわわな山にもよん、と。もよんって何だ。


「――ご、ごごごめん!」


 すぐ手を引っ込める。背筋を伸ばし勢いをつけて背後へしまい込んだ。


「わわわわざとではないから!」

「あ、いえ、わわわかってますよ」


 言いながら、彼女の顔は赤面していた。白い肌だからすぐ分かる。いや俺も顔が熱い!


「でこのスタートアップのチェックを外したら一回電源切って確かめてみて!」


 立ち上がってもう一度右手でマウスを走らせると、すぐに距離を取る。あほか。最初からこうすれば良かったのだ。


「ありがとうございました」


 お礼を言う時こそ微笑んでいたが、まだ赤く染まっていた。胸を二の腕で挟むように縮こまり、俯いてしまった。子犬が守りに入るかのような雰囲気。


 やっちまった……。あれほど距離を置こうと決意したのに……! なんてバカなんだ。これってセクハラかな……セクハラになるんだろうな……。相手が嫌がったらそれはセクハラだもんな……。

 社長の呑気な「朝礼やるかー」との声。先月の売り上げの発表があったが、まるで入って来なかった。

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