ねこギャルさんとお疲れリーマン
豊島夜一
第1話 プロローグ~出会いはコンビニ、その名は伊月~
俺は疲れた。
なお、脳内では『装甲騎兵ボトムズ』第一話のナレーションのパロディなのだが……だからなんなのだ。とにかく疲れた。脳がショートしていりゅ。している。もう日本語もだいぶアヤシイ。
「暑い。だるい。苦しい……」
ネガティブな言葉が漏れる。真夏の夜だ、歩くのすら面倒くさい。ワイシャツが体に張り付いて気持ち悪い。
バカみたいに騒ぐ酔っ払いたちの声。金曜の夜、いわゆる花金。池袋となれば、歓楽街から外れた端っこでも十分うるさい。
駅の西口から一直線に延びた大通りを歩く。猫背で、鞄のベルトを肩にひっかけて死人のように。
無論、家に帰るためだ。
昼過ぎに突如舞い込んできた出力案件。こっちは他の仕事で立て込んでいた。しかし、誰かに手伝ってもらうのも気が引けるし、面倒くさい。結局二時間も残業してしまった。
通り過ぎた焼肉屋の匂いがつきまとってきて、ぐうぅ~……と腹の虫が鳴る。家に帰れば、現代技術の粋を集めた冷凍食品がある。だが、目の前のコンビニの窓からイートインスペースが見えた時、入らない選択肢はなかった。
ツナマヨおにぎりと小さなペットボトルのお茶を買い、やっとこさ座って一息入れようとした矢先。がぶ飲みしたのがよくなかった。
「ああっ……!」
雑巾を絞るがごとく。キンキンに冷えてやがったお茶に俺の胃腸は対応しきれず、突然の便意と腹痛。俺はトイレに駆け込んだ。
出すものを出して自分もトイレを出れば、財布とスマホをテーブルに置いたままだったと気付く。
急いで戻らねば。
「ハァーア……」
とんでもない日だ。もう生きるのが面倒くさい――
「お兄さん、危ないよ。明らかに挙動不審な人がうろついてたもん」
「……はぁ」
亜麻色のふんわりボブを輝かせたギャルが、俺の左隣を陣取っていた。青いカーディガンに白いワイシャツ、ブラウンのショートパンツから生足が出て、焦茶のスエードブーツでまとめている。やはりギャルだ。
それよりも。指差された財布をポケットにしまい、スマホを手に取る。親切でありがたい、ちゃんとお礼を言わないと。
「すみません、ありがとうございます!」
「声でかっ! え、そんな頭下げる? いいよいいよ」
しまった、調整ミスった。これも疲れのせいだ。
ゆっくり頭を上げると、ギャルは笑顔で。
「ねえ、ヒップマイ好きなの?」
「え、まあそれなりに」
「男性で好きって珍しいね!」
まさかの会話コンティニュー。
男性声優のキャラクターラッププロジェクト『ヒップホップマイスターズ』――通称・ヒップマイ。アニメ経由で知ったクチで、どちらかといえば女性向けのコンテンツなのだが、なかなかキャラクターの背景が凝っていて面白い。なにより楽曲がいい。心地いいというか、聴いているとクセになってくる。
「あれ、なんでわかるんですか?」
「だってお兄さんのスマホのYoutubeで流れてたから」
「そういや、そうだった」
トイレに駆け込む前に新曲のトレーラーを見ようとしたんだった。スマホにはすでに再生が終わった画面が映っている。
「で、どこのディビジョンが好きなの?」
くりっとした目を輝かせて、視線を向けてくる。思わず逸らしてしまった。
やっぱり面と向かって見ると、かなりの美人だ。化粧はしているが、厚化粧でごまかしてるのではなく、整った目鼻立ちが分かる。吊り目で挑戦的ながら、黒目勝ちで丸っこい瞳。厚めの唇からあどけない八重歯が見え隠れして、笑顔がよく似合う。
「あー、横浜と名古屋、かな……」
「へー結構男クサイとこいくじゃん。お兄さんみたいなサラリーマンいる新宿じゃないんだ。うちはね、渋谷が一番で……」
そこからは立て板に水、独演会。ベラベラといかに渋谷の三人組の友情が熱いか、演者の視点からみれば~、などと止まらない。
「でさ~この前出たドラマトラックヤバかったよね。沼ってたよね!」
「キャラの関係性がかなり変化しましたよね」
沼ってたとはどういう意味なのかは分からないが、まあ文脈から感動したみたいなことなんだろう。そんな調子で話を合わせていると、ギャルのスマホが震えた。一瞬で取る、ネイルはしていないらしい。
「あーおけおけ」
これまた一瞬で切ると、立ち上がり脇に置いていたキャリケースを握った。
「ここよく寄ったりすんの?」
「たまにですけど」
「お兄さん、名前は?」
「浅井ですけど」
勢いで答えてしまった……。まあ、浅井さんなんてそこら中にいるし、いいか。
「うち、伊月。イタリアの月で伊月。じゃ、浅井さん、また会おうよ」
黒いキャスケットを被り、左手を蝶のように振って、伊月さんとやらは去っていった。
「……なんだったんだ……」
そう言えば空腹なのを忘れていた。胃に、ツマナヨの旨味が落ちていく。
キャリーケースを持っているってことは、旅行者か? いや、また会おうって言葉通りならそれはない。
……考えても詮ないことだ。連絡先を交換したわけでもなし、社交辞令、もう会うことはないだろう。
「野良猫に会ったようなもんか」
姿形から連想して、ちょうどいい比喩が見つかった。彼女はどこか、猫っぽい。野良猫は気まぐれだ。同じ場所なら再会できるとは限らない。
……と、思っていたのだが。
「お疲れリーマン、また疲れた顔してんね」
予想に反して、その後週一ペースで二回も会う羽目となった。つまり、俺もその分、残業したということなのだが。いいさ、金が入るし。
コンビニのイートインだけで会うような不思議な関係。それだけの、少し引っ張れば切れる古びたゴムのような二人。
そのはずだった。
「エッチしよっか」――濡れた瞳で、下着を露にして俺に跨る伊月。まさかこんなことになるなんて、その時の俺はまだ知る由もなかった。
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