秦よ、秦よ、その汚名あまりに甚だしきか

 ず何よりも大切なのは、一文を落とさないでくれ、そうべた個所かしょが重要です。もう一度振り返ってみましょう。


 もう賢明けんめいなあなたは、お気づきですか?


王・懷王かいおうの子、らんが王に行くことをすすめ、王はそこでしんの国に入国した。」


 これが私が指摘しておいた文です。つまりしんが楚王を呼んだように見えますが、実は本当に楚の懷王に秦に行かせたのはこの人物、懷王の息子、おそらく庶子しょしであった蘭という人物だったのです。


 史実しじつでは、秦が懷王を幽閉ゆうへいし、手ひどい扱いをしたことになっています。そうとらえられている。


 しかしみなさん、武田信玄たけだしんげんをご存知ですか?では、信玄が、父信虎のぶとら駿河するがの国に追いやった手法をご存知の方は、何人おられるでしょうか?


 中国でも春秋時代しゅんじゅうじだいから、子が父を外交のために他国に出国させ、その後、帰途きとふさいで国を乗っ取ってしまった例はまま現れます。


 ここでは蘭が懷王を秦に行かせ、その帰途を塞いで、自らが王になろうとした、そういう背景が読み取れないでしょうか。


 よく読んでみると後のほうに、楚の重臣たちはを立てようとした。という記録が出てきます。そしてそれに敢然かんぜんと立ち向かい、太子をほうじようと戦った昭睢しょうすいという家臣も出てきます。


 つまりこの事件は、楚の国における、太子派(せい国派)と、庶子・蘭派(秦国派)が権力・跡継あとつぎをめぐって争った、政争せいそうとしてとらえると、全く違う様相ようそうしめしてきます。そして秦が一手に悪評あくひょうをかぶってしまった、立ち回りのまずさも見えてくるのではないでしょうか。


 ちなみに、中国の四書五経ししょごきょうの一つ春秋しゅんじゅう左氏伝さしでんには、秦の穆公ぼくこうが、しん惠公けいこうを戦争の捕虜として自国へ引き連れて帰ったものの、後に国に返してやった故事こじが出てきます。この惠公との政争に打ち勝って登場してくるのが、有名な晉の文公ぶんこうで、文公は春秋の五覇ごはの一にも数えられますので、これは中国人にとっては有名なエピソードだと思います。


 秦の昭襄王しょうじょうおうはまだ若く、宣太后せんたいこう摂政せっせい?しています。この穆公ぼくこうの故事を逆手さかてにとられて、悪名あくめいをかぶせられてしまった可能性はないでしょうか?


 そこまで書くと、秦びいきが過ぎるでしょうが、この事件が起こるまでの、秦とちかいを結んだり、齊に太子を人質に送ったりして、ふらふらしていた楚の外交の軌跡きせきとともにこの事件を見てみると、また違った見方ができるのは事実だと思います。


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