第9話 3と4のインターバル、8話の続き

「あれ、八潮どしたの」

湯槽の縁に顎をのせて、バタ足でぽちゃぽちゃやっている陽が目を見張った。

「長湯しすぎてのぼせちゃったみたいです。部屋で休ませますから、夕食のとき、レストランで落ち合いましょう」

杜は、だらりと僕の肩にしなだれかかっている八潮にちらりと目を走らせ、皮肉な微笑を陽の頭越しに見せた。

「7時半だ。5分以上遅れたら、こいつが3人前食うからな」

「はい」


脱衣所も、まだ無人だった。

乱れ籠を入れるロッカーのような棚の向こうに回りこむと、八潮は床にへたり込む振りをして、僕の首を抱え込んだ。

さっき、お湯の中で、腕はいつのまにか僕を膝の上に抱え上げてしまったけれど、キスは、啄んでは離れ、繰り返し、思わず、くすくすと笑えてくるような軽さで、降ってきた。

でも、同じ唇が。別の生物のように、ねっとりと絡みつく。

舌が入り込んで来るとき、まだ、僕は眩暈に似たものに襲われる。

ああ、また、これを味わえた。次があるか、わからないから…

逃せない。一瞬も一秒も、貪欲さを堪えたら、一生後悔する、という、痺れるような思いが、頭の後ろから、脊髄を降りて、下腹に響いてくるのだ。

煙草のかすかな香りと、少し尖った歯の先の感触と、ざらつく舌の感触、

薄くて、僕より少し幅広い口が、僕の唇を包み込む、この感じ、

決して忘れない。


「部屋…行きましょうよ」

「ん」

名残惜しげに、ちゅぷ、と唇が離れる。

触れる箇所が無くなった瞬間、あなたは、にこりと笑う。

僕は、思わず、シャッターを切るように目を閉じる。

胸の中に、その表情をまた、上書きして、保存できたか、確めずにはいられない。

大急ぎで浴衣をひっかけた。

エレベーターのドアが閉まった途端、また唇は引寄せあう。

八潮が僕の浴衣の合わせ目から手を忍ばせてくるから、僕も同じように、かろうじて腰骨の上で帯がひっかかっている八潮の裾をはだける。

「…八潮、忘れたんですか?」

「…あ、れ?はは…ま、盗む奴もいねぇよ」

僕は溜息をついて、むきだしの凶器を握り込んだ。

湿り気で柔らかいそれは、掌に吸い付いてくる。

微かな吐息を今度は僕が掬い取る。


「朝…あのとき、会社の仮眠室にいる夢、見てて」

「は…色気ねぇ…」

そろそろと指を縊れに這わせて行くと、押し付けられた下腹に、ぐっと力が入って板のように堅くなる。

「あなたの足音がちゃんと聞こえた」

先週、突然気付いた。

上履き替りの、ホーキンスのサンダルを少し、引きずるようにする足音が他の誰でもなく八潮のものだと聞き分けられるように、なっていた。

ぱった、ぱった、とカーペットに乾いた音を立てて、近づいてくる。

仮眠室のドアの前でほんの数秒、中に聞き耳を立てる気配。

少しバカになっているノブを、そろそろと回して、覗き込む視線の温度も、ちゃんと感知できる。


(お)はよっす、課長、生きてる?


でも、夢の中では。

「あなたはドアを後ろ手に閉めて、抱きしめてくれましたよ」

「そうしても、…は…よかったわけ?」

指の腹で、裏をなぞり、辿りついた先端をぐりっと、捏ねる。

肩に顔を押し付けた八潮が、大きく息をつく。

濡れて来た八潮自身。僕も、そろそろ隠し切れない状態だ。

「歓迎しますよ」

こんな言葉を、口に上せる快楽。さらけ出す歓び。

こんな風に、殻を剥かれて、あなたを失くしたら、僕は誰彼かまわず、 縋ってしまうのだろうか。

それとも、更に厚い殻を築いてしまうのだろうか。


「奇遇だ、な。俺もそうしたかった…んっ」


思わず漏れそうな声を殺して、薄汗を滲ませたあなたは、どれだけ、罪作りな顔をしてるか、わかってるんですか?

そう新しくもないエレベーターが、ガクンと弾みながら、止った。

幸い、エレベーターの前も、廊下も、無人だった。

こんな八潮を、誰にも見せられない。


「何分、ある?」

「40分…着替えも入れてです」

ドアに押し付けられた背中に、ノブが痛い。

上がる息に飲み込まれる前に、後ろ手でロックを探って、かけた。


「そっ…ちゃんと、閉めといて」


骨張った掌が、僕の頬を、挟み込む。顎がきしむほどの力をこめて。


「そんなツラ、見られたら…大変、じゃん?」


耳をなぞる、唇の熱さ。

僕の中で、また薄い皮を作りかけた何かが、ぶつんと弾ける。

数歩の距離を飛ぶように、僕らはベッドにもつれ込んだ。

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