第7話 やわらかな風が吹く
シャクシャクシャクシャク
波の音が混じった、外海の風が耳で鳴る。人の声も遠い車の音もばらばらにちぎって、不意にかけらをぶつけてくる。
熱をはらんだ砂をサンダルの底が噛んでいく音だけが、現実味を帯びて迫ってくる。
振り返ると、碧は足元を見ながら歩いている。吹きなびく風に被さる前髪に顔は隠れて、唇しか見えない。
「キスしてぇな」
「ここで?」
…何で聞こえたんだろ。
先に走っていった陽とついていった保護者はもう、砂丘の向こうに隠れてしまってる。
陽が帰っていった後、俺たちは黙って耳を澄ませていた。
静かなドアの音。
案外防音がいいらしく、くぐもった声は途切れ途切れに聞こえても、言葉の形は成さない。
遠慮がちな水音の後、隣はしんと静まった。
遠くかすかに、まだ宴会場かどこかのざわめきが聞こえるばかりだ。
碧がつと立っていって、しゃこしゃこ歯を磨く音が平和に聞こえてくる。
ミントの香りの、引き寄せた唇の間に掌が挟まる。
「歯、磨いてから」
「今晩省略」
「煙草の味がいやです」
「慣れてんじゃん」
「いいですか悟浄、歯っていうのは…」
眠たくて機嫌が傾いてるときは逆らわない方がいい。最小限の手順で済ませる。3分かかってないはず。
…だのに。コテンと転がって、すやすやお寝みだよ…
「あーおー」
頬を挟んで、唇を合わせる。でも中には入り込めない。
少し離して眺める。やっぱり、痩せたな。掌に頬骨が、皮膚一枚で当たってる感じだ。
「ん…」
え?起きてんの?
もぞもぞ、身動きして俺の手から逃れると、鼻先を俺の首と肩の繋ぎ目あたりに揉みこむようにして、…また、すうすう寝息を立て始めた。
眠っていても、体はスイートスポットに入り込むほど、俺たちは馴染んだんだな。
いつもと違うシャンプーと石鹸、シーツの香りの下から俺が確実に、切ったばかりの木のような八戒の匂いを探し当てるように。
いくらか湿った髪を梳く。いない間開け放っていた部屋の空気は涼しさを通り越して冷たい。伝わってくる体温が心地良いと思うほどに。
腕の中を揺らさないように後ろに手を伸ばして、隣のベッドの掛布団を手繰り寄せ、体をくるんだ。
トクトクトクトク
押し当てられた、碧のこめかみあたりから、伝わってくる。
昔、静かな夜に枕につけた耳から響いて来た、規則正しい行進の音。それが自分の心音だと知るまで、俺は、毎晩、誰がどこへ行進して行くのか不思議に思いながら、眠りに惹きこまれていった。
いつまで、俺たちはこうしていられるんだろう。
こうして抱き合っているだけでも、柔らかくて温かい金色の環が世界にかかるような、こんな気持ちは、多分一生に一人にしか持てない。
だけど俺たちは芸能人や自由業みたいに、それも主義主張だっていって、同僚と恋愛し続けられるのか、多分過渡期な今だけれど、確実なものは何も見えない。
こんな静かな夜には、いつも時間に押しやられていたことも考えたいのに。
碧の呼吸づかいが、かすかにずれて重なる心音が、あんまり安らかで。
俺ももう逆らえない。
また明日、考えよう。
おやすみ。
砂丘を乗り越えた頃には、足の裏は入り込んだ砂でじゃりじゃりだった。
遠州灘は、抹茶ヨーカンの色で、激しく打ち寄せる。満潮が近づいているらしく、浜辺はまんべんなく濡らされていた。
走って来た陽が、長い枯れ枝をよこした。
「競争しよ、誰が書いたのが後まで残るか」
俺は枝を折って長い方を碧に渡す。
愛してるとか好きだとか書いたら嘘っぽい。
不意によく知っているメロディの切れ端が掠めた。兄貴が繰り返しかけていたバンドのだ。
遠くに点にしか見えない群れが持っているらしいスピーカーからだろう。
今の景色にはぴったりなSummer FM、でも俺の今の気持ちなら。
STAY TUNED。
顔を上げた碧が俺の足元に目を落とし、息を引いて自分の文字を振り返る。
HOWEVER。
Fin.
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます