第5話 記念写真(2)

 いやだ!

 私は大声で叫びそうになった。

もし四時ちょうどに写真を撮ったら、私が撮った写真には、よじこが写るかもしれない。そんな噂話信じてはいないが、でも、やはりいやだ。それにもし、リホが他のみんなと一緒に撮った写真によじこが写っていたとしたら……そのリホと一緒に、今度は私が四時ちょうどに写真を撮ったら……

 よじこが、私の写真に移ってきてしまう。

 ネット上の噂で読んだことがあった。

 写真に映ってしまったよじこを消す方法はない。唯一、写真の中に引きずり込まれない方法はあるにはあるが、それもとても難しい。それは全てを忘れてしまうことだからだ。写真を撮ったことも、よじこがそこに映っていることも全部忘れたら、よじこの動きは止まる。でも、それはたぶん無理だと思う。きっと忘れようと思えば思うほど、絶対忘れられなくなるに違いない。

 ただ、他にも実は、とても身勝手だが、よじこから逃げ切る方法がある。

 それが、四時ちょうどに写真を撮ってしまった子が、他の誰かに同じ四時に自分と一緒の写真を自撮りさせてよじこを移し、押しつけてしまうという方法だ。

 スマホを持った手が震えた。

 もしかして、リホはそこまで分かっていて、私にこんな時間に写真を撮ろうと言い出したのだろうか。だとしたらひどい。ひどすぎる。でも……嫌だと言ったら、本当にもう二度と口をきいてもらえないかもしれない。

 どうしていいか分からなくなった。

ただの噂なら撮っても平気なはずだ。そんな気持ちも湧いてきた。そうだ。もしかしたらリホは、私やユカリをちょっと怖がらせようと、写真を撮る時間を四時に決めただけかもしれない。リホは時々そういう人が嫌がるようなことをさせて、面白がるところがある。

四時まであと十秒を切った。

教室の時計の秒針が、カチ、カチ、とじれったいくらいゆっくり進んで行く。四時より一秒でも早ければいい。遅くてもいいと願う。しかしリホはそんないい加減なことをしないのも分かっていた。じっと時計を見て時刻を確認している。

 カチッ、と秒針が一秒前を指した。

「撮って、ハナ!」

 リホが笑顔で言った。模型を持っていたナツミが、ひぃっと喉の奥で悲鳴をあげる。私は両目をつぶって、スマホ画面のシャッターボタンに指先を持っていく。

そうだ、こんなのただの都市伝説なんだから。だから、ちょうど四時に私が自撮りしても、全然平気。それでリホの機嫌を損ねなくて済むなら。仲良くできるなら……

 「何やってんの、ハナ!」

 いきなり山崎さんの声が聞こえた。

驚いて目を開くと、息を切らした山崎さんがなぜか目の前に立っていて、私から奪ったリホのスマホを握りしめていた。メガネの奥の目は、いつもは見透かすように細めているのに、まん丸に見えるほど見開かれている。同じように驚いて動けないでいるリホやユカリの向こうに見える廊下には、男子の班員二人も息を切らしているのが見えた。

 山崎さんは、信じられないという表情で私を見ている。

「もう……学校の門を出ようとしてたらさ、そこの男子二人が、またリホたちが四時に〝あの汚れのついた写真〟を撮る、今度はハナに撮らせるって言ってたけど本気かな、みたいな話してたから、急いで引き返してきたの。まだ写真撮ってないよね。撮ってないよね!」

 山崎さんらしくない大声で問われ、私は顔を縦に振ってうなずくだけで精一杯だった。私は写真を撮ろうとしたが、結局どうしても画面に触れることができなかったのだ。

「なんで言われるままにこんなことするの。怖くないの?」

 怖いに決まっている。

「こ……怖かった」

「じゃあ、いやだって言えばいいのに!」

 山崎さんの声はまだ少し怒っている。山崎さんの言うとおりだ。でも、山崎さんには多分、私の気持ちは分からない。教室でみんながおしゃべりしているのに一人で本を読んでいても、一人で下校しても平気な山崎さんには。

 ただ、山崎さんが来てくれて、すごくうれしかった。

「あの……でも山崎さんは本当に信じてるの? これ……怖かったけど、やっぱり本当はただの都市伝説でしょ? そのために走ってくるなんて……」

私は不思議に思ってたずねた。

 山崎さんはまた、困った様子で数秒黙りこんだ。

「確かに……そうなんだけど……。あたしね。以前、本の趣味が同じで、スマホで情報をやり取りしてた友達がいたの。でもある日、『四時ちょうどに写真を撮ってしまった。何かの影が映っているだけだと思っていたけど、やはり〝よじこ〟みたいだ』と送られてきて……その後、連絡が取れなくなってしまったの。だから……」

 いきなりリホが、アハハハハ、と笑い出した。

「それって山崎さんが嫌われて、その友達から切られただけじゃないの?」

「……そうかもしれないけど」

 リホの言い方は棘があるな、と思ったが、山崎さんは怒る様子もなく、そう言った。

「確かにあたしも実際にその写真、見たわけじゃないから。でも、じゃあ聞くけど、リホが今こだわってる、その〝汚れのある記念写真〟は、どういう写真なの? 見せてよ」

 リホは素早く自分のスマホを、山崎さんから取り上げた。

「別にこだわってないし。それにもうあの写真、あまり出来がよくなかったから消しちゃった。よじこの映ってる写真は消しても消えないんでしょ。消えたんだから、つまり違うってことだよね」

「……じゃあ、僕のを見せてあげるよ」

 まだ教室の後ろの入り口に立っていた班員の一人、ユウタが小さな声で言いながら、スマホを取り出した。ユウタも、隣のリョウジも私と同じ大人しい方で、普段はリホに逆らうようなことは言わなかったので、少し驚いた。

「リホが後で送ってきた模型と一緒の記念写真だろ。映ってる僕たちの後ろに見える廊下の窓、そのさらに先にある校庭に、ちょっと黒い染みみたいなのがあるだけだよ。その染みがだんだん大きくなって、位置も近くなってきてるってユカリが騒ぎ出して、気味悪いからってリョウジも消したし、多分ユカリも消しただろうけど、僕はあんまりそういうの信じないから。それにさ、別に山崎さんに怒鳴られたから言うわけじゃないけど、やっぱり僕、リホのやり方、もうついていけない気がする。この記念写真、さりげなくハナに見せたらきっと泣くよね、とか、ハナの撮った写真によじこを移したらいいとか、写真より、都市伝説より、その思いつきの方が怖いだろ。でもとにかく、ただの気のせいだと思うよ。僕には黒い染みの場所も大きさも、それほど変わってるとは……」

 スマホを操作していたユウタの声が、止まった。

「わ……あああああああああっ!」

 いきなりユウタが大声をあげてスマホを床に投げ出した。その声につられてユカリも悲鳴をあげる。

「な、何だよ……何だよ……!」

 リョウジが、確かめずにはいられないらしく、泣きそうな顔をしながらも、床に投げ出されたスマホに近づき、のぞきこむ。そしていきなり、ヒィッ、と喉の奥で悲鳴をあげ、一番遠い壁際まで飛びのいた。

 ユウタがリョウジの方に、こわばった顔を向ける。

「リョウジ……おまえ本当に、あの写真、消したのか?」

「消えるわけないじゃん!」

 ユカリが頭を抱えて叫んだ。

「消したなんて、ウソでしょ。あたしも消そうとしたもん。でも消しても消しても消しても、消えなかったよ、あの写真! リホが悪いんだよ。リホがハナのシュンとした顔を見るのは面白いからって、ハナ抜きの記念写真撮って見せてやろうなんて変なこと思いつくから。わざとハナを日曜日に学校に来させて、壊したウサギ、ゴミ箱の見えやすい場所に置いたのもリホじゃん! リホがこんなこと思いつかなかったら、写真なんて撮らなかったら!」

「あーあ。バカバカしい」

 それまで黙って聞いていたリホが心底つまらなそうに言った。これほど追い詰められた状況でも、その声音にリホの不機嫌さを感じ取って、ユカリがびくんと震えるのが分かる。

「一体何騒いでるの。ただの写真でしょ。もし本当によじこがいたとしても、撮ったのはあたしなんだから、他のみんなが騒ぐことないじゃない」

「で……でも一緒に写ってる子も、ヨジコに触られただけで重い病気になるって」

 弱々しい声で、ユカリが言う。

「そうだよ。もしヨジコがこれ以上近づいたら、邪魔だって最初に押しのけられるのは女子より後ろ側にいる僕やユウタじゃないか!」

 リョウジが目を見開いたまま叫ぶ。

「そこまで知らないよ。あーあ、ホントつまんない。あたしもう帰る」

 そう言いながら、リホはランドセルを肩にかけ、スマホもその中に投げ入れて教室を出ようとした。

「リホは?」

 その背中に、山崎さんが声をかける。

「リホはそのスマホ、本当に写真を消すことができたの?」

 リホは立ち止ったまま振り返り、美人だがたまに見せる恐ろしく不機嫌な顔で山崎さんをにらんだ。それからさっさと廊下に出て帰って行った。

「山崎さん……。みんなは……どうしたらいいの?」

 薄暗くなった教室で、私は怖くて、山崎さんの着ている紺のジャケットの袖をつまみながら聞いてみた。どう考えてもこの中で、一番よじこに詳しそうなのは山崎さんのような気がしたからだ。

 しかし山崎さんも首を横に振るだけだった。

「あたしにも分からない。調べてはみるけど……」

 山崎さんの前の床には、まだ写真を画面に映したスマホが落ちたままになっている。

 画面を見たくはなかった。

何を見ても悲鳴などあげないような山崎さんが、それを覗きこんだ時、無言で体を震わせるのを見てしまったからだ。それでも何が起こっているのか知るには、どうしても見なければならない気がして、私は山崎さんのジャケットの袖を握りしめたまま、その画面を見た。

 画面の前面では得意そうな笑顔のリホが模型を持ち、他の三人と一緒に映っている。ただ、その背景は聞いたのとは違っていた。遠くに見える校庭には、何の黒い汚れも影もなかった。

 黒いものは、もっと近くにあった。

「これ……何……?」

 よく分からず、私は思わずスマホに一歩近づいた。校庭と、四人のいる教室との間にある三階廊下の、窓。その外側に黒い大きめのソフトボールのようなものがのぞいている。

 人の頭だった。

黒い霧のようなものでできた、おかっぱの黒髪と子供の顔。その黒い顔の中で、二つの赤い目だけが裂けそうに見開かれ、画面のこちら側をじっと見ていた。

 ここまで来たよ、とでも言うように。


 翌日、リョウジと、そしてユウタは学校に来なかった。

 高熱を出し、肩や腕に原因不明の赤い湿疹が大量に出て、そのまま入院したのだ。高熱を出した時間は、早朝四時ごろだったという。

 担任の平井先生は何か伝染病を疑ったらしく、私が休んだ時に湿疹が出なかったか、リホやユカリにも熱はないかとしつこく聞いたが、私たちは首を横に振るほかなかった。

「午後四時と午前四時が、一番危ないらしいよ」

 先生が教壇にもどり全員が席に着くと、山崎さんが言った。私が顔を向けると、ネットの情報を信じるならね、と苦笑いしながらつけ加える。その情報が正しければ、次に危ないのは午後四時だ。斜め前の席のユカリを見ると、真っ青になって下を向き、震えている。ユカリは結局、私も見たユウタのスマホの画像を見なかった。自分のスマホも電源を切って家の倉庫に放り込み、鍵を掛けたという。でも山崎さんによれば、そんなことをしても意味はないそうだ。

 不思議なのはリホだった。まったく怖がる様子もなく前を向いている。

「リホは何かいい方法を見つけたのかな。だったらユカリとか、他の人にも教えてあげたらいいのに」

 私が小声で言うと、山崎さんは口ごもった。

「確かにね……実は方法がないわけじゃないらしいの。だけどその方法も本当かどうか分からないし、実行するのはたぶん無理だと思う。だって」

 そこまで言ったところで、山崎さんは急に黒板の方に向き直った。

 担任の平井先生が私と山崎さんを見ている。

「後で言うね」

 山崎さんがささやき、私も急いで前を向いた。

 それは、本当にムリな方法だった。

 放課後になって私は山崎さんにそれを聞いたが、聞いただけでムリだと分かった。

 よじこの映った写真を消去することは絶対にできないが、昔夜中に人体から抜け出す妖怪を退治したやり方で、もしかしたら、よじこが消えるのではないか、と噂されている方法があるのだそうだ。

 よじこがスマホの画面から完全に抜け出たら、よじこの抜けた画像を消去してしまう。するとよじこは帰るところがなくなって、よじこ自身も存在できなるのではないかと……

「で、でも、それって……もう目の前によじこがいるっていうことでしょ」

 想像しただけで、私は恐怖でパニックになりそうだった。

「そう。よじこが自撮りした人を最終的に画像の中に引きずり込むために、スマホの画面から出てくるらしいの」

 そんな時に、よじこに襲われながら冷静にスマホに手を伸ばして画像の消去の操作をするなんて、できるはずがない。本当にリホはこんなことを考えているの?

 しかしリホ本人に聞くことはできなかった。リホは授業が終わると、特に怖がる様子もなく、さっさと帰ってしまったからだ。

「しかも、これもただのネットの噂だからね……」

 山崎さんはつぶやき、振り返って、机にうつぶせたまま震えているユカリを見た。

教室にはもう、私と山崎さんとユカリしか残っていなかった。ユカリが、帰りたくない、だからハナも山崎さんも一緒に残って、と私たちに泣きついてきたからだ。ユカリの家は共働きだから帰っても誰もいない。その状況で午後四時を一人で迎えるのが、怖いと言う。

 四時までは、後二十分ほど。

 ガラッと教室の戸が開いて、私たちは飛び上がった。

「よかった、ハナ。平井先生が、まだハナが教室にいたら職員室まで来てほしいって言ってたよ」

 別の組の子が顔をのぞかせて、私に言う。私は胸をなで下ろしつつも何の用だろうと思いながら職員室に向かったが、用事は私が休んでいた間に渡し忘れたプリントがあるので持って帰ってくれ、というだけのものだった。

 プリントを持って教室に帰る時、階段を上ったところで滑って転びそうになった。

 水で床が濡れていたのだ。よく見ると水の細い筋が廊下をずっと先まで伸びている。何だろうと思いながら教室にもどった時、廊下を走ってくる音がして、リホが教室に飛び込んできた。

「ど、どうしたの?」

 私は思わず聞いたが、リホは息を切らしながら、私たちを冷ややかに見ただけだった。

「どうもしないよ。塾で使うテキストを机に忘れてしまったみたいだから取りに来ただけ。三人ともヒマなのね。もう三階の教室には、あんたたち以外、誰もいないよ」

「リホは……よじこが怖くないの?」

 ユカリが頭を抱えたまま、震える声でたずねた。

「よじこ。何、それ?」

 リホは吹き出しそうな笑顔でそう言い、自分の机の中をのぞき込む。その余裕は無理をして演じているようには見えなかった。ただテキストは見当たらないらしく、机の中をのぞき込みながら、おかしいな、とつぶやいている。

 リホはもう一度自分が持っていたランドセルを開け、動きを止めた。

「あった……。さっき塾で開けた時は、いくら探してもなかったのに……」

 教室の中が静まり返る。

「ここに、『呼ばれた』んじゃないの?」

 山崎さんが言った。

「何かに取り憑かれるって、そういうことでしょ。ここに来てはいけないのに、このドアを開けてはいけないのに、この部屋に残っていてはいけないのに、気がつくと、それをしてしまっている。つまり、よじこの近くに、気がつかないうちに吸い寄せられるというか」

 ピチョン……と、水滴が落ちる音がどこかで聞こえた気がした。

 私は雨でも降りだしたのかと窓の外を見たが、空は薄い夕焼け色に染まっているだけだった。なんとなく気になって時計に目を向けた。

 四時十分前。

「ハイハイ。山崎さんがオカルト好きなのはよく分かりました」

 リホはまた茶化すように言ったが、今度の笑顔はぎこちなかった。

「でもそういう話は、夏にしてよね」

「ねえ、リホのスマホの写真は今どうなってるの。リホは今、スマホ持ってるの?」

 リホの言葉は無視して、山崎さんが問う。

「スマホ……ああ、あれ」

 心底残念そうな顔で、リホは言った。

「落としちゃったの。昨日はママの誕生日で、あたしとパパとママでディナークルーズに参加したんだけど……ああ、ディナークルーズって言っても、あなた達は分からないよね。夜に港を出た、すごく大きくて豪華な船の中で、ステキな港の夜景を見ながら、おいしい料理が食べられるの。港まではちょっと遠かったけど、ホント素敵だった。ただ、船のデッキで夜景を見ている時、うっかり手をすべらせちゃって」

 ピチョン……。また、音が聞こえた。

 一体どこからこの水滴の音は聞こえてくるのだろう。

 リホは肩をすくめた。

「スマホを海の中に落としちゃったの。仕方ないよね。深い海の底まで取りに行くわけにいかないし。でもパパが新しいスマホ買ってくれるって約束してくれたから、もしかしたらラッキーだったかも」

 山崎さんはため息をついた。

「だから、リホは落ち着いてたんだ。スマホを遠い海に捨ててしまえば大丈夫だと思ったから。そんな遠くて深い海の底からは、さすがによじこも追いかけてこられないし、それで新しいスマホも手に入れば一石二鳥だと思ったから。でも……」

 ピチョン……ズズ……

 水のしずくの音に、何かが床を引きずるような音が混じった。

 ピチョン……ズズ……

 廊下だ。あたしはやっと気づいた。

 教室の外の廊下を、何かが水しずくを垂らしながら、這うように近づいてくる。それなのにリホも山崎さんも、二人の会話に気を取られているユカリも気づかない。

「でも、リホ。どんなに遠くに捨てても、壊しても、燃やしても、必ずそのスマホは自撮りした人のところにもどってくるって」

 山崎さんの言葉を、あーもう、と言ってリホはさえぎり、ランドセルを肩にかけた。

「ごめんね、急いでるんだ。でもその都市伝説の話は面白そうだから、また今度、ゆっくり聞かせ……て……」

 リホの言葉が、止まった。

 ズズ……

 ピチョン…………。

 教室の開いたままの出入り口の外に、何かが見えた。廊下の床の端に、ピンクの何かが、少しだけ。

リホが目を見開く。

「え、なんで……!」

 それはピンクのスマホだった。リホのスマホ。リホが深い海の底に落としてしまったと断言したスマホ。壊れることもなく、今も明るく、あの模型を持ったみんなの記念写真を画面に映しているスマホ。

しかしその写真は、私が昨日見た写真と、さらに違っていた。一番廊下に近い所にいた私は、それを見てしまった。

 画面の奥で、全身を赤く腫れあがらせたユウタとリョウジが、苦しそうに転げまわっている。その前で、そこだけは昨日の写真のままリホとユカリが模型を持って笑っていた。その背後から、いきなり黒い霧のような子供の手が、にゅうっと伸びる。その手が画面を押して浮き上がったかと思うと、邪魔そうにユカリの顔を横に押しやった。画面の中でユカリの顔は押されてくの字に曲がり、笑顔がゆがんだ。

「ぎゃあああああ!」

 あたしが悲鳴をあげるより早く、ユカリが画面で押された顔をかばいながら絶叫する。頬が異常にへこみ、そこから赤黒い腫れが見る間に広がった。

「痛い、痛い、痛いよぉ!」

 ユカリが頬を押さえながら、体を縮めて床を転げまわる。

「ユカリ!」

 あたしはユカリのところに駆け寄ろうとしたが、さらに聞こえたリホのかんだかい声の悲鳴で身がすくんだ。

「いやああああああああ!」

 スマホの画面から、まるで生き物のように二本の腕が生えていた。ユカリの顔を押しやった黒い霧のような腕だ。

 ビシャ、ビシャ、ビシャ!

左右の手が交互に床を叩き、濡れた音を立てながらスマホごと動き出した。床をズルズル移動して、リホへと近づいていく。

「イヤだ、来るな! こっちに来るなぁ!」

 リホは絶叫し、逃げようとしたが、ランドセルの重さでバランスをくずして転んでしまった。あわてて起き上がろうとしたリホが、また床に叩きつけられる。

 黒い手が、リホの右足首をつかんでいた。

「ぎゃああああああ!」

 リホは手を振りほどこうと足を蹴るように動かしたが、まったく黒い手は離れない。赤黒い腫れが広がっていくリホの足首に、ズズズッとスマホが近づく。

 スマホの画面が、まるで液体のようになって盛り上がった。どんどん盛り上がって、やがてそれは濡れた黒髪のおかっぱ頭になり、前髪の下にあの黒く焦げついた顔が現れた。赤い目がぱちりと開き、リホを見てにぃーっと笑う。

よじこの顔も胴体も両腕も、すべてがスマホから浮き出していた。ボタボタと水がしたたり落ちる。そのままよじこは、まだ画面の端に映っている笑顔のリホの長い黒髪を、引っ張った。

「ぎゃああああ!」

 逃げようとするリホの髪が、まるで誰かに頭髪をつかまれたように、浮き上がって束になり、よじこの方に引っぱられる。近くにいた私は、リホのジャケットをつかんで引きもどそうとしたが、すごい力に負けて、一緒に引きずられた。

「何やってんの、ハナ。もっとがんばって助けなさいよ!」

リホが顔を引きつらせて怒鳴った。

「こんなことになったのも、元はといえば、全部あんたのせいじゃない!」

 予想外の言葉だった。

 私……のせい?

リホは顔を歪めながら、叫び続ける。

「くじ引きのせいで、あんたみたいな役立たずがあたしの班に来るから! 何の取柄もないし、しょっちゅう休むし、先生には、仲良くしてあげてね、声をかけてあげてねと言われたけど、本当はウンザリ。あんたさえ休んだりしなければ、模型ももっと早くできたのに。わざわざ記念写真撮って見せつけてやろうなんて思うこともなくて、うっかり四時に写真撮ることもなかったのに! どうしてあたしがこんな目にあわなきゃいけないの。よじこに連れていかなきゃならないのは、本当はハナでしょ!」

足も髪も引かれ、首や腰を異常なほどの角度に反り返らせたリホの体がきしむ。それと同時にリホの顔が赤く腫れあがったかと思うと焦げたような黒に変化し始めた。

まるで、よじこのように。

「痛いいいい、焼けるううう、助けてええええ!」

 リホが絶叫する。

山崎さんがよじこの背後からスマホに手を伸ばそうとするのが見えた。まだよじこが画面から完全に出たわけではないが、消去を試そうとしたらしい。しかし邪魔そうによじこが手を払っただけで、山崎さんは教室の壁まで吹き飛ばされた。

四時三十秒前。私が引っ張っている腕以外、スマホからほとんど抜け出したよじこの黒い霧のような姿の中に、リホの焦げた体は覆われてしまった。

「だ……だずげ……ハナ……っ」

 黒い霧の中から溺れそうなリホの声が聞こえる。このままでは、リホはよじこと同じ黒い霧になって、本当に連れて行かれてしまう。それなのに、気がつくと私はリホの腕から手を離しそうになっていた。リホを引っぱる手から、力が抜けていくのが分かった。

 そうだ。私は、本当はリホが苦手だった。

 かなり女王様だし、先生に頼まれたのは知らなかったけど、私に言う心配そうな言葉に漂うわざとらしさにも、最初から気づいていた。でも何日も学校を休んでから登校する時は緊張したし、リホに優しそうな言葉をかけられると、やはりほっとした。リホがいなければ自分は本当に一人になってしまうと、いつも不安だった。だからリホがどれだけ私にイジワルをしても、ひどいことを言っても、私は気づかないふりをして笑っていたのだ。

それがリホを面白がらせ、午後四時にあの記念写真を撮らせてしまったのだとしても。

 私はリホに言われるほど、それほど何か悪いことをしたの?

 私がもしここでリホを助けることができても、リホの私に対する態度は全然変わらないに違いない。むしろ、ここまで言ってしまったのだから、開き直って、もっとひどい態度になる可能性さえある。そうだ。私がもしリホの身代わりになってスマホの中に消えてしまっても、リホは当然だと思うだけだろう。

 リホには感謝しているけれど、本当はリホがいない方が、私はもっと穏やかな学校生活を送れるのではないか。他の班員だって、本当はリホがいない方が、リホの顔色を見て気をつかったりしないで済むのではないか。

 いっそこのまま手を離してしまえば……

「ハナ、がんばって!」

 山崎さんの絶叫で、我に返った。

 ダメだ。私は頭を振った。今ここでリホの腕を離してしまったら、私は一生、目の前の友達を見捨てた最低の人間になってしまう。弱いのは仕方ないけど、最低はいやだ。きっと山崎さんもがっかりする。

四時十秒前。九……八……

 リホの腕を握り直して、引っぱった。よじこが黒い顔を上げ、赤い目で私をガッと私をにらみつけた。怖くてまた手を離しそうになるが、それでも手を離さなかったのは、おかっぱの髪を乱して怒るよじこの向こうに、またリホのスマホに手を伸ばそうとする山崎さんの姿が一瞬見えたからだ。

よじこが真っ黒に縮んだリホの上を這いあがり、黒い手を私の方に伸ばしてくる。黒いトンネルのような口を動かして、何か言う。

 オマエも……オマエも……オマエも!

黒く焦げたよじこの手が伸びてきて、私の首をつかむ。苦しい。痛い。四時に向かって、どんどんよじこの力が強くなっていくのが分かる。それでも私はリホを引っ張り続けた。あと少し。あと少しで、よじこがスマホの画面から完全に抜ける。

 私はリホの腕をつかんだまま、なんとか後ろに下がろうとした。後ろに下がれば、よじこも一緒について来て、画面から完全に抜け出ると思った。

「……ぐあっ……」

 襲ってきたよじこの黒い霧が、私の顔面を覆う。目の前が暗くなる。息ができない。窒息する! 

四時五秒前。四……三……二……

 カチッ…………

 教室の時計の細い秒針が、長針に重なる小さな音をかすかに聞いた気がした。

よじこが最も強くなり、最も動ける時間。

しかし私はリホと同じように黒い霧に溺れて、その後どうなったのか、よじこは本当にスマホから抜け出たのか、山崎さんは消去することができたのか、もう確かめることも、声を出すことも、動くことさえできなくなっていた。

 何も分からなくなっていた……



 チチチ、とどこかで小鳥が鳴いていた。ふわり、と暖かい風が流れ、学校を取り巻くつぼみの膨らんだ桜並木を揺らす。

 もう明日から春休みという教室の窓から、澄んだ空を見上げていた山崎さんが、ふいに私を見た。

「ねえ、ハナ。……本当によじこは消えたと思う?」

ずっと気にかかっていたことのようだった。

私も山崎さんの横で、一緒に空を見上げながら考えた。

 あの時、よじこは消えた。

気がつくと、私もリホも床に倒れていて、山崎さんが大声で私の名前を呼んでいた。

 リホと私を追ってスマホからよじこが抜け出した隙に、山崎さんが画像を消去すると、まるで霧が晴れるように、黒いよじこの姿は薄れて、見えなくなってしまったのだという。

 それと同時に、リホの黒く焦げたようになってしまった皮膚も、ユカリを苦しめていた赤黒い腫れも消えた。その頃、病院に入院していたユウタやリョウジの湿疹もウソのように消えたそうだ。

確かによじこの呪いは消えたのだ。

 ただ、今でもスマホで検索すれば、よじこの新しい話はいくらでも読めるし、うっかり四時に自撮りしてしまった人のための相談室まで見つけることができる。本当によじこは消えたのか、それともどこかに潜んでまた引きずり込むチャンスをうかがっているのか、冷静な山崎さんは気になるのだろう。

 しかし私はもう終わったことだと信じたかった。

「消えたよ。あんなに頑張ったんだから。あたしも、山崎さんも」

 私は山崎さんと顔を見合わせて笑い、終わりのホームルームが始まりそうなので、席にもどった。

 平井先生がコンクールで金賞を取った私たちの班の学校模型を、教卓にのせる。しばらく県のホールに展示されていたという模型の縁には金色のリボンが輝いていて、中心になって作ったリホは得意そうだ。

 何も変わったことはなかった。

リホは、助けた私や山崎さんに感謝することもなく、相変わらず女王様を続けているし、リョウジやユウタはともかく、ユカリは今もリホの家来だ。ほんの少し変化したことといえば、リホが私に優しく声をかけたり、無視したり、そんな気まぐれを繰り返しても、あまり私が気にしなくなったことくらいかな。

 リホが代表して模型を受け取り、持って帰ることになった。ホームルームが終わると、みんながリホの机を取り巻き、模型を覗きこんでほめた。リホはその賞のごほうびに、今日はお父さんから特別のお小遣いをもらえるの、と自慢している。

 しばらくぶりに見る夕暮れの体育館の模型は、やはりよくできていた。体育館の少し錆びた丸い屋根。横の花壇にならぶ、各学年が植えたアサガオの花や、ヘチマのつる。その横にあるウサギ小屋をのぞき込む子供たちの後ろ姿も、夕暮れの日ざしや友達どうしの会話が感じ取れそうなほど、生き生きと再現されている。子供たちのうちの一人はリホ本人だ。リホはいつも作品のどこかに自分自身の姿を入れる。

 そして……

「考えてみれば……」

 私と一緒にその模型を人だかりの後ろから見ていた山崎さんが、ぽつんと言った。

「模型も、一つの写真と言えるのかな」

「え……?」

あたしは山崎さんを見た。山崎さんはじっと思い出すように模型を見ていた。

「だってそうでしょ。記憶の中の懐かしい時間が、そこに写し取られているんだもの。そうだとしたら……あの日、あの記念写真を撮っていた日に模型が完成したとしたら……その完成した時間はやはり、あの時になるのかな。リホたちが記念写真を撮った……」

 山崎さんは、あたしの表情に気づき、あわてた様子で苦笑いした。

「もう、そんな驚いた顔しないで、ハナ。なんとなく考えたことを言ってみただけ。じゃあまた明日、図書室でね」

 明日は図書室で待ち合わせて、一緒に買い物に行こうと話していた。私はなんとか笑顔を作って、うなずいた。

 本当に、よじこは消えたのかな。

 私は教室を出て行く山崎さんを見送りながら、もう一度考えた。

 山崎さんが画像を消去して、よじこが消えたと思ったあの時。もし、私も山崎さんも考えもしなかったところに、実はよじこが移っていたのだとしたら……

 私は、気づいてしまった。

 リホが大事そうに袋に入れた模型。そのウサギ小屋をのぞき込む子供たちの小さな後ろ姿の人形が、以前より一つ増えていることに。

その人形は黒いおかっぱ頭で、一緒に遊びたそうに、リホの人形の方にじっと顔を向けていた。

 でも、もちろん私はそれをリホに言わない。

模型に何がまぎれていようと、模型がいつ完成したものであろうと、それにリホが気づいたりしなければ、何も起きることはないのだから。

 気づいたり、しなければ。

 日の当たる校門を、うれしそうに出て行くリホの後ろ姿を、私は教室の窓から見えなくなるまで眺め続けた。リホが模型を家に持って帰っても再び見返すことがないように、さっさとどこかにしまい込むようにと、願いながら。



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