第3話 卒業写真(3)



〈ね、ナツミ、聞いた? シオリのこと。そう、あのいつもイジメばかりしてた子。中学は私学に行っちゃったから、その後は知らなかったけど。お母さんが近所の人に聞いたんだけどね、昨日から入院中だって。よく分からないけど顔の半面にひどい痣ができて腫れて大変なことになってるらしいよ。でもね、それだけじゃないの。別の六年制中学に行ったツヨシ。あの頭いいのを鼻にかけて、まわりを見下してたヤツ。あいつも今入院してるって。昨夜から原因不明の腹痛で苦しみだして救急車呼んだみたい。何だろう。怖いよね〉

「……うん」

 早く伝えたかったのか、珍しく午前のうちに電話してきたサチの話をぼんやりと聞きながら、私は思ったより冷静だった。

冷静なのか、もう感覚がマヒしてしまったのか、自分でもよく分からない。

〈お母さんはさ、シオリの方だけでもお見舞いに行った方がいいんじゃないかって言うんだけど、でも、もうずっと話したことも会ったこともないのに、ちょっとね〉

「……うん」

〈ナツミ、どうかしたの。なんだか変だよ?〉

 サチが心配そうな声で聞いてくる。自分では分からないが、やはりどこか変なのだろう。

〈そう言えば昨日言ったデータ、もう移した?〉

 サチは自分で言ったことなので、まだ気にかかっているようだ。

「ああ……ごめん。あのスマホ、やっぱり壊れちゃって。もう、移せないと思う」

〈ええ! だから早く移しておきなよって言ったのに〉

 サチの大げさな反応に、ちょっと笑ってしまう。

 でももう、本当に無理だ。壊れたのではない。今朝、私はあれを自分で壊した。ちょうど同じロッカーの中に入れていた、小学校の版画の授業で使った彫刻刀。その金属製の刃の部分で、力任せにガンガン刺して壊した。

 黒い霧の手は、引っ込んだ。画面は粉々にひび割れた。もう光ることも、動くこともなくなった。

 もちろん母が、何事かと起きて来て私の部屋をのぞいたが、私は……何か虫が出たようなことを適当に言った気がする。虫が大嫌いな母は、まだ春先なのにと眉をひそめ、それ以上部屋に入ってきたりはしなかった。たぶん虫を見たくなかったのだろう。

 そして私は、両親が出勤して家に一人になってから、キッチンにあった小型のバーナーを持ち出して、叩き壊したスマホをさらに火であぶり、溶かしたのだ。

 どうしてもこの画面を消滅させたかった。火であぶるにつれ、画面は溶け縮み、真っ黒になった。火はあらゆる悪いものを浄化させると何かで読んだことがある。だからこれで大丈夫だ、と何度も自分に言い聞かせた。それから、まだ怖かったけれど、見えないように袋に入れて、家から遠い不燃物置き場まで自転車で運んで、捨てた。大きな金属性のボックスの一番下に放り込み、上から、すでに置いてあった不燃物をたくさん被せた。

大丈夫。これで絶対、大丈夫。

そしてようやく家に帰ってきたところに、サチの電話があったのだ。

〈で、ね。あたし今日の午後、そっちに遊びに行くって言ってたけど〉

 と、サチが続ける。そう言えば、私がサチの家に遊びに行った時、帰り際にそんなことを言っていたなと思い出す。

〈お母さんから用事頼まれちゃって。行くのが少し遅れて……午後四時くらいになるんだけど……いい?〉

 ……四時。

「うん……大丈夫」

 四時、というところに引っ掛かったが、私はそう答えた。少しくらい遅れても、やはり来てほしかった。一人でいるのは、なんとなく怖い。

 通話を切ってから、とにかく部屋を片づけておこうと思った。ここ数日、スマホやフォトブックのことで気を取られて、掃除をしていない。それにロッカーの床にはうっかり焦げを作ってしまった。扉を閉めれば分からないが、念のために何かを置いて、隠さないと。

 ロッカーを開けようとして、私は震えた。

―何度スマホを捨てても……戻ってくるんだって。

 まさか……。あれだけ壊して、焼いて、遠くに捨てたのに。

 なぜ扉を閉めてしまったのだろう。開けるのが怖い。が、開けないままでいるのは、もっと怖い気がした。

 一瞬目を閉じ、勢いをつけて扉を開く。

 なかった。ロッカーの床に少し焦げた跡が残っているだけだ。ほっとして、長い溜め息をついてしまう。大丈夫。大丈夫だ。

 その後は思ったより順調に部屋の片づけが進み、午後になると私の口からは鼻歌さえもれるようになっていた。やっと普通の春休みがもどってきた感じだ。念のためロッカーは開けたままにしておく。しかし何度通りがかりに見ても、変化はなかった。

 うれしい。

 玄関の呼び鈴が鳴った。

 サチだ。時計を見ると午後四時二分前。少し早めに来ることができたらしい。

 二階の部屋にいた私は一階に降りようと部屋を出た。出る直前、ロッカーの中を見る。やはり何もない。当たり前だ。もう気にするのはやめよう。

 ただ今日は、家のすぐ隣で始まっている道路工事の音が、結構うるさかった。午前は何かドリルのような音。午後もダダダダと地面を叩くような音が断続的に続いている。先ほどから、カリリ、カリリ、と何か路面を金属で引きずるような音も聞こえ始めた。騒音にサチも驚いているだろう。さっさと二人で外出した方がいいかも。

 そう思った時、ふいに工事の音が全部止まった。今日の作業は終わったらしい。

 急に訪れた静けさの中、私は階段を下りる途中で立ち止まった。

 妙なことが気にかかった。もう、どうでもいいことだけれど。

 どうして、よじこは……よじこなのだろう。

 やはり四時にこだわりがあるから? 午前四時とか、午後四時とか。その時間が、一番よじこの力が強くなるから?

 どうしてよじこは、まるで黒焦げのような黒い体をしているの?

 もしかして、これまで〝よじこの呪い〟にかかった人も、スマホごと焼こうとした、とか。それでもまた現れるとしたら、焼くのはもしかして、意味がないの?

 むしろ、よじこを怒らせたりしないの?

 あの……あの、カリリ、カリリ、という外から聞こえる小さな金属の音。金属が路面で擦れながら移動するような音は、何の音なの? なぜ途切れ途切れに聞こえるの? なぜ今も続いているの? 工事の音は止まったのに。車に機械を積み込む音や、作業が終わって談笑する人の声も遠くに聞こえるのに。

 なぜ、この金属の音だけ、近いの?

 そしてなぜ……音は玄関の方に向かって移動しているの?

 カリリ……カリリ……

 玄関の呼び鈴が、また鳴った。

 早く玄関のドアを開けないと。サチを待たせてはいけないから。

 カリリ……カリリ……

 私はまた、手すりに寄りかかりながら階段を下り始める。下りたら玄関はすぐだ。

 カリ……

 私は玄関のドアノブに手をかける。

 コン、コン、コン。サチが困り果てたのかドアを外側からノックした。

「もー、ナツミってば。まさか忘れて出かけたんじゃないよね」

 ドアの向こうでサチがぶつぶつ言っている。いつものサチの、ちょっとお姉さん気取りの声。

 急に今考えていたこと全部が、バカバカしくなった。

 考え過ぎに決まっている。あの時男子が話していたことは、全て噂だ。あの子だって本当に見たわけじゃない。私はあれを壊して焼いて、すごく遠くまで捨てに行った。それが帰ってくるなんてバカげている。もうあんなこと全部気にしない。全部忘れてしまっていいんだ!

「ごめん、サチ。待たせちゃって」

 私は笑顔を作り、勢いよくドアを開いた。

 よじこが、いた。

 焼け溶けたスマホの画面から黒焦げの上体を生やして、縮れた黒髪と黒焦げの顔に真っ赤な目を裂けるほど見開いて、私を見ていた。スマホの外に出た黒焦げの両手を玄関先の階段につき、一段ずつ近づいてくるたび、引きずられるスマホがカリリ、と音を立てた。近づくよじこの顔が歪む。今にも飛び出しそうに開いた赤い目が、私をにらみつける。

 おまえだ。あたしを焼いたのはおまえだ。

 おまえだ。おまえだ。おまえだ。おまえだ!

「いやあああああああああぁぁぁぁぁぁぁぁ!」

 私は絶叫して逃げた。

 なぜなら、よじこが私をこの上なく恨み、憎んでいるのが分かったから。こんなことをしなければ、一緒に画面の中で仲良く遊んであげたのにと、恨めしそうに黒い穴のような口を動かして言っているのが分かったから。

 仲良く遊ぶなんてイヤだ。スマホの画面の中なんて絶対イヤだ。それにもうあたしは憎まれている。憎まれた私はどうなる? 顔面が腫れるより腹を踏みつけられるより、酷い目にあうに決まっている!

 だから逃げた。走って逃げた。何かにぶつかったが、それでも構わず逃げた。強い力に引きもどされそうになったが、振り切って走り続けた。

 そして……

 タイヤの軋む、信じられないほど大きな音が耳元に聞こえたのと同時に、私は体が吹き飛ぶような衝撃を受け、そこで何も分からなくなってしまった。



 何も分からない。

病院の先生によると、私はキオクソウシツで、全部忘れてしまったそうだ。

 私の目の前にいる人は〝おかあさん〟らしいけど……覚えがない。

 その〝おかあさん〟の隣に、今日は知らない別の人もいる。〝サチ〟といって、私の親友らしい。

 おかあさん、は済まなそうに言う。

「ごめんなさいね、サチちゃん。せっかくお見舞いに来てくれたのに。本当に全部忘れてしまっているの。ケガは運よく、軽くて済んだのだけど」

 私こそナツミを引き止められなくてすみません、とサチ、はおかあさん、に頭を下げる。

「いいのよ。ナツミが悲鳴を上げて、引き止めようとするサチちゃんを突き飛ばして自分で道路に走り出たのは、近くにいた道路工事の人の話からも分かっているから。……なぜ悲鳴を上げたのかは、分からないけど」

 サチ、は心配そうに私の顔を覗きこみ、首を横に振る。

「あたしも、何度も警察に聞かれたんですけど……なぜナツミがドアを開けた途端、悲鳴をあげて道路に走り出たのか、今もどうしても分からなくて……」

 サチ、も分からないらしい。

 私も分からない。何も思い出せない。

 でも……なんとなく、それでいいような気がする。全部忘れたままの方が、しあわせ、のような気がする。と言うより……思い出したくない。思い出す、という言葉は、なぜか私の中に、ぞっとするような不安を呼び起こす。理由は分からないけど。

「でも大丈夫だよ、ナツミ。記憶がなくても、あたし、ずっとナツミの友達だからね」

 そう言って、サチ、は笑った。

 この人はいい人らしい。私も取りあえず笑っておく。

「そうそう、今日サチちゃんが来たら、三人で一緒に見ようと思っていたの」

 急に明るい声で、おかあさん、が言った。

「昨日写真屋さんから電話がかかってきてね。サチちゃんの勧めでナツミが作ったフォトブックが出来上がっているという話だったので、引き取りに行ったの」

 フォトブック……

「うわあ、見たいです。ナツミも一緒に見よ。小学校の時のあたしやナツミとか、卒業式の日の写真とか、見たら何か思い出すかもしれないよ」

 そつぎょうしゃしん……卒業……写真……小学校…………

「い……いや……いやああああああぁぁぁぁ!」

 私は頭を抱え、布団をかぶって病室のベッドの上にうずくまった。

「ご、ごめん、ナツミ。いいよ、無理しないで」

 あわてたサチの声が布団の上から聞こえる。

「ごめんね、ナツミ、サチちゃんも。驚かせてしまって……」

 おかあさん、も私の肩を布団の上から優しくさすって言う。

 でも私は知っている。おかあさん、はサチが本当は私をいじめていて、いじめから逃げようとして、私が道路に飛び出したのではないかと疑っている。フォトブックも、サチが私に無理やり作らせたのではないかと疑っている。

 私は何度も、焦げて溶けた古いスマホというものを、おかあさん、に見せられた。

 家の玄関先に落ちていたそうだ。小学校の頃私が使っていたものだと言うけれど、もちろん記憶はない。ただどうしようもなく怖かったので、私はその時泣き叫び、目の前のスマホを払いのけた。それでもおかあさん、はサチが焼いたのではないかと、しつこく私に聞いた。誰が焼いたのか、どうして焦げたのかなんて、今の私に分かるはずがないのに。

 分からないままでいい。

 私は布団の中で震えながら思った。私はフォトブックを絶対に見ない。もちろん卒業写真も見ない。ずっと忘れたままでいい。サチが、今日は四時になったら帰りますが明日また来ます、とおかあさん、に言っているのを聞くと、なぜかとてつもない恐怖を覚えたが、それでも、何も思い出さなかった。よかった。このまま絶対に思い出したくない。思い出さない限りは……

きっと私は、安全だ。

「じゃあ、サチちゃんだけでも見て。一緒に写っている写真もたくさんあるの」

 おかあさん、に言われて、サチがフォトブックを袋から取り出す音がする。

「ああ、やっぱり。この写真が表紙に一番合ってる」

 サチが満足そうに言うのが聞こえた。

「ナツミが選んだ桜の花びらの背景も、とっても似合ってる。ここに笑って写ってる中で、三人も今病院にいるなんて信じられない。本当にみんな笑顔で、いい写真。ナツミもそのうち見てね。校庭の余分なものも消えて、修正も上手くいってるよ」

 そして数秒、サチの声が途切れた。

「あれ? ……校庭の先の鉄棒に、まるで鉄棒で遊んでるみたいな黒い汚れがある。こんな汚れ、あったかな。ま、いっか。米粒よりも小さな、目立たないものだから」


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