4

 公園は人目につくから、私は裸体のマリア聖画の前に座って話すことを提案した。少女は私から差し出された缶コーヒーを大事そうに握った。その様子が栗鼠が団栗を掴むのに似ていたので、私は微笑して彼女をみた。彼女は照れたのかそっぽを向いた。私たちは壁に寄りかかった。座っても良かったが、真冬の深夜の地面は熱を奪うのでよした。

「お姉さんはどうしてここに?」

私は缶コーヒーを一口飲んでから、

「人が群れてないところを探していたの。結構このあたりは静かでしょ?」

少女が段々警戒心を解いていくのがわかった。もし私が四十代の屈強な男だとしたらこうもいかないだろう。私は数寄者の富豪が蝿みたく纏わりつくイエスマンから逃れた先の高架下で少女に通報される想像をした。富豪は肥えて脂に塗れた男だった。私が女であることに感謝したのはこれが最初だった。人間の女ほど生物学的に貧相なものはない。弱者であることを逆手にとって喚き散らす他使い道がない身体だ。

「不思議な方ですね、、。僕の絵を綺麗だって言ったり、落描きを通報しなかったり」

「今までこんな経験あった?絵を描いてる途中に誰かと遭遇したり」

私は胸がざわついているのを感じた。焦燥にも似た、落ち着かない感じ。彼女が天上を見上げて思案しているなか、私は湧き上がる自分の感情について考えていた。地面に転がったスプレー缶の上を団子虫が這っているのがみえた。おそらく彼女のライトに誘われたのだろう。

「数ヶ月前にここから少し上流の高架下で巡回中らしき警官に遭いました。それも三人くらいで。他の地域ではそんなこと無かったんですが。やっぱり大都市だからですかね。全部投げ捨てて必死に逃げましたよ。だから、そこのライトも新品です」

私はこの感情が嫉妬であるとわかった。しかしすぐさま安堵して三人の警官を嫉視することは無かった。彼等は彼女に拒絶されたのだから。

「私も不思議なことがあるんだけど、、良いかな?」

私は改めて少女を見遣った。グレーだと思っていたパーカーは実は汚れた白のパーカーであった。その名残りか、彼女の首周りは新品のように白くみえた。

「どうして私をだと思ったの?」

「手です。お姉さんの指は画家の指です、、すいません、勝手に見ちゃいました。

 僕、創作者の手って美しいと思うんです。勿論単純な美しさでなくて、例えば鍛冶屋さんの手とかごつごつしてますが、僕は好きです。和菓子職人さんはその対極みたいにその手自体が饅頭のように柔らかくて繊細な手ですが、これも好きです。兎に角、何かを創るということに親近感が湧くんです」

「貴方の指も素敵よ。中高生の指ではないけどね」

私は少女の話を聞いて、やはり直感は間違いでは無かったと確信した。彼女は並大抵の観察眼ではない。私は今でこそ画家じゃなくなったけど、芸術の創作者であることには変わりなかった。それは誰にも打ち明けることが出来ないけれど、彼女になら言っても良い気がした、言わないけどね。

 少女は猫舌なようで、缶コーヒーの温度でさえ、息を吹きかけて冷ますのが愛らしかった。もっと彼女の秘密を知りたかった、学校はどうしたの?とかご両親は?とか。けれど彼女が私のプライヴェートに触れない限り、私もそのことに触れるわけにはいかなかったのだ。暫く互いにぎこちない会話が続き、悪戯に二人のコーヒーは減っていった。わかったのは少女の名前くらい(ここからはプライバシーの意味を込めて頭文字のKで彼女を呼ぶことにする)。私はとうとう溜息をついて、

「どうしてこんなところで落描きしてるの?Kの絵が素晴らしいのはわかってるんだけどさ」

私は対等の意味を込めてKと呼び捨てにした。Kは一瞬目を丸くしたのち、

「これが僕の存在意義だからです」

と毅然と言い放った。存在意義?無関係な都市の辺境の高架下に籠って、警官に追い回される危険を背負いながら裸体の聖母を描くことが生きる理由になるのか?私はKの言葉を毒キノコのように訝しみつつ咀嚼を試みた。

「怖くないの?警察に逮捕されるだけじゃない、不審者に刺されるかもしれないんだよ?」

私の稚拙な意見(或いは反駁)を聞いてKはあははと笑った。その声は身長相応の瑞々しいものだった。

「僕はささやかな抵抗者レジスタンスです。A(これは私の頭文字)さんが群集を嫌うのと同じ考えです。僕がAさんと違うのは、、既におやりになっていたら失礼ですが、芸術で行動を起こしてる点です」

私は初めてうら寒い雰囲気をおぼえた。私が対峙しているのは少女ではない。そのことは裁縫針のように小さく、でも何よりも鋭利な牙で私の胸をちくちく穿った。その傷口は狭小な為、湧き出た血液は肺に溜まって息苦しくなる。私は暗に彼女が年下であることに優越感を持っていたのではないか。彼女は私よりもうんと年下の時に社会に戻れないほどの挫折を味わったはずだった。私は風刺画の成金よろしく、彼女の前に立ちはだかって札を燃やすはずだった。しかし眼前の彼女は挫折者ではない。彼女はいずれ興醒めなまでに白い壁を突き破り大地へと羽ばたく雛鳥である、そんな不気味な予言が私のなかで駆け巡った。彼女は叛逆者だ。蚯蚓を装い、私を仲間だと呼びかけながら、自らは鷹に変貌して襲いかかる叛逆者だ。Oh , my GOD.神よ、これでは彼女を完膚なきまで言論の上で叩き潰すか、殺すしかないではないか!

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る