3

 私は狼狽してへたり込んだ。少女はスプレー缶を此方へ向けて睥睨していた。私は咄嗟に眼鏡を外した。私は他人と喋る時、相手にみつめられると吃って仕方なかったから。彼女は半歩下がって言った。

「僕に何か用ですか?」

彼女の胸は発育が遅れた感じだった。パーカーのヴェールの下で鈴蘭のような幼気な乳が踊るのを私は想像した。最初こそ少女にも慄然の感情が湧き出るのが此方からもわかったが、相手が女性であったことに幾らか安堵したようだった。それでもスプレー缶を拳銃のように向けているのには変わりない。

「貴方の絵が素敵だなって見惚れちゃって」

私は素直に答えた。相手は所詮中学生か大きくて高校生位だから、誤魔化すよりも率直であるほうが良いと思ったのだ。しかし彼女は一層陰鬱な表情を浮かべて、

「邪魔、しないで下さいよ。それに、、が観たいならとっとと帰った方が良いですよ、これからんで。僕は続けますから、好きにして下さい」

と唾棄するが如く言った。そしてくるりと背を向けて絵の続きを描き始めた。小さな痩躯の背は子供らしく寛厚で無防備だった。ぶっきらぼうに言われても不思議と腹は立たなかった。彼女は益々私にそっくりだと思ったのだ。それに彼女は私を受け容れてくれたのだ、この狭小な高架下の世界に。

 少女の描く陰毛はまるで樹海のようであった。縮毛のひとつひとつが魂を持って伸びやかに柔らかい皮膚の上にひろがった。私は双生児の妹の恥毛のカラースライドに勇気づけられる男の話を思い出した。私はそれを滑稽な話だと思った、自涜の方面に勇気づけられたとしても。しかしこの女の陰毛に私は胸が揺さぶられるような感動をおぼえたのである、その証拠に私の指はぷるぷる震えている。陰毛は凄艶な女性器から新たな芽が産まれることの象徴としてそこにあった。私は溜息をついた。魅入られるほど美しかった。

 少女は先程よりは控えめに自らを褒め、また赤のスプレー缶を握った。私は少女のという言葉が、処女膜を破られることを意味するのだとわかった。小陰唇は血の涙を流した(或いは吐血したといったほうが比喩として成立するだろうか)。最後の血の滴が女の腿をまるで陰毛と対抗するように伸びやかに垂れきると、私は拍手をせざるを得なかった。少女は私を一瞥すると、最後に白色のスプレー缶をとって次のように書いた。

 The virgin Mary needed a penis to give birth to Christ.

私は思わず感嘆の声をあげた。私は股を広げる女性が聖母マリアであるのを知った。この時ばかりは私も神を拝んだ、やはり少女は天が私に遣わした贈り物であると思った。そして私は彼女と話してみる価値はあると思った。最後に誰かと対話することに価値を見出したのは随分前のことだったから(爺との会話はあくまで偶発的事象であった)私は私の変貌に驚いたほどだ。

 私は生きることに辟易しそうだった。それでも死ぬのは怖かったし、死んだら死んだで得しないだろうと思った。だからこそ月末は空っぽの財布をかなぐり捨てて雑草を探している訳だ。

 世界を川に準えるなら、私たちは水泡に過ぎない。小さな崖枯葉の下の間隙から始まり、あらゆる惑星に流れる時間=無数の川がひとつの海に還るまでにぱっと現れて呆気なく消えていく。水泡が生まれ、弾けることには意味があるのだろうか。答えは勿論無い。しかし私たちは中途半端にを僭称している(爺の皮肉で喩えるなら神の仮装をした傲慢な猿、ということになる)手前、この世に生を受けても意味はありませんということを納得できない。しかし私は少女との対話に救済の技法が隠されている気がしてならなかった。或いは、先刻の無意識的興奮はそれを暗示していたのかもしれない。私は残ったスプレー缶を片付けてさっさと帰ろうとする彼女のグレーがかったパーカーの袖を引き留めた。至近距離でみた彼女の手はしなやかでお人形のようだった。それでいて親指と人差し指は別人のようにざらついていた。

「お、お話しない?コーヒー、奢るからさ」

私は自分と彼女の分の缶コーヒーを買えるか買えないかの瀬戸際くらいの小銭しか持っていなかったにも関わらず、咄嗟に餌をぶら下げたのだ。昔ならMONSTERでさえ躊躇なく買えたというのに、今の財布の中身は枯野よりも悄然としていた。彼女は暫く私と袖を交互にみつめると、何かを思案しているようだった(私と同じようにを見定めていたのかも知れない。缶コーヒー一杯分のを)。

私は笑ってみせた。暫く他人と喋っていなかったからひどくぎこちない感じだったに違いない。しかし、

「お姉さんはかもしれませんね」

と言って彼女は承諾したのだった。私はもう嬉しくて仕方なかった。蚯蚓が他の蚯蚓と邂逅するのは生涯で何度だろうか。私は彼女以外にを見つけることは出来ないという予感がした。しかし何故服だけは立派に着飾った女を彼女は同志だと断定したのだろう。彼女にも直感が働いて、と考えるのは虫が良すぎるような気がしたが、そう思うことにした。

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