死体が言うには

ある新聞記者が昼下りに仕事を終えて帰っている途中、道端に倒れている男を見つけた。

その新聞記者は特に気にすることなく通り過ぎようとしたが、その倒れている男がおもむろに声をかけてきた。

「神はあなたに話せと言いました。少しばかり私の話を聞いて頂けますか。」

新聞記者は驚くこともなく「いいですよ」と、柔らかい声で答えた。

普通なら、恐がって逃げるであろうが、その新聞記者は人間とは言い難いほど倫理観と常識が欠如していた。なのでなにも気にせず、異常とも思わず、ただ人間と会話をするように応えたのだった。

その新聞記者の柔らかい声を聞いて、倒れている人の顔は穏やかな笑顔になった。

そしてゆっくりと体を起こし、道の端まで歩き、そこに座った。

「話というのはどんな話なのですか?」

新聞記者は男の前に同じようにして座った。

「実は私は死体でしてね。ついさっき、薬を飲んで死んだのですが、神があなたにすべてを話せといったのです。」

男の死体はそこからゆっくりと話を始めた。

私はダメ人間でしてね、何をやっても上手くいかなかったのです。そのうちできないことに苛立って、精神が不安定になり、色々な人に相談したり話を聞いてもらったりしながら、どうにかやってきたわけなのですが、途中で聞くのがバカバカしくなってきてしまったのです。私の悩みを聞いたあとに返ってくる言葉は、当然といえば当然ですが励ましの言葉でね。みんな同じだったのですよ。やればできる、もうちょっと頑張ってみよう、無理しなくていいから。私がわがままで贅沢を言っていることは分かりますが、その言葉ではもうちょっと頑張ろうと思えなくなったのです。私が血や汗を流し、骨を粉砕するほど頑張ろうとも、返ってくるのは褒め言葉ではなくダメ出しばかりでした。そのうち私は本格的に心が壊れて、うつ状態になったのです。

・・・人間の中には必ず、2つの人格が宿るということをご存知でしょうか?

人間というものの中には「理性」という人格と「欲望」という人格が宿っているのです。

正確に言えば人格と言えないでしょうが、似たようなものです。

それぞれ違う考え方を持っているのですから。

理性は欲望のブレーキと言われますが、もっと詳しく言うと、会議の議長のようなものです。

最終的にすべての意見をまとめ、判断を下す役割です。

欲望は生きるために色々したがる子供のような無邪気な人格です。全く可愛いものですが、彼は常識を知りません。そこで理性が欲望との妥協案を出してやりくりしているのです。

しかし私の場合、最初からなのかもしれませんが理性も欲望も役割を間違えていました。

辛いとき、私は泣きたいと思いました。勤務先を休んで、布団の中でずっと、泣きたいと思いました。

しかし理性がそれを許してくれませんでした。泣くことを禁止し、勤務先ではいつもの「明るくてちょっと不思議な男」を演じさせられました。本当はパートに出たとしても、ちょっと暗い感じで、少し人を避けながらやりたかったのですが、それも許してくれませんでした。

それどころかそういう暗い感情になることすら禁止して、私は酒でも飲んだかのようにいつも通り仕事をしました。

帰ってから泣きましたよ。

欲望は私の人格を徐々に壊していきました。

私は最初は他人に迷惑をかけたくない、かけるなんてもってのほかと考える、紳士のようなものでしょうか。そういう人間だったのです。

しかし欲望は、

「お前なんてダメ人間なんだから、いつか自殺しちまう。その間に楽しむだけ楽しもうぜ。死んじまったら他の生きてる奴らなんて関係ないさ。思いやる気持ちは、『生きるため』に必要なもんなんだから。死んじまえば意味のないものさ。」

と、私に言い聞かせて、少しばかりの悪行をさせました。

そうしているうちに罪悪感は壊れます。そして倫理観や羞恥心も崩れていきます。なんて脆いのでしょうか。

あなたは「ドグマ新聞」というものを読んだことがありますか。

それは新聞と言うには奇妙で、日々のニースではなく、ものすごく短い物語と、あまり必要ではない豆知識が羅列された不思議な新聞でしてね、その中の小話に「革命家のパン」というものがあるんですよ。

二人の革命家の、朝ごはんのパンに関する小話でね。

一人の革命家は、物凄くまずいけど、栄養満点で薬のようなパンを毎朝朝食に食べていて、彼は言うんです。「100年生きてこの国を良くする」と。

そして二人目の革命家は、対極するように、ものすごく美味しいけど、栄養バランスもぐちゃぐちゃで、専属の医者からはもはや毒だと言われるパンを毎朝食べていて、「50年生きてこの国を変えてやる!」と威勢よく言うんです。

私はこれを人生哲学として捉えました。

長く我慢強く石のように生きて、所々で起こる小さな幸せを感じながら生きるか、短く生きて、一生を美しく桜のように一瞬を楽しんで死ぬか。

そういう意味で捉えました。

私は後者ですね。威勢こそありませんが、学生時代は最高に楽しんだものです。

人生の意味は数学でいう0に関する計算のように、たとえ分かったとしてもタブー視されてきた。しかし、人生はマラソンのようと言われるように、何かに向かって走り続けるもの。人生の意味とは掴みたいものということです。

人生において、何十年かけてでも手に入れたいものが人生の意味となります。

しかし私は夢がありませんでした。人生の意味がないということは、命に価値がないのと同じです。

あなたは不思議ですね。おそらく命に価値がないと言えば皆さんは絶対あると答えるでしょう。ありがとうございます。私にとっては慰めです。

男は小さなため息をついて話を終えた。

「面白い話をしてくださりありがとうございます。小説は現実より奇なりですね。何気なく手に取った本に、自分自身のことが多く書かれている。自分の好み、自分の考え、自分の本心。気づいていなかった自分自身のことを教えてくれる。幾万とある文字列が、単語が、自分を作ることすらある。」

「そうですね。「小説は現実より奇なり」これはあなたの言葉ですか?バイロンの言葉によく似ています。」

「小説とは人間の不思議を詰め込んで圧縮し、それを積み重ねたようなもの。その不思議さや奇怪さは現実如きでは超えられません。」

「面白い言葉ですね。気に入りました。」

そういった時、男の体が徐々に消え始めた。まるで幽霊のように影が薄くなり、もう傾きかかった夕暮れの空と同じになろうとしていた。

「私の心の話を聞いてくださりありがとう御座いました。ああ、あなたに面白いことを教えてあげますよ。」

男の下半身はもうなくなり、残りは顔だけになっていた。

男は精一杯の笑顔を見せ、嘲笑するように

「神の見た目は、よく絵画で描かれるサタンでしたよ」

といい、完全に消滅した。

新聞記者は何事もなかったかのように立ち上がり、男のいたところに向かって

「世間という客観的な主語はやはり主観であり、ドグマに過ぎないのだな。私の新聞があそこまで人を動かすとは。私のドグマも悪くないのかもしれんな」

とだけ言い、家路についた。


この物語を書き終えた私は、タイトルに「死体が言うには」とつけて、パソコンの電源を切り、布団に潜った。

しかしなかなか寝れないので

睡眠薬を飲んで再度目を閉じた。


ードグマ新聞

あとがき

この作品は世の中全てに対しての不平不満を小話でまとめようと思って始めた、そんな作品です。

最初は、カフェイン中毒による死について考えていたとき、思いついたのが「コーヒー人間」で、これが一番読んでいただけた話となっています。

「コーヒー人間」には私自身の不満もありますが、「無理しないでよ」という私の勝手な心配も含まれています。

私自身、あまり強い人間ではないので、自身が持てず気が滅入ることがよくあります。

弱いからこそ、その弱さが故の大きな傷を負ってほしくないと強く思って書いたのが半分あります。

読んでくださった方にはぜひ、この小説の「他の解釈と他の考え方」を見つけてもらって、それを心の片隅に置いておいてもらえると嬉しいです。

ここまで読んでくださりありがとうございました。

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