彼女とともに

 青年が作曲作業に没頭してから2週間、ついに青年は彼女の歌を最後まで書き終えた。

 怒涛の速さでの作曲活動だった。

 青年はいてもたってもいられない。

 青年は教会へと急いだ。

 彼の手にはつい先ほど書き上げたばかりの、彼女による彼女のための楽譜。

 夢の中の彼女はどのような表情を見せてくれるだろうか。

 笑顔を見せてくれるだろうか。

 それとも驚いた表情を浮かべるのだろうか。

 青年は走りながら考える。

 わからない。

 でも青年には彼女が涙を流す姿だけは想像できなかった。

 だからきっと彼女は喜んでくれると、青年は理由もなしに確信する。

 彼は荒い息とともに勢いよく教会の扉を開く。

 青年の目の前にはしっとりと黒光りするピアノが一台、月の光を受けひっそりとたたずんでいる。

 彼女と出会える唯一のピアノだ。

 青年は完成したばかりの彼女の歌曲を、いつもに増して優しく、いつもに増して激しく、万感の想いを胸にその音色を響かせた。

 彼のピアノは教会の中を反響し沁みわたってゆく。

 まるで雪解け水がきよらかな川となって大地にしみわたっていくように、やわらかく静謐に。

 ほどなくして青年の夢の中に彼女が現れた。

 宙に舞う花びらを追いかける子猫のように、楽し気にあどけな調子で彼女は歌う。

 彼女の歌声は教会全体を温かい空気で満たしてゆく。

 冬の終わりを告げる春風のように、優しくほがらかに。

 ピアノの旋律と彼女の歌声は、すすがすがしい風とともに海へと流れる川のように、重なり合い混じり合い寄り合って、ひとつの雄大な調べとなって教会のなかで響き渡る。

 心地よい。

 青年はピアノを弾きながら、彼女の無邪気で清らかな歌声にうっとりと耳を傾ける。 

 青年の心の中で彼女に対する熱くたぎる思いが次々と、春の温かい日差しを喜ぶ草花のように芽生えた。

 心臓の拍動がやけに大きく聞こえる。

 まるで沸き上がる熱い思いが体の中を駆け巡るような感覚。

 熱い吐息が青年の口からこぼれる。

 彼女から目が離せない。

 これほどまでに青年は彼女に溺れていた。

 彼はもうろうとする意識の中、夢の中で彼女に手を伸ばした。

 彼の手が歌姫の肩に触れる。

 そして彼はつかんだ。

 彼女は驚いた表情で彼を振り返る。

 そして優しくほほ笑んだ。

 まるで積もった雪を溶かす春の日差しのような、温かい笑顔だった。

 彼女は青年をそっと抱き寄せる。

 彼女のやわらかい抱擁は青年の熱く火照った体をじんわりと冷やす。

 なにやら外が騒がしい。

 青年はおもむろに外の喧騒に耳を傾ける。


「毎晩教会から聞こえるきれいな音楽は一体何なんだ」

「きれいな音よね、うっとりしちゃう」

ガタゴト、バタン!

「人が倒れているぞ!」

「まあ、たいへん!」

「息をしてない!医者を呼べ!」

「まあ、街はずれに住んでるピアノが好きな青年じゃないの!」

「かわいそうに、こんなにやつれてしまって。ろくに食事もとっていないのでしょう」

「毎晩ここでピアノの練習をしていたのか。素晴らしいことだが、死んでは意味もなかろう」

 よく見ると教会のピアノにつっぷした青年の姿が見受けられる。

 倒れ伏した自分自身の姿を見た瞬間、青年はすべてを察した。

 彼女が青年の耳元で問いかける。

「悲しい?」

 青年は首を横に振る。

「いや、むしろ嬉しい。これから僕は君のためにピアノが弾けるんだ。君がやる気をなくしてしまった時も、悲しみに沈んでしまった時も、うれしい気分で満たされてる時も、楽しくて踊りだしたいときも、ずっと君のそばでピアノが弾けるんだね」

 本心だった。

「じゃあ私はあなたのために歌を歌うわ。あなたがそうしてくれるように、私もずっとあなたとともにいるわ」

 紅茶色の温かい瞳が青年をのぞき込む。

 青年は甘いはちみつを入れた紅茶をかき交ぜたかのような、温かい感情が体の中でゆっくりとめぐるのを感じた。

 そして彼女の手を取り高く高く舞い上がり、私たち読者の知りようのない彼らだけの世界へと旅立っていった。

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