彼女のために

 その日から青年は毎日廃墟と化した教会に足を運んだ。

 彼女に会ってから青年は仕事場で何度もピアノを弾いたが、そこでは彼女に会うことはできなかった。

 どうやら夢の中の彼女は、このさびれた教会のピアノでしか姿を現さないようだ。

 青年が教会のピアノを弾くと彼女は現れる。

 そして夢の中で蝶が空を舞うようにリズムを刻みながら、彼女は優雅に歌を口ずさむ。

 そんな彼女の姿を青年はピアノを弾いながらうっとりと眺めては、彼女の歌声が聴けないことに途方もない寂しさをおぼえた。

 

 彼女と出会って1週間が過ぎたころ、いつも通りピアノを弾いている青年は、ある違和感を覚えた。

 青年の弾くピアノの音色がわずかに深みを増したような気がしたのである。

 それはごくわずかな変化で、いつもなら見落としていたにちがいない。

 しかし青年はすっかり彼女に心を奪われていた。

 彼女のことしか頭になかった。

 ゆえに青年は気がつくことができた。

 彼女の歌声が聞こえることに。

 わたげがふわりと舞うような、かすかな彼女の歌声。

 それが青年の奏でる旋律と合わさる。

 耳をすませばかすかに聞こえる彼女の小さな歌声に、青年は言葉にできない大きな喜びで胸がいっぱいになった。


 彼女と出会って1カ月。

 青年は作曲に挑戦しようと心に決めた。

 彼女のつむぐ歌は青年が今まで聞いたどの歌にも当てはまらず、この世界にまだ存在していない、この世に生まれいずるときを待つ黎明の歌なのだと、青年は悟ったからである。

 彼女の歌声を完璧なものにしたい。

 彼女と共に音楽を奏でたい。

 彼女に対する熱い想いが、青年を作曲の道へと掻き立てた。


 青年は昼も夜も作曲に明け暮れた。

 昼は仕事そっちのけで彼女の歌を創り、月が天中にさしかかる頃になると、青年はふらふらと教会まで訪れ、彼女と共にピアノを奏でる。

 仕事は手につかなくなり、青年の生活はさらに困窮したが、ふたつとない彼女の歌を書き上げるという使命感が、彼の不遇な窮状を凌駕した。

 薄暗い教会の中で月の光を受けた彼女の姿は、輝かしい鱗粉をふりまく蝶のようにきれいで、疲弊した青年の心は瞬く間に癒されていく。

 青年は昼間に丹精込めて作曲した制作途中の楽譜を夜な夜な教会に持ち込んでは、彼女の歌声に合わせてピアノを奏でる。

 青年が作曲中の歌曲が完成に近づけば近づくほど、青年が作曲中の歌曲に魂を込めれば込めるほど、彼女の歌声はより鮮明にはっきりと青年の耳に届くようになった。

 青年の奏でる音楽が完成に近づいていくと、夢の中の彼女はよりいっそう心から楽しそうに微笑み、紅茶色の温かい瞳を優しく彼に向ける。

 まるで楽曲の完成を待ちわびているかのような、ぱっと花が咲いたようなはち切れんばかりの笑顔。

 しかし、夢の中で青年が彼女に手を伸ばしても、彼女に触れることはできない。

 その度に彼女は困ったように小首をかしげ、寂しげなその瞳を青年へと向ける。

 この瞬間だけは身を切るように辛くて、肺が水で待たされたかのように苦しくて、青年は身を焦がす思いで、彼女の憂いを帯びたその瞳を見つめることしかできなかった。

 そして青年は彼女をこれ以上悲しませまいと、さらに喜ばせようと、作曲活動に熱を入れるのだった。

 

 

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