ピアノマンと歌姫

ことはたびひと

出会い

 青年はピアノを弾いて生計を立てていた。

 朝はカフェテリアでピアノを弾き、昼は教会に集まる合唱団の伴奏を、夜は酒場で気の利いたジャズを演奏している。

 朝から晩までピアノを弾き続けても、青年の稼ぎは今日一日食いつないでいけるかどうか。

 でも青年はお金のことなど気にしなかった。

 どんなに給料が安かろうと、ピアノさえ弾き続けることができれば青年は満足だったし、ピアノを弾いている間だけはなにもかも忘れ、音楽に夢中になれたからだ。

 ある日、店でピアノを弾いた帰り道、青年は街はずれに朽ちた一軒の教会を見つけた。

 今はもう使われなくなったその教会は、屋根の一部は崩れ落ち、まるで忘れ去られた誰かをまっているかのように、じっとそこにたたずんでいる。

 青年はよろよろと、何かに導かれるように教会の中に足を踏み入れた。

 割れた窓からは夜風が途切れることなく吹き込み、教会の中にある長椅子はどれも朽ち果て、ぞんざいに打ち捨てられている。

 昔はさぞ立派だったステンドグラスも、今は薄汚れ蜘蛛の巣が張っていた。

 青年は荒れ果てた協会の中央を眺める。

 そこには一台のピアノがあった。

 穴の開いた屋根から注ぎ込む月明かりがピアノを照らし出し、水にぬれた黒曜石のように、そのピアノはしっとりとした輝きをはなつ。

 青年は花を愛でるように優しくピアノに触れ、軽く鍵盤を弾いた。

 トーーーン……。

 澄み渡ったきれいな音色が、教会の中で美しく響く。

 まるで朝焼けの大気に満ちる、すがすがしい空気のような、清廉な響き。

 青年は鍵盤に両手を添え、思うがままにきれいな旋律を響かせた。

 ときには優しく、とくには激しく。

 まるで我が子を思いやりのこもった目で見守る母親のような優しさをもって、まるで初めて見る外の世界に驚く小鹿のように生き生きと、青年は鍵盤の上で指を走らせた。

 青年はピアノを弾きながら夢を見た。

 白いドレスを着た女性がたおやかにたたずんでいる。

 何か口ずさんでいるようだが、声は聞こえない。

 ただ白いドレスをひらりと揺らす彼女の動作は、大空を自由に飛ぶ鳥のように優雅で、風をうけくすぐったそうに笑う野の花のように可愛らしかった。

 青年はピアノを弾きながら、ぼうと彼女のことを見つめる。

 はちみつを溶かした紅茶のような彼女の温かいまなざし。

 青年は彼女から目が離せない。

 自分の吸って吐いてが続く息の音がやけに大きく聞こえる。

 この時間が永遠に続けばいい。

 青年は彼女を眺めながら、陶然と呆然と思う。

 夢の中で青年は彼女にそっと手を伸ばした。

 しかし青年の手は彼女を通り過ぎて、むなしく空を掴んだ。

「君はだれ?」

「……」

 彼女は答えない。

 ただ、甘い紅茶のような温かい彼女の瞳に、ちらりと暗い影が宿ったように見えた。

 彼女の瞳に宿ったその影は、まるで注いだばかり温かい紅茶が徐々にそのぬくもりを失っていくような、そんなもの悲しさに似ていた。

 夢の中の女性は青年に向きなおりたおやかに微笑んだかと思うと、白い吐息が風にたなびくようにして青年の前から消えてしまった。

 気がつけば、薄暗い教会の中にうっすらと日の光が差し込み、朝もやのしっとりとした空気が教会の中に漂っている。

 青年は一晩中この教会でピアノを弾き続けたようだ。

 徐々に色彩を取り戻しつつある教会で、青年はひとすじの涙が頬をつたうのを感じた。

 まるで心の中が沸き立つような涙。

 心の琴線に触れるものに出会ったとき、人は涙するのだと、青年はこの時はじめて知った。

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