第4話

 そうか。父は別に会津を厭わしく思っていたわけではないのか。むしろ、相当な恩義を会津に対して感じていたに違いない。だがそれだけに、余計に恨みが募る。

 遂に、貞信は聞きたくてたまらなかったことを訊ねた。

「父上。なぜ、私と母上を二本松にお連れくださらなかったのですか」

 聞いたと同時に、激しく後悔した。せっかく会えた父に、向けて良い言葉ではない。だが、一度口を出た言葉は取り消せなかった。

 案の定、父は寂しげな表情を浮かべた。しばらく黙っていたが、やがて、ぽつりと漏らした。

「お前は会津の御子おこだからだ」

「は?」

「遠藤家のためだけではなく、会津に捧げるべき御子だから、会津に預けてきた」

「よく分かりません」

「そうだな」 

 父は苦しそうな表情を浮かべていたが、説明を付け加えてくれた。元々、二本松藩では身分の上下に関わらず、子どもたちは一律に「藩の御子」として、藩ぐるみで見守る風習があった。その御子は、丹羽の殿のためのものであり、将来は領民を守る護民官となる者たちである。それゆえに、厳しくも愛情を持って育てられるのだった。

 会津藩でも子供を大切にするが、それは身分秩序にもとづいてのものであり、二本松のような、藩全体が一つの家のごとく育てる気風ではなかった。 

「会津にも、あの辛苦の中で育てて頂いた恩があった。その会津から、どうして私心のために御子を奪えようか」

 父の言葉は、堪えた。確かに会津に義理を通すならば、父は単身二本松に戻るしかなかったのだろう。だが。

「どうして、会津にお留まりにならなかったのです」

 それが、どうしても貞信には納得できなかった。

 父は、更に苦悶の表情を浮かべた。

「西南の役で……」

 こちらは、わずかながら母から教えてもらっていた。眼の前にいる父は巡査をしていた時期があり、九州で武功を立てたと聞いていた。家には、その時の勲章も置かれていた。

「西南のえきがどうかされたのですか?」

「西南の役で、薩摩の者を憎めなくなった」

「どういうことです」

 思わず、気色ばむ。それもそのはずで、今や、教科書にまで会津は「国賊」と明記されているのである。そんな環境で育った貞信も、もちろん薩長に対しては良い感情を抱いていない。まして下の伯父は、戊辰の戦いで殺されたというではないか。父にとっても、恩師や朋輩を殺した敵であるのに、なぜ。

「田原坂では抜刀隊に加わって、お前と同じくらいの子供も、手にかけてきた」 

 貞信は、反射的に父の言葉に身を引き、じっと父を見つめた。この穏やかそうな父が、そんなことをしてきたとは、にわかには信じがたかった。

 西南の役では、戊辰の役とは逆に、殺戮側に回ったということか。

「西南の役で共に戦った友は、故郷で可愛がっていた者を手にかけなければならなかった。私を救うために。それを知りながら、薩摩というだけで憎むことができなかった」

 その言葉には、武功を誇る匂いは全くしなかった。むしろ、罪悪感すら感じさせる声色だった。

 貞信は、返す言葉が見当たらなかった。自分だったならば、どうしただろう。だが、反薩長の空気が強い会津でそんな話をすれば、たちまち反感を買うであろうことは、容易に想像できる。母の伊都ですら、受け入れがたいのではないか。

「それで、なのですか?」

 やっとの思いで、それだけを訊ねた。

「自分に嘘はつけなかった」

 父が、そっと目を逸した。分かる気はする。だが、そのために自分は父と離れればならなかったのかと思うと、やはり悔しい。

 自分の我儘なのだろうか。

「憎しみは、次の憎しみを生むだけだ」

 ぽつりと、父が呟いた。まるで、自分が父の事をずっと恨んできたのを知っているかのように。

 それでも、この父はその怨みごと自分を受け止めてくれるのだろう。会津を去ると決めたのは、西南の地での見聞を経て、そのために遠藤家の人を傷つけたくなかったに違いない。自分が憎まれ役となってでも会津を去ることで、遠藤家の人々を守ると決めたのだ。

 そう思うと、再び涙が滲みそうになった。汗を拭うふりをして、慌てて顔を手拭いで擦る。

 自分の父は、何と強い人なのか。 

 ふと、記憶の底から蘇る言葉があった。

「剛介殿は二本松藩の大切な御子として育てられ、十四で戦に臨まれた。そして、自ら傷つけた者にも慈悲の心を持てる、真の武士である。そのような方の御子であることに、誇りを持たれよ」

 あれは、誰が言ってくれた言葉だっただろう。

 父は、ずっと眼下に広がる二本松の風景を見続けている。

「貞信。伊都は達者にしているか」

 父が、優しく問うた。その言葉に、貞信ははっと物思いから醒めた。

「……はい」

 唐突に、母が独り身でいる理由も理解できた。母は三十路みそじに手が届こうというところだが、未だに再婚しないでいる。「早く再婚すれば良いのに」と思ったこともあったが、この父を心底愛していたからこそ、他に嫁さないのだろう。きっと母は、父が強さと優しさを兼ね備えた人間であったことを理解していたに違いない。

 一つだけ、まだ聞いてみたいことがあった。

「父上は、母上と暮らして幸せでしたか?」

 父が、はにかんだ顔を作った。先程までの寂しげな表情は陰を潜めて、どこか少年めいた雰囲気が漂った。

「遠藤家で暮らした日々は、幸甚だった」

 その言葉は、嘘ではないだろう。遥か彼方の記憶の底から、父の肩に乗せられて、磐梯山を眺めた日のことを思い出す。

 貞信の胸に、ほんのりと灯火が灯った。


 もう、父を怨むのはやめよう。


「そろそろ戻ろうか」

 父はそう言うと、片隅にある墓標に手を合わせた。ここには、父方の祖父の同僚だった人が、眠っているという。こんな場所になぜ、と思ったが、落城の際に、この場所で自刃されたのだそうだ。父に習って、貞信も手を合わせる。きっと、二本松の武士として、誇りを胸に抱いて城と運命を共にしたに違いない。

 戊辰の戦がなければ、父と母は出会うことがなかったのだろう。だが、その二人を分かつきっかけになったのも、また別の戦だった。その縁を思うと、自分が存在している事自体が、奇跡のようにも感じる。


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