第3話
翌朝、朝早くから父は庭先で竹刀を振っていた。そうしたところを見ると、やはり、体育の教師らしい。表情は真剣そのものであり、額には玉のような汗が浮いていた。夏の早朝に、その光景は暑苦しさを感じさせた。
「いつもあんな風なんですか?」
貞信は、千紗に訊ねた。
「ええ。子供の頃からの習慣らしいです」
「へえ……」
貞信自身は勉強は得意でも、運動はそこまで必要性を感じなかった。そもそも、遠藤家の家計で剣術を習うゆとりもなかったのだ。
だが、父は正真正銘の武士だったのだろう。言われてみれば、若松城下を歩く元武士たちと、佇まいがよく似ていた。
剛介の素振りが終わるのを待って、千紗が朝食の仕度ができた旨を告げた。
膳箱に並んだ食事は、白米に味噌汁、香の物という簡素なものであり、貞信が普段食べているものとあまり変わらなかった。
貞信は食べ終わると、箸を置いて他の者の食事が終わるのを待った。と、その途端、父の右手が素早くのびてきて、ぴしりと手の甲を叩かれた。
「行儀が悪い」
思わず痛みに顔を上げると、そこには厳しい父の顔があった。父の視線は、かすかに怒気を孕んでいる。
「食べ終わったのならば、きちんと手を合わせることだ。母上から、何を教わっている」
「はい。申し訳ありません」
悄然と、貞信はうなだれた。
どうやら十数年ぶりの再会だろうと、父にはそんなことは関係がないらしい。やはり、父は自分の事が可愛くないのだろう。無理もない。十一年ぶりだもんな。手元にいる今の息子たちのほうが、かわいいに決まっている。
もちろん、礼を失した自分が悪いのだが、それ以上に、哀しさが上回った。
「お兄ちゃん、大丈夫?」
食事が終わった後、下の弟がそっと貞信に訊ねた。
貞信は、無理やり笑みを作った。こんな小さな子供に心配させるなんて、自分が情けない。
朝食が終わると、先程の叱責はなかったかのように、父は「そろそろ出かけよう」と腰を上げた。
貞信の胸中には先程の余燼がくすぶっていた。だが、約束は約束だ。先をすたすたと歩く父の背を追って、貞信は黙々と歩みを進めていった。
家を出るとすぐに松が植えられた公園のような敷地があり、その一角には工場らしきものがあった。中からは、ブーンと機械の回る音がする。建物を迂回するように、父は山の上の方へ続く道を辿った。あちこちに石垣が残っているところを見ると、燃え尽きてしまった二本松の霞ヶ城の跡だろう。
それにしても、急な道はここでも同じだった。散歩という代物ではない。ちょっとした山歩きだ。
ふと、父がこちらを振り返る。
「息が上がったか」
今朝の厳しい様子は何処へやら、今は微かに笑みを浮かべていた。本当はもっと早く歩けるだろうに、山歩きに慣れていない息子を気遣って待っていてくれる。どうやら、根は優しい人のようだ。
「本丸までは、もう少しだ」
「……」
貞信に返事をする余裕はない。息を切らせながら、ひたすら父の後についていく。
それでもふと振り返ると、眼下に二本松の街並みが見えた。遠くには阿武隈の山々が望め、なかなかの眺めである。
四半刻も歩いただろうか。膝が笑い出すのではないかと思われる頃、頭上に古い石垣が積んであるのが見えた。その石垣の崩れかけた階段を登ると、そこが、どうやらかつて本丸と呼ばれたところのようだった。
目の前には、会津の山々とは違う、ややなだらかな稜線が広がっている。そして、後ろを振り返れば、優美な曲線を描く山があった。
「父上、あの山は?」
貞信は、背後の山を指した。
「あれは、
「安達太良山……」
貞信が日頃見慣れている
それにしても、父はどうしてこんなところへ自分を連れてきたのだろう。
「貞信。今日が何の日か知っているか」
「七月二十九日、でしょう」
「それはそうなのだがな」
不意に父が、口元を引き締めた。
「二本松城が落城した日だ。あの頃は旧暦だったから、実際には、秋の話だが」
はっと、息を呑んだ。その話をするために、父は自分を連れてきたのか。
「父上は……」
父が頷いて、右手奥の方にこんもりと見える森を指した。その指先の辺りに、街道らしき道も見える。恐らく、奥州街道だろう。
「あの辺りで、砲隊の一員として戦っていた」
では、本当に父は従軍していたのだ。だが、まだ信じられないところもあった。
「戦っていたというのは、やはり薩長と?」
「そうだな。大壇口に攻めてきたのは、薩摩人が中心だったように思う。土佐の三つ葉柏紋も見た気がするが、皆、黒の筒袖で似たような陣笠を被っていたから、あのときはあまり見分けがつかなかったかな」
昔日の記憶を辿るように、父はゆっくりと話した。その横顔は、懐かしむでもなく悲嘆にくれるでもなく、淡々と語っている。
「先生の指揮の元、随分と粘ったんだが」
「先生?」
「慶応四年の春には、藩の子弟全員に砲術を習うようにというお達しがあってな。私が通っていたのは、木村道場という砲術道場だった。そこの若先生が、体も器も大きな偉丈夫の方でな」
ふっと、父は懐かしそうに目を細めた。
「先生のお名前は、何というのですか?」
「
話の流れで何気なく聞いただけなのに、その名前に思わず息を呑んだ。自分の名前と同じだ。もしかして。
「お前の名前は、銃太郎先生の諱から頂いた。先生のような、立派な男児になるようにと」
貞信の思いを汲み取ったかのように、父が、ゆっくりと言った。
自分の名前にそんな由来があったとは。
「その木村先生は、どうなったのですか?」
嫌な予感がする。まさか……。
「立派な最後を遂げられた。最初に腕を撃たれて、そのときはご自分で銃創を食いちぎり、手当の仕方まで教授されていたよ。だが、大壇口から退却しようとした時に、腰を撃たれたのが悪かった」
束の間、沈黙が流れ、父は目を閉じた。
「我々は共に城に入るように勧めたのだが、無理だと悟られて、そのまま副隊長に介錯をするように頼まれた」
貞信は、思わず耳を塞ぎたい衝動に駆られた。父の話はあまりにも想像力を掻き立てられすぎて、聞いているのが辛くなる。だが、父はまだ話し続けている。聞かねば。
「今、うちがある場所があるだろう。ちょうど、あそこは藩の学館のあった場所だ。あの辺りも、それから、その足元に見える辺りも。あのときは気がついたら一面火の海になっていた。朋輩も何人も敵に討たれ、人が斬り合うのも、この目で見た」
気がつくと、貞信の目は潤み始めていた。どうして、この人はこんなに淡々と語れるのだろう。
「父上は、戦いが恐ろしくなかったのですか?」
貞信の質問に、父は首を振った。
「武士たるもの、生まれた時から君公の前にて死すものと教育されてきたからなあ。特別恐ろしいと思わなかったし、むしろ、出陣前は大変なはしゃぎだった」
貞信の背を、戦慄が走った。あの、丹塗の脇差しを思い出したのだ。あれは、飾りではなく、実際に父が身につけて戦場に立ったに違いない。
今の自分は、同じような覚悟で立てるだろうか。恐らく無理だ。
さらに、父はそこからのことも話してくれた。二本松城下を脱出するように示唆してくれたのは、当時、「鬼鳴海」と名高かった大谷鳴海様。その人に導かれるように、会津を目指して母成峠でも戦ったという。だが、その母成峠の戦いでも、二本松は再起を図ることが叶わなかった。そのまま猪苗代に到着した頃には、既に二本松藩の軍勢は雲霧の如く散り散りになっていた。
「猪苗代……」
ここで、ようやく会津との縁が出てきた。
「あのときは、皆が自分の身を守るだけで精一杯だったのだろうな。鳴海様らご一同の合意の元、丸山様に保護された」
「丸山様というと、あの
高名な悌次郎様は長らく会津に戻られていないが、遠藤家の世話になった人として、貞信でも丸山家の名前は知っていた。
「そうそう。その丸山様だよ。会津が負けた後も、会津藩と二本松藩の義の証として、私を守るとおっしゃってくださった。さらに、私を会津が留まれるよう親身になって下さったのが、
微かに、父が笑みを浮かべた。
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