第5章 河童の川流れと、危機の話
第13話 大親分現る
夏が来る。
大学の前期の講義の内容も佳境に入り、それぞれ試験や課題の詳細が発表されつつあった。
共通教養の講義では、これまでの集大成を発表するためのグループワークが始まったが、僕は未だに同じグループの人とも上手く喋れない。必要最低限の会話だけして、あとはもじもじするばかりである。
ある日、共通教養の講義が終わって、僕がのろのろと教室を出る支度をしていた時だった。
何気なくスマホの画面を見てみると、画面は通知でいっぱいだった。
僕は一瞬硬直した後、アプリを開いてメッセージを見た。通知は全て山吹先輩からのものだった。
『おーい』
『室井くーん』
『講義、楽しんでる?』
『次の時限、空きコマだろ?』
『ちょっと部室まで来てほしい!』
『駄目かな?』
そして、かわいらしく首を傾げている白狐のスタンプが山盛り。
僕は嬉しさ半分、呆れ半分の気持ちで、返信をした。
『空いてます。今から向かいます』
『やっと返事来た! 講義中、スマホ見ないの? 偉いね〜!』
『普通は見ませんよ』
『え? そう? 見てる奴いっぱいいるぞ? 今度からもうちょっと周りを見てみなさい』
『そうですか……』
仮に周りの学生がやっているとしても、やっぱり講義中にスマホで遊ぶのは良くないことだと思うけれど。
『とりあえず、今から部室向かうのでちょっと待っててください』
『おう、よろしく』
僕はスマホをポケットに仕舞って、教室を出た。いくぶん早足でサークル棟に向かう。
「失礼します」
「おっ、来たな、室井くん」
紺色のワンピースを着た山吹先輩が、にこにこして言った。
「そういうことだから、あや研のために協力して欲しい!」
「どういうことですか?」
「メッセージ送ったぞ?」
「え?」
僕はポケットからスマホを出した。またしても画面が通知でいっぱいになっている。
待っててくださいと言ったのに、何でこんなことになるんだ。
「すみません。僕、徒歩での移動中はスマホ見ないので」
「そっか! じゃ、今読んでくれ!」
「そうします」
僕は画面を操作した。
『今年も中央委員会から学園祭の知らせが来た』
『あやかし研究会にも展示ブースが用意されている』
『ここでクオリティの高い展示を出して、中央委員会の奴らにあやかし研究の活動をアピールしたい』
『逆にレベルの低いものを出したら廃部の危機というわけだ』
『何か良い案があったら言ってくれ』
『因みに去年、私が一人で作った展示ブースがこれだ』
メッセージの最後は、教室の一角を撮影した写真だった。パーティションで区切られた空間に、でかでかと模造紙が張り出されている。一番上には「あやかし研究会」の文字。数ヶ所にあやかしを描いた絵や、参考となる資料の写真。残りのスペースには手書きの解説がびっしり。写真からでは、模造紙に何が書いてあるのかまでは読み取れない。
僕は顔を上げた。
「読みました」
「よろしい。では学園祭の準備のため会議に入ろう」
「学園祭って、確か十一月じゃないですか。まだ四ヶ月もありますよ」
「室井くん、君、写真ちゃんと見たか? あれだけの内容を一から作るのには、四ヶ月あっても足りないくらいだ」
「ああ……」
それであの書き込み量か、と僕は得心した。山吹先輩はサークルを存続させるために、たった一人でかなり頑張ったらしい。
「……では、提案なのですが」
「おう、何だ」
「今年は手書きの部分を大幅に削減して、壁に貼るのは図とちょっとした解説だけにしませんか?」
「んん? それじゃあどうやって解説するんだ?」
「絵に関する詳細な説明はパソコンで作って、見開きかもしくは冊子にして、机に置いておくんです。興味を持った人が読めるように」
僕の通っていた通信制高校の学園祭でも、似たようなことをやった覚えがある。通信制といっても週に一度ほどの登校が要求されるから、学校で作業する時間はあったし、普通科と同じ日程で学園祭にも参加していた。
「おおっ、その手があったか。よく思いついたな」
「これで作業量は大幅に減りますから……」
「より多くの調査ができるというわけだな! 場所も模造紙よりは取らないから、いくらでも書ける! もっと充実した展示にできる!」
「……えーと」
僕は、そんなに焦って作らなくても、前回と同様のクオリティを保てる、ということを伝えたかったのだが、山吹先輩はもっと上を目指す気満々といった様子だ。
「そうと決まれば、今すぐ扱うテーマを考えよう。狐は一昨年に、鬼は去年にやったから、今年は……うーん……」
「……あの、先輩……」
「うん……河童も悪くないな……」
「そうですね……河童ですよね、この方……」
僕たちは、いつの間にか部室の中央に立っていた大きな河童を、まじまじと見ながら会話していた。
緑色の皮膚。大きな水掻きのついた手足。平たい嘴のような口。頭のつやつやとした皿と、それを取り巻く茶色い髪の毛。背中から覗く亀のような甲羅。そして、山吹先輩と同じくらいの背丈……つまり僕よりは大きい。
「あの、河童さん? 何か御用ですか?」
のそのそ、と河童が近づいてきて、口を開いた。
「そうじゃ」
澄んだ高い声が答える。見た目から何となく嗄れ声を予想していた僕は、意外に思った。
「何やらワシの縄張りで、お主らがあやかしの悩みを解決しておるという噂を聞いてな。試しに力を借りてみようと思うて、はるばるやってきたのじゃ」
山吹先輩が目を丸くして河童を見つめた。
「おい……あんたまさか、
河童は目を細めて、ゆらゆらと頷いた。
「そうじゃ。よう知っとったな」
「禰々子河童?」
僕は困って山吹先輩を見た。
「関東地方の河童の大親分だよ」
「ええっ!? 関東地方全部ですか?」
「この間の、山とも呼べないようなちっぽけな山を縄張りにしていた天狗とは大違いだな」
「胡弍坊様の方が、態度は大きかったように思いますが……」
「そうでもないぞ。禰々子はノック無しでここへ来た」
「……言われてみれば確かに……」
ふっふっふ、と禰々子河童は笑った。
「それでお主ら、ワシの話を聞いてくれるな?」
「聞いてあげてもいいが、何か私たちにメリットのある話なんだろうな?」
「山吹先輩……」
誰が相手でも、山吹先輩のポリシーは変わらないらしい。
禰々子さんは、再びゆらゆらと頷いた。
「もちろん、褒美は用意してあるぞ。ワシの願いが叶ったら、ワシ特製の妙薬を一つずつ、お主らにやろう」
「本当か!?」
山吹先輩は身を乗り出した。禰々子さんは笑みを絶やさない。
「ワシは嘘などつかぬぞ?」
「そうか! やったぞ室井くん! 河童の妙薬なんて、普通なら一生お目にかかれないほど希少なものだ!」
「へえ」
「反応が薄いぞ室井くん! 河童の妙薬は、どんな怪我も病気もたちどころに治すとされている。切断された手をくっつけたと言われるほどだ。もっと喜べ!」
「それは……凄いですね」
ふっふ、と禰々子さんはまた笑った。
「それは言い伝えじゃな。ワシならばもっと色んな効果のある薬を作れるぞ」
「おおっ! 流石は禰々子! それで、どういう悩みがあるんだ?」
「聞いてくれるか」
「おう、聞くぞ! な、室井くん?」
「あ、はい。お伺いします。お席をどうぞ、禰々子さん」
僕は禰々子さんに席を譲り、自分は一個奥の席に移った。禰々子さんはのそのそと歩み寄り、ぺたんとパイプ椅子に座って、水掻きのついた手を机の上に置いた。
「では話させてもらおうかの」
「はい」
「知っての通り、河童は川に住んでおってな、泳ぎが何より得意じゃ。しかし、一年程前からかの、海に近い汽水域に行った河童が、流されて海まで行ってしまう事件が相次いでおる」
「……河童の川流れじゃないか」
「そうじゃ。どんな達人でも時には失敗する。たまに流される分には目を瞑ろう。だが、あまりにもしばしばワシの耳に川流れの話が入るでな。ワシは気になって、流された子分の話を聞きに行った」
「ふむふむ」
「子分たちは口を揃えてこんなことを言うのじゃ。……水が少し塩辛くなる場所で、水面に顔を出して息継ぎをした瞬間、気が遠くなって、いつの間にやら沖へと流されてしまっていた、とな」
「……ふむ」
「原因はよう分からんが、このまま川流れが止まらぬようでは、じきに死者も出るじゃろう。ワシの名にも傷がついて、他所の河童との小競り合いにまで発展することになるやも知れん。そうなったら災害になるな」
「災害って……洪水とかですか」
「そうじゃ。人間もちょいとばかり死ぬ。百人くらい」
「思ったより大事件だな。百人も死ぬのは困る」
山吹先輩は深刻な顔をしていた。
「どうじゃ、何か心当たりはあるか」
「いや、まだ何とも。禰々子、一つ聞きたいんだが」
「何じゃ」
「川流れは、関東の全部の河口で起きているのか?」
「ああ、それを言うておらんかったのう。流された河童は、荒川に住まう河童のみじゃ。事件に遭うたのは全て、荒川の河口付近の空気を吸った河童じゃよ」
「なるほど」
山吹先輩は僕を見た。
「場所が分かっているなら、室井くんには容易い事件だな」
「いや、待ってください。いくら千里眼でも、できることとできないことがあるんです」
「そうか?」
「そうですよ。僕だって、四六時中見張っていられるほど暇じゃないんですから」
「むう……そうか」
山吹先輩は腕を組んだ。代わりに僕は禰々子さんに声をかけた。
「あの、禰々子さん。僕の方からお聞きしたいことが、いくつかあるのですが。よろしいでしょうか?」
「はいよ。何かね」
禰々子さんは僕の方に顔を向けた。
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