第12話 昔のあれこれ


 中学一年生の僕のクラスには、いじめられている女の子がいた。名前は長瀬芽衣ながせめいといった。いじめの内容は、無視されたり、からかわれたりと色々だったが、僕が特に気になったのは、持ち物がどこかに持ち去られている件だった。彼女が懸命にかばんの中や机の中を覗いては探し物をしているのを、僕はよく見かけていた。周りのクラスメイトはそんな彼女のことを遠巻きにしながら、くすくすと笑っていた。


 千里眼を得た次の登校日、またしても何かを探している長瀬さんに、僕は歩み寄って話しかけた。

「長瀬さん、何か探してるの?」

 長瀬さんはびくっと僕の方を見てから、微かに頷いた。

「何がなくなったの?」

「こ……国語の教科書と……筆箱が……」

「分かった。ちょっと待ってね」


 僕は目を閉じて、長瀬さんの教科書と筆箱を探した。とても簡単な仕事だった。二つの失くし物は、どちらも、クラスの人気者である塩浜昴しおはますばるという男子のロッカーの中にあった。


 僕が真っ直ぐに塩浜くんのロッカーに向かうのを、クラス中の人が注目していた。これまで僕は、いじめに加担はせずに傍観するだけの、気弱でちっぽけな生徒だった。そんな奴が急に被害者の肩を持ち始め、探し物のありかを見抜いた。鈍臭い僕には分からなかったが、後から思えば、これはクラスの勢力図が一気にひっくり返る瞬間だった。


 僕が塩浜くんのロッカーの前に立つと、塩浜くんが駆け寄ってきて僕の肩を掴んだ。


「おい、お前、何で人のロッカーを漁ろうとしてるんだ」

「塩浜くんこそ、どうして人のものを盗むの?」

「盗んでねえよ」

「盗んでるよ」

「ふーん?」


 塩浜くんは数歩退いた。


「それなら探してみろよ。ただし俺は絶対に何もやってないからな」

「嘘は良くないよ」


 僕は塩浜くんのかばんをどけて、その奥から、長瀬さんの名前の書かれた教科書と、布製のピンク色の筆箱を取り出した。


「ほら、あったよ」

「何だって!?」


 塩浜くんが大袈裟に驚いてみせたので、僕は首を傾げた。


「どうして驚くの? 自分でやったことなのに」

「俺は何もやってないって言っただろ!」

「それなら何でこんなところに長瀬さんのものがあるの?」

「……分かった。お前がやったんだろう」

「え?」

「お前が俺を貶めようとして、わざと俺のロッカーに長瀬のものを入れたんだ!」

「ええっ?」

「あー、長瀬、可哀想。それに俺も可哀想!」


 ようやく僕は状況を理解し始めた。

 ……今、いじめのターゲットが、長瀬さんから僕に移ろうとしている。


「みんなも見てたもんな? 俺に味方してくれるよな?」


 この状況で塩浜くんに逆らえるクラスメイトは誰もいなかった。長瀬さん含めて。


「俺、先生に言ってくる。みんな一緒に行こうぜ」


 わーっとクラスは大変な騒ぎになった。僕は塩浜くんの取り巻きの子たちに捕まって、一緒に職員室まで連れて行かれた。職員室の前の廊下で、みなは口々に、でっちあげの情報を先生に報告した。そして先生はそれを鵜呑みにした。


 その後は、公然と僕へのいじめが始まった。教科書を盗まれては、お前の責任だと先生に怒られる。授業でグループワークに参加させてもらえない。先生に指されて立ち上がると、罵声が飛び交う。果ては思いっきり殴る蹴るの暴行を受ける。


 次第に僕は、自分がとてもちっぽけな存在であるように感じるようになった。物を盗まれるのも、理不尽に怒られるのも、罵倒されるのも、暴力を振るわれるのも、みんなが僕のことをそのように扱っても許される存在だと思っているからなのだ。僕はいじめを受けて当然の存在。矮小で、どうでもよくて、馬鹿なチビ。だからみんな平気でこんなことをするのだ。いじめは、僕という存在に対する正当な罰なのだ。

 じきに僕は学校に行かなくなった。高校は通信制のところを選んだ。家にこもって、人と関わらずに生きてきた。存在していてごめんなさい、といつも思っていた。そしていつも、存在という罪に対する罰を受けることを恐れていた。

 高校三年ほどになると、その気持ちも軽くなってきた。僕は大学に行きたいと考えるようになった。それなりの学力を有しているのに行かないなんて勿体無いと、両親が言ってくれたお陰もあった。

 それで、どうにか大学入学まで漕ぎ着けて、今に至る。


「そっか」

 山吹先輩は言った。

「室井くんは、どうして自分が悪いとか、いじめは正当な罰だとか、そんなことを思うようになったのかな」

「あまり考えたことはないです。僕にとっては自明だったので」

「他人を悪く思うことが苦手なのかな。前にも、あの浪人生とかに同情していただろう」

「……どうなんでしょう」

「人間、全ての物事に対して寛容であることは、難しいと思うよ。悪いものは悪い。駄目なものは駄目だ。大学生を逆恨みしていたあの子や、盗品を売ろうとしていたおばさんのことは、室井くんにも悪い人だって分かっただろう」

「それは……はい」

「いじめも同じだよ。いじめはただそれだけで純粋に悪行だ。室井くんは被害者であって、何も悪いことはしていない。室井くんの存在は尊いものだよ」

「……はい」

「ま、私がごちゃごちゃ言ったところで、変わらないかも知れないけどね」


 山吹先輩は伸びをした。


「いえ、そんなことはないです。山吹先輩に聞いてもらえて、すっきりしました。いじめが悪いことだって……ちゃんと分かりました」

「本当? それならよかった」

「あの、何か、すみません。山吹先輩の過去の話をお聞きするはずが、僕のお悩み相談になってしまって」

「構わんよ」

「でも……山吹先輩も、お友達を……篠田さんを失って、おつらかったのではないですか?」

「んー」


 山吹先輩は頭の後ろで手を組んだ。


「そりゃ、ちょっとがっかりしたけど、ほとんど喧嘩別れみたいなものだったし、そこまで傷は深くないかな」

「会いたくないと言っていましたが……」

「ああ、それはね。私が会う分には問題ないんだ。あの子が私に会いたくないってだけの話だよ」

「そう、ですか……」


 僕は少し俯いた。


「何しょげてんだ」

「僕も先輩のお悩み解決のお役に立てたら、と思ったのですが……」

「悩み、ねぇ。少なくとも弥生とのことは私はあまり気にしておらんよ。心配してくれてありがとう」

「いえ、そんな」

「ま、嫌な過去はさっさと忘れて……うーん、それは難しいにしても、さっさと頭の隅に追いやって、チョコレートでも食おうじゃないか。大事なのは今この時楽しいかどうかだからね。そして私は室井くんがあや研に来てくれて大いに楽しいよ」

「そうですか。光栄です」

「ほれ、食べな」

「いただきます」


 その後は和やかな歓談となった。しばらくして僕が講義を受ける時間になったので、僕は部室を辞した。日本史の講義を受けながら、今度は文字や図がぶれていないことに安堵する。


 山吹先輩にも色々あったんだな、と僕は思った。きっと山吹先輩が言わなかっただけで、篠田さんについては思うところもあるのだろう。そんな気がする。それなのにあんなに優しくてあんなに明るくてあんなにフレンドリーだ。

 僕ももっと自分に自信を持ちたい。山吹先輩という素敵な知人を持つに相応しい、立派な人間になりたい。


 今度からは、講義の前後に、他の人に話しかけたりしてみようかな、と思う。人付き合いの苦手を克服したら、僕も少しはましな人間になれる気がする。


 一時間半が経過して、日本史の講義は終わった。僕は隣の席の男子学生に話しかけようとして、ぐっと息が止まった。

 あれ、どうしよう、と思っているうちに、彼はさっさと教室を出てしまった。


 なかなかうまくいかないものだな、と僕は肩を落とした。


 

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