第4章 それぞれの過去と、幻の話
第10話 二重の景色の中で
梅雨に入り、鬱陶しい雨の季節が始まったが、今日は運良く晴れ間が出た。折り畳み傘は欠かせないが、梅雨の晴れ間というのはやはり清々しくて気持ちが良い。そういえば、五月晴れとは本来、この時期の晴れ間のことを言うのだったっけ。
僕は選択必修科目の経済学の講義を受けていた。配られたプリントにグラフがたくさん載っていて、需要曲線がどうの供給曲線がどうのと先生が解説している。僕はこの科目が決して得意という訳ではないけれど、とりあえず単位を取るために頑張って話を聞いていた。
ところがふと、プリントのグラフの線が、二重にぶれて見えた。
僕は瞬きをし、次いで目をこすった。だがグラフが二重になっているのは変わらない。
疲れているのかな、と思ったが、疲れるようなことは特にしていないし、そもそも僕は視力には自信がある。これはどうしたことかと辺りを見回した。床が段々になっていて長机と椅子がついている聴講スペースの前に、先生が立つ教壇と、プロジェクターの画像が映し出されているスクリーンがある。そのスクリーンの文字もぶれて見えた。いや、さっきよりぶれが酷い。完全に線が二つになっている。先生の姿もぶれていって、教壇には先生が二人立っている始末。これは流石におかしい。
僕は他の学生たちを見回した。特に違和感もなく講義を聞いている学生もいれば、時折目をこすったり前のめりになったりする学生もいる。
これはどういった現象だろう?
講義が終わっても、景色がずれて見える現象は収まらなかった。歩くだけで酔いそうだ。僕はよろよろと建物を出て、メインストリートを眺めてみた。
大学全体の景色が二重になっていた。桜並木も銀杏並木も、タイル敷きの地面も空に浮かぶ雲も、二重に見える。まるで質の悪い動画を見ているかのようで、頭がいっそうくらくらしてきた。
これは何か、あやかしの関わる現象なのだろうか。僕は山吹先輩に連絡を入れてみることにした。スマホを取り出すとこれもまた二重に分かれて見える。お陰で文章を打ち込むのにひどく苦労してしまう。
『こんにちは。大学中の景色が二重になって見えるのですが、これは何かのあやかしのせいですか?』
返信はすぐに来た。
『あー、これは蜃気楼だよ、室井くん』
「え?」
僕は眉をひそめた。
『蜃気楼って、気象現象のですか?』
『本来はね。密度の異なる大気を通過する時に光が屈折して、その場には無いはずのものが見える現象だ。だが今回のこれは違う。蜃というあやかしの作った幻だよ』
蜃、は蜃気楼の蜃か、と思って念のため検索したら、やはり「しん」と読むらしい。そういうあやかしがいるのだという。
『そうなんですね』
『あいつには特に害は無いが、もう少し経つと誰の目にも景色が歪んで見えるようになるだろう。そうなる前に止めた方が良いだろうな。余計な混乱を招くようなことは避けたい』
『蜃気楼って、どんな姿ですか? 大まかにでも分かれば、僕が探しますけど』
『いや、それよりも人間を探してくれ。
『なるほど、分かりました』
僕は目を閉じた。千里眼を発動する。
ええと、篠田弥生という女子学生……。視界がカフェテリアの方へと移動していく。どうやらこの辺りにいるらしい。そこまで突き止めた辺りで、僕はぱっちりと目を開けた。
『見つけました』
『そうか。悪いが室井くん、彼女の元に向かって、幻を収めるように言ってくれないか』
『あれ、先輩はお知り合いではないのですか?』
『知り合いだが、あまり会いたくないのだよ。室井くんには後でジュースでも奢るから、できれば一人で会いに行って欲しい』
『できません』
『おや、珍しい。何故かな?』
僕はやや躊躇しながら山吹先輩に返信した。
『あの……篠田さんがいらっしゃるのは、どうやらカフェテリアにある女子トイレの個室なんです』
『何!? 見たのか!?』
『見ないですよ! トイレの中を覗く前に、千里眼をやめましたから』
『何だ。相変わらず紳士的だな、室井くん。そうか、それなら仕方が無い。私が引っ張り出すか……』
『僕も念のためカフェテリアに向かいます』
『助かる。そうしてくれ』
僕はてくてくとカフェテリアのある建物まで歩いて行った。時折幻に惑わされて転びそうになったが、何とか辿り着く。乗り物酔いになったような気持ち悪さがあった。トイレ前に到着すると、丁度山吹先輩も来たところだった。
「やあ、室井くん。見てくれてありがとう」
「いえ、大したことではないです」
「まあまあ。とりあえずトイレには私が入って弥生を引っ張り出すよ」
山吹先輩はずかずかと女子トイレに踏み込んだ。僕がおとなしく待っていると、ドォンと大きな音がした。
「オラァ!」
山吹先輩が大声を出すのが聴こえてくる。
「弥生! 何を無闇に、蜃気楼の力を使ってんだ! 出て来いや!」
ひいっ、と悲鳴が聞こえてきた。山吹先輩は容赦なく、個室の扉をガンガンと叩いていた。
「律子ちゃん!? やめて、来ないで!」
「いいや私はあんたを引き摺り出すぞ。こっちは大迷惑をこうむってんだよ! さあ、行っておいで、キイちゃん、リンちゃん」
二匹の管狐が陰の世界を通じて個室に侵入したらしく、ガチャリと鍵の開く音が聞こえた。やがて、気の弱そうな女子学生の腕を鷲の如く引っ掴んだ山吹先輩が、トイレから出てきた。
この人が篠田弥生さん、と僕は彼女の姿を眺めた。これもまた二重になっていて非常に見づらいが、線が細くて身長も低いようだ。花柄のブラウスにほっそりしたジーパンを穿いている。その髪の毛は腰に届きそうなほど長くて、さらさらしていた。
そして、眼鏡の奥の目が充血している。頬には涙の跡がある。表情も悲壮なものだった。そんな彼女の腕を、山吹先輩がだいぶ乱暴に引っ張っている。
「やめて、読まないで、律子ちゃん!」
「はいはい、読まないよ。とにかくこの幻をどうにかしてくれ」
「幻……?」
篠田さんは眉をひそめた。それから「あっ」と言った。
「もしかして私、蜃気楼の力を使ってた……?」
「はあ? 自覚無しかよ。傍迷惑な奴め。まあいい、気付いたんならとっとと収めろ」
「わ、分かった……」
篠田さんは深呼吸をした。スウーッと息が吐き出されるのと連動して、辺りの景色が徐々に正常なものに戻り始めた。
「……収めたよ、律子ちゃん。もう、行ってもいいかな」
「どうぞ。私の用はそれだけだからな」
「それじゃあ」
篠田さんは小走りでカフェテリアを横切ると、建物の外に出て行ってしまった。僕は何となくその様子を目で追っていた。
「室井くん」
「あ、はい」
「弥生の居場所を教えてくれてありがとう。お陰で大惨事にならずに済んだ」
「あ、いえ……僕も視界が悪くて困っていたので。こちらこそありがとうございます」
「そうか。……まあ、弥生の過去を読んじゃいないが、大方失恋だろうな。あの様子を見ると」
「はあ……」
僕は迷い迷い、口に出した。
「あの、篠田さんは……山吹先輩のお知り合いなんですよね」
「そうだが?」
「もしかして、あやかし研究会を立ち上げたもう一人のお方とは、篠田さんですか?」
山吹先輩は「あー」と頭を掻いた。
「うん、そう。弥生は、あや研のかつてのメンバーだよ」
「ちょっと意外です」
「ん? 何が?」
「山吹先輩が仲良くされる方は、もう少し、何というか、強気な方が多いのかと思っていましたので」
山吹先輩は苦笑した。
「何だそりゃ。……まあ、確かに、弥生は一年の時のクラスが一緒だっただけだ。お互いあやかしを使うのだと分かって意気投合したのであって、性格とかが合ったわけでは無かったのかもな」
「へえ……」
「それで喧嘩別れみたいになってしまったのかも。そもそもあや研の設立も、私が強引に誘っただけだったのだし」
「……」
「聞きたい?」
山吹先輩は何故かにやりとして僕を見下ろした。
「何をですか?」
「あや研で昔あったこと」
「えーと」
僕は考え込んだ。山吹先輩は肩をすくめた。
「別に無理に聞かなくても良いよ。私が喋りたいだけだから」
「……あ、いえ、僕、この後少し暇なので……。そういうことなら、お聞きします」
「ありがとう」
山吹先輩は言うと、さっさと歩き出した。僕はその後についていって、ボロのサークル棟へと向かって行った。
さっきまで晴れていた空が、だんだんと曇り始めていた。
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