第9話 神仏とあやかしたち
「はあ」
山吹先輩は軽く息を吐き出した。
「でも、ちょっとだけ惜しいことをしたな」
「何ですか?」
「せっかくタダで奈良に行けたんだ。のんびり観光でもしてくれば良かった。法隆寺って、私まだ行ったこと無いんだよな」
「ああ……」
それはそうかも、と僕は思って、少し笑ってしまった。
「でも名所の観光なんて、胡弍坊様には退屈なことかも知れませんよ」
「そうでもないだろう。天狗ってのは自分の山に引きこもるか、空を飛んであちこち移動するか、陰の世界にいるかのどれかで、どっしり腰を落ち着けて名所を見て回るということはあまりしないから」
「へえ、そうなんですね」
僕がそう言うと、山吹先輩は急に彫像のように動きを止めて固まってしまった。
「……山吹先輩?」
「そうなんだよな……」
「何ですか?」
「いや……法隆寺ほどの箔のある寺のそばに、怪しげな物を取引する店があるなんて、おかしくないか?」
「そうなんですか?」
「仏様の目の前で堂々と悪行を働くなんて変だろう」
「……まあ、言われてみればそうかも知れませんが……」
「ふむ」
山吹先輩はどっかと椅子に座った。
「あのおばさんが行こうとしていた店には、間違いなく陰の世界との繋がりがある。そんな店を聖なる地に置いたのには何か意味があるのか……? ああ、やっぱり、ちゃんと見て来れば良かったな」
僕は首を傾げつつ、お菓子箱にあったマシュマロの袋を持って、山吹先輩の向かいに座った。
「前から気になってるんだよな。神や仏の存在がどういうものなのか。あやかしたちと何か関係があるのかってな」
「へえ……」
「どちらも超常のものには違いない。でも神仏とあやかしでは完全にイメージが異なる。陰の世界ではどうなっているのだろう。そもそも神仏はどの世界に住んでいるのだろうか」
「……さあ……」
「うーむ。何か分からないか、仏の室井くん」
「仏じゃないです。分かりません」
「はあー」
山吹先輩は天井を仰いだ。
「思えば室井くんが千里眼を得たのだって、寺の中だもんな。何だろう、何かが分かりそうなんだが、後少しのところで掴めない」
「僕には何も分かりそうにないですけど……。真っ暗闇ですよ」
「……うん、悩んだら即刻行動せねばな。こうしちゃいられない。室井くん、ちょっとついてきてくれないか。図書館に行く」
「え? あ、はい」
結局マシュマロの袋は開けないまま、僕らはサークル棟を後にして、大学図書館に向かった。
「んー」
山吹先輩はスマホで何かを検索しながら歩いている。僕は先輩がつまずいて転びやしないかとひやひやしながら、周囲に目を配って歩いた。
「ああ、寺にもあやかしは出るのか……。見てくれ、室井くん」
「何でしょう」
スマホに表示されたサイトには、「寺つつき」という文字が表示されていた。小さな鳥の絵もついている。
「法隆寺などに現れて、寺をつついて壊そうとするそうだ」
「それは、何というか……困ったあやかしですね……」
「そうだな。うーん、大学図書館に何か資料はあるだろうか……。『源平盛衰記』だけでも借りてこようか」
「何ですか、それ」
「その書物に寺つつきの記述があるそうなんだ」
「へえ……」
僕たちは大学図書館に入り、パソコンで蔵書検索をして、『源平盛衰記』を借りてきた。部室に戻って解読する。山吹先輩は、流石に日本文化史専攻なだけあって、古文をするすると読み解いてページをめくってしまう。僕は追いつけずに目を回していた。途中で諦めて、長谷寺とあやかしに関係する話が無いかどうか、スマホで検索する。
だが結局、大した成果は出なかった。
「んー、こんなことを調べても、神仏とあやかしの関係なんて分かるわけないよな……」
「はい……こちらにも特に収穫はありませんでした」
「本当に陰の世界には謎が多い……」
山吹先輩はマシュマロの袋を開けて、一気に三つ口に入れた。
「まあいいや。今日は何か疲れたし。空まで飛んだし」
「あれは新鮮な体験でしたね」
「うん。なかなかに楽しかった。……さて、課題図書でも読むかね」
僕は瞬きをした。
「山吹先輩も、普通にここで勉強したりするんですね」
「するよ。室井くんは私を何だと思っているんだ」
「いえ、その、決して侮っている訳ではなく……。先輩はここではあやかしのことばかりやっているのかと思っていました」
「私も色々忙しいんだよ。今週中に、室町時代の歴史の概説書を読んで、要約を作って出さなきゃいけない」
山吹先輩は床に転がっていたかばんから、分厚い文庫本とノートパソコンを出した。
「大変なんですね。ゼミに入るとみんな忙しくなりますか?」
「いや、先生によるかな。うちより緩いところもあれば、うちより厳しいところもある。後者はあまり多くはないがね」
「なるほど」
「だが、室井くんも忙しいだろう。私が、一年の前期にはたくさん講義を取っておくようにと、アドバイスしたからね」
「あ、はい。では……僕もここで課題をやっても良いですか?」
「ご自由にどうぞ」
「ありがとうございます」
僕もかばんから英語の本とプリントと筆記用具を出した。山吹先輩はちらりと僕の出した物を見た。
「何だ、その本は。ラフカディオ・ハーン……ああ、小泉八雲の『怪談』じゃないか」
「そうなんです。ここでやるのがぴったりだと思いまして」
「そうか。でも、関係ないことをやっても構わないからな。部室は好きに使ってくれ」
「そうさせていただきます」
僕は黙々と英文を読んで、プリントに記された問題に解答を記入していった。山吹先輩は黙って文庫本をめくっては、パソコンに文字を入力していく。僕は何となくその姿を眺めた。
やるべきことはきっちりやる人なんだよな、と思う。
あやかしたちから相談事を持ちかけられたら、報酬が欲しいの何のと言い出すが、ちゃんと最後まで協力することが多いし。こうして大学の課題も意外と……いや意外と言っては失礼か、ともかくきちんと真面目にやるし。僕の千里眼のルーツのことだって、まだ真剣に考えてくれているようだし。
山吹先輩は僕のことを、善人過ぎると言ってからかうことが多いが、山吹先輩も良い人だ。何だかんだ面倒見が良い。好感が持てる。
僕が視線を本に戻そうとした時、山吹先輩の深緑色のワンピースの袖から、管狐のキイちゃんが顔を出した。僕はこの頃、三匹の管狐を見分けられるようになっていた。
「どうしたの、キイちゃん」
僕は尋ねた。
「ちょっと退屈しているんだろう。遊ばせておいてやれ。それよりも室井くんは、私を見てばかりいないで、課題に集中しなさい」
「あ、はい」
バレていたか、と僕は少し恥ずかしくなった。そこで、やや前のめりになって、課題に取り組むことにした。英語で記された「耳無し芳一」のエピソードを解読していく。
怨霊に食われそうになった琵琶法師の芳一が、全身にお経を書いてもらって難を避けようとしたが、耳にだけお経を書き忘れたために耳だけ失くしてしまったという話だ。
このように仏教は、異形のものを追い払うのにも用いられる。片や先程山吹先輩が調べてくれた寺つつきとやらは、仏教のための建物である法隆寺のことを壊そうとする。
あやかしと神仏。複雑な事情が隠れていそうである。
その中に、僕の千里眼の秘密もあるのだろうか。
あやかしなんて、これまでは稀に見かけるだけで、そんなに自分に縁のある存在とは思っていなかった。神仏に至っては尚更だ。寺社を訪れた際にはお詣りするが、それ以上でもそれ以下でもない。特別に信仰心を持つことなどない。
それが、山吹先輩と出会って、真摯に考えることになってしまった。僕もあやかしについてもっと知りたいと思うようになってしまった。巡り合わせとは実に謎多きものだ。
いや、あや研との出会いは、管狐のクウちゃんが意図的にあやかし研究会に僕を連れてきたのが発端なわけだが、それにしてもこうして会えたというのは、ありがたくも不思議な話だ。
……いけない、注意力が散漫になっている。僕は努めて本に集中した。じきに、勉強のエンジンがかかり始めた。入試に受かった油断から低下し始めていた英語力が、少し調子を取り戻しつつあるようだ。
僕と山吹先輩は、黙ってそれぞれの課題を進めていった。
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