第8話 取り返しに行く

 まさか大学に入って、生身で空を飛ぶ体験をする羽目になるとは、思いもしなかった。

 こんな速度で飛んだら絶対に風圧で体が潰れる、と思ったが、胡弍坊様の肩に掴まっているだけで、何の空気抵抗も受けなかったし、寒くもなかったし、ごみか何かがぶつかってくるようなことも無かった。不思議だなあと僕は思いながら、胡弍坊様にしがみついていた。

 僕たちは東京を出て三十秒ほどで奈良上空に着いていた。眼下にあるのは奈良公園というやつだろうか、鹿がたくさんうろうろしているのが見えた。観光客も結構多くて、色んな人が行き交ったり、鹿と戯れたりしている。

「あ、じゃあ、犯人を探しますね」

「よろしく頼む」

「はい」

 僕は目を閉じて犯人の居所を探った。


「あっ、降りました!」

 僕は言った。

「降りた? 何だそれは」

「犯人が電車を降りました。ええと、ですね」

 視界を巡らせて駅名の看板を探す。

「あ、法隆寺駅……というところです」

「ふむ……あい分かった」

 今度は胡弍坊様は一秒で目的の場所の上空に着いた。法隆寺駅は、古風な瓦屋根のついた古びた建物だった。駅前を少し行くとそこは何の変哲もない大通りで、それなりの数の車が行き交っている。やがて標的の人物が駅から降りてきて通りに出た。


「あの、紙袋を持った婆が犯人か」

「はい、そのおばさんです。紙袋の中身が羽団扇です」

「ならば行こう」

「いや、待つんだ」


 山吹先輩が言った。


「今は、まばらとはいえ、ひとけがある。一般人の目に見えない天狗が私たちを連れて降りて行ったら、私たちは空飛ぶ人間だと思われてしまう。それは避けたい」

「ならばどうするのだ」

「管狐たちによると、おばさんはこの後、全くひとけのない路地に入る。そこを狙ってくれ」

「……仕方あるまい。そうしよう」


 おばさんは少し早足で大通りの歩道を行く。僕たちはそれについて少しずつ移動する。


「遅い」

 胡弍坊様は苛々した様子で言った。

「まあまあ、あと少しで捕まえられますから」

 僕は胡弍坊様をなだめながら、おばさんを目で追った。

 おばさんは、十五分ほどかけて大通りのどん詰まりまで歩くと、住宅街のような少し狭めの道に入った。


「もう良いか」

「まだ」

「ええい、この我をこれだけ待たせるとは、無礼な」

 胡弍坊様はぷんぷん怒って、翼をばたばたさせた。


 おばさんはあるところで立ち止まり、周囲をきょろきょろと見回した。そして、猫背になって、脇道に入った。


「今だ、胡弍坊。行け」

「我に命令するでない! この小娘が!」


 胡弍坊様が大きな声を出したので、僕は鼓膜が破れるかと思った。頭がキーンとする。しかも、声はおばさんにも届いてしまったらしい。おばさんはびくっとして頭上を見た。


「ええい、致し方あるまい。行くぞ」


 僕たちを乗せた胡弍坊様がストンとおばさんの前に着地する。おばさんは甲高い悲鳴を上げて尻餅をついた。


「な、な、な、何!?」

「そなた、我の羽団扇を盗んだであろう」

 胡弍坊様は尖った爪で紙袋を指差した。

「返してもらうぞ」

「そんな、そんな……!」

 おばさんは紙袋を抱えて首を振った。

「盗みなんて知らない! 私はこれを譲り受けただけ!」

「ははっ、そうだな」


 山吹先輩は嘲笑した。


「あやかしの見える小学生男子が、山の中でちょうどいい枝を拾ったのと同じテンションで羽団扇を持ち歩いていたところを、良い歳したおばさんが泣きながら頭を下げて譲ってもらったんだよな。みっともない」

「うっ、それは……」

 おばさんは言い淀んだ。

「ふむ、我の他心通によると、そなた、さてはそれを売ろうとしていたな? この先に特殊な店でもあるというのか」

「そ、それは……」


 ズバズバと言い当てられて詰め寄られ、おばさんは目を泳がせていたが、すぐにキッときつい目つきで胡弍坊様を見た。


「だいたい、あんたみたいなショボい天狗が、間抜けにも貴重な羽団扇を失くしたのが悪いんじゃないの? 盗まれたって文句は言えないでしょ!」

「開き直るな、愚かな婆が。とにかく、返せ。それは我のものぞ」

「イヤーッ!!」


 おばさんは這うようにして立ち上がって、店があるらしき方向へと逃げ出した。だが速度で天狗に勝る人間などいるはずもない。おばさんはあえなく腕を掴まれて、強引に紙袋を奪われた。


「ああ……ああ!」


 おばさんが絶望の叫びを上げる。

 胡弍坊様は気にした様子もなく、紙袋の口に厳重に貼り付けられたガムテープをびりりと豪快に破き、中のものを確認して、嬉しそうな笑顔になった。


「おお、確かに我の羽団扇だ。見るがいい」


 胡弍坊様の取り出した羽団扇は僕は既に千里眼で見ていたが、山吹先輩は初めて見たせいか、「おおー」と声を上げた。


「ちょっと小ぶりだがそこが可愛いな」

「可愛いだと? 格好いいではないのか!」

「私の感想に文句でもあんのか?」

「そう軽々しく可愛いなどと言われては、我の威信に傷がつく!」

「あって無いようなもんだろ、あんたの威信なんて」

「何を言うかこのたわけが。無礼ぞ!」

「あの、喧嘩はやめてください」


 僕は言った。


「それより、見てくださいよ。おばさん、泣いてしまいました」


 山吹先輩と胡弍坊様は、揃っておばさんの方を見た。おばさんはコンクリートの地面にへたりこんで、身も世も無くわんわん泣いていた。


「もう少しだったのに……! もう少しで大金が手に入ったのに! これじゃあわざわざ奈良のこんな田舎まで出てきた交通費が全部無駄に! ああ、何てこと……うあああん!」


 ブッフ、と声がした。山吹先輩と胡弍坊様が同時に吹き出したのだ。


「あっはははは! 良い歳したおばさんがまた泣いてるぞ! 全部身から出た錆だってのに、……あはっ、あははははははは! ああ、可笑しい!」

「はーっはっはっはっは! 罪人が泣いておるわ! 愉快愉快! それ、もっと泣くが良い! そーれそれそれ! せいぜいそうやって我を楽しませよ!」


 散々な言われようである。僕は少し気の毒になってきた。盗んだものを売ろうとするなんて悪いことには違いないが、からかわれるのは可哀想だ。


「お二人とも、そのくらいにしてあげましょうよ。おばさんも、悪いことして儲けようとしちゃ駄目ですよ。落とし物は持ち主に届けるものです」

「うるっさい子だね!」


 おばさんは涙で化粧崩れした顔で僕のことを睨んで、かばんを投げつけてきた。


「うわっ」

 僕は慌ててそれを受け止めた。

「あんたには分からないでしょうけどね、私、本当に困ってるんだから! 本当に一生懸命だったんだから! 世の中、がめつく生きた方が得なんだから! 青臭い正義感なんか必要ないよ!」

「そ、そうですか。すみません」


 僕はおばさんにかばんを返してあげた。山吹先輩と胡弍坊様はまだ笑っている。おばさんはまた泣き出した。かばんを抱きしめて嗚咽する。


「うっうっ……あああ……どうしてなの……」


 僕は困ってしまって、おばさんと、山吹先輩と、胡弍坊様を、順々に見比べた。


「ええと……」

「さ、帰ろ帰ろ。こんなみっともないおばさんは道端に捨てて帰ろう。胡弍坊、またよろしく頼む」

「本当に無礼な小娘だな。だが、まあ良い。我ももうこの地に用は無い。去るとするか。ほれ、掴まるが良い」

「はい」


 僕と山吹先輩は胡弍坊様の腕にそれぞれ掴まった。胡弍坊様は羽団扇を大事に持ちながら空高く飛翔し、一路東を目指した。そして、僕たちをきちんと大学まで連れて帰ってくれた。人がいなくなった隙を狙って、地に降り立つ。


「ほれ、帰してやったぞ」

「ありがとうございます」

 僕は頭を下げた。山吹先輩は頭を掻いた。

「なあ、これ私が行く必要あったか?」

「何、気にするな。共にあの婆を嗤えて、愉快であったぞ」

「それは、確かに」

 そう言って山吹先輩は僕を小突いた。

「室井くんは神様仏様聖人様だからな。あのおばさんのこと気の毒に思っていそうだ」

「仏様とかじゃないです。……まあ、気の毒だなとは思いました。悪いことはしちゃ駄目ですけどね」

「よく分からんなあ。理解に苦しむ。私なら悪事を働いた人間に同情心など一ミリも湧かないぞ」

「そうですか……」

 僕は曖昧に笑った。

 胡弍坊様は満足そうに頷いた。

「では、我は源氏山に帰る。二人とも、ご苦労であった。褒めてつかわす」

「ありがとうございます」

「偉そうに。もう失くすんじゃないぞ」

「分かっておるわ。さらば」


 バサッと羽音がして、目の前から胡弍坊様は消えていた。

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