第1章 あやかし研究会と、黒い雲の話
第1話 入学初日の災難
大学一年生、春。
キャンパス内にある桜がちょうど一斉に開花していて、まるで僕たちの入学を祝ってくれているかのようだ。……だが僕は、冷や汗をかきながら、なるべく上を見ないようにして、そろりそろりと歩いていた。
上空に何か変なものがいる。
黒くて小さい雲みたいなものが。
それがあまりにも目立つので、ついつい見上げてしまったが、途端に体が強い倦怠感に襲われてしまった。これはまずいやつだと思う。だからもう絶対に上を見ないと決めた。
どうしよう、家から出た時にはこんなものは無かったのに。大学に踏み入れた途端に見えるようになった。めでたい日なのに何故こんなことに……。気味が悪い。
そして不思議なことに、周囲の誰もその雲を指さしたりだとか、仰いだりだとか、写真を撮ったりだとか、珍しいものとして盛んに話し合うだとか、そういった行動を取らない。少々、体調を崩してうずくまる学生がいる程度だが、どうやら彼らもその原因となる雲は視認できていないようだ。
まるであれが僕にだけ見えているような……。僕はまた、変な怪奇現象に巻き込まれているのだろうか。
もういい、分からないことを考えていたってしょうがない。既に新入生オリエンテーションも終わっている。あとは出て帰るだけだ。きっと大学から出たらあの雲はついてこないだろう。そう信じたい。
そうやって下ばかり向いて歩いていると、何か小さくてフワフワしたものがつま先にぶつかってきたのが見えた。
「えっ?」
突如として現れたそれは、リスくらいの大きさで、毛皮は真っ白で、尻尾が二つ生えていた。
「……」
黒雲に次いで、また変なものを見てしまった。尻尾が二つの小動物? そんなもの聞いたことがない。
僕には稀に、他人には見えないものが見えることがあるが、二つ同時に見えたのは初めてだった。上には黒雲、下には白リス。ああ、僕はどこを見て帰ればいいんだ? どうして今日に限ってこんなに厄介事に見舞われるんだ?
白いフワフワは、二つの尻尾で僕のくるぶしを叩きながら、くるくると僕の周りで遊んでいる。とりあえず、フワフワの方は見ていても具合が悪くならないし、実害は無さそうだ。だが足で遊ばれると僕は歩けなくて帰れないので困る。
「キューン」
フワフワは鳴いた。
そして、僕を見上げると、僕の進行方向とは逆の方に向かった。良かった、飽きてくれたか、と思って再び歩き出すと、そいつは戻ってきて僕の足にじゃれつく。三回ほどそれを繰り返した辺りで、僕は諦めて、フワフワの望む通りにすることにした。つまり、フワフワについていくことにした。どうやらこれは、僕をキャンパス内のどこかに連れて行きたいようだから。
僕がフワフワについて歩き出すと、フワフワは嬉しそうに駆け出した。僕は見失わないように苦心しながら、人の往来する合間を縫って、フワフワを追いかけた。どうやら他の人々は、このフワフワのことも見えていないようだ。僕は懸命に追いかけながら、ビニールバッグに入ったキャンパスマップを取り出す。どうも僕はサークル棟の方に誘導されているらしい。何故このフワフワがそんなところに僕を連れて行きたがるのか。
サークル棟に着いてみると、そこは薄暗くてあちこちが錆びていて、あまり美しいとは言えなかった。フワフワはその小さな体で器用に階段を登って、その先にある廊下をひた走った。とある赤い扉の前に辿り着くと、僕を見上げてから、とぷん、と影に溶けて姿を消した。
「えっ……消えた」
本当に、奇怪なこともあるものだ。これでフワフワの案内は終了なのだろうか?
僕は扉の上に掲げられたサークル名を読んだ。
「あやかし研究会」
どうしよう、ノックすべきだろうか。気にせず帰るべきだろうか。しばしの逡巡の後、僕は決心して拳を固めて、恐る恐る扉に近づいた。
すると、拳が到達する前に、いきなり扉がガチャッと開いた。すんでのところでぶつかりそうだった僕は、大いに面食らって、仰け反った。
「おっ、スーツ姿だ。新入生か。よくやった、クウちゃん」
見ると、さっきのフワフワが、一人の女性の肩に乗っていた。
「ようこそ、あやかし研究会へ。さ、中に入って入って」
「いやあの、僕は……」
「ん?
「管狐……って言うんですか、それ」
「そう。竹で作ったような管にも入れちゃうほど小さい狐って意味。で? 見学していく? 大した事はしてないけど、新入生歓迎会と称してお菓子を開けてもいいよ」
「はあ……」
僕は改めてその女性を見た。
黒髪ショートに、色白で整った顔立ち。黒いワンピースは、袖にフリルがついていて、ウエストがきゅっと締まっている。背は僕よりも高い。いや、僕が小さいと言った方が正しいのだが。
そして肩に乗った管狐が、つぶらな瞳で僕の方を見てくる。
「あ、それとも他に入りたいサークルがあったとか? それならうちのクウちゃんが悪いことしたね」
「いえ、そういうわけでは……。えと、僕、サークル活動にはあまり興味は無くて……」
「あ、そう。ならどうせこの後は暇でしょ。覗くだけ覗いてみたら? ま、強制じゃないけどな」
「……」
何だか随分と乱暴な理屈を展開されたように感じたが、僕は考え込んでしまった。
入学初日に不意に現れた黒雲と管狐。そして怪しげな研究会に所属する先輩。これらのおかしなものたちが入学初日に一気に僕の前に現れたのは、何か意味があるのかも。
そのヒントを得られそうな人からの誘いをわざわざ断って帰るのも、何だか落ち着かない。
「じゃあ、ちょっとだけお邪魔します……」
「そうか」
彼女はニッと笑った。
「では入りたまえ。靴はそこの靴箱に入れて。そうそう。どうぞどうぞ」
「恐れ入ります……」
僕は部室の絨毯を踏んで、勧められるがままに椅子に座った。彼女は忙しく動き回り、散乱した資料の山を脇に退けたり、大きな袋からポテトチップスを取り出したり、冷蔵庫からコーラを出したりした。
避けられた資料の中には、『妖怪図鑑』だとか『山海経』だとか、不思議な本がたくさんあった。
「あ、私は、あや研の会長の
どすんと僕の目の前の椅子に座りながら言う。僕は慌ててお辞儀した。
「
「室井くんね。ふむふむ。……ふむ」
山吹先輩は、行儀悪く椅子の背もたれに腕をかけた。
「何だ、室井くん、犯人じゃないのか」
「えっ?」
「それじゃあ何でクウちゃんが連れてきたのか……うーん」
山吹先輩がじっと僕を見つめるので、僕は狼狽えて俯いた。だが、次の山吹先輩の衝撃発言で、僕はパッと山吹先輩を凝視することとなる。
「なるほどね。室井くんは千里眼を使えるんだ」
「……えええッ!?」
「うんうん。便利だな〜。いいな〜それ」
「あのっ、何で分かったんですか!? 僕、このことは誰にも……」
「ああ、あのね」
山吹先輩はクウちゃんを手のひらに乗せた。
「管狐には目の前の人の過去や未来を言い当てる能力があるんだ。私はよくその力を借りてるから、私が見つめるだけでその人のことは丸分かりってわけ。あとは、相手を呪ったりとかもできるけど」
「そ、そんな……」
「大丈夫、別に室井くんを呪ったりなんかしないし、千里眼のことも他言しないから。あれだろ? 女湯とか覗き放題なんだろ? そんなことが他人にバレたらまずいもんな」
「な……何てこと言うんですか! しませんよ、そんなこと!」
「えーいやそんな馬鹿な。いや、待てよ……」
山吹先輩は僕の顔をまじまじと見つめた。そして信じ難いといった様子で言った。
「本当に千里眼を悪用した過去が無い……だと? 覗きどころか、テストのカンニングさえしたことがない!? 何だ君、気持ち悪いな!」
「な、何で!?」
何で僕が、ただただ不正や犯罪に手を染めてこなかっただけで、そんな言われ方をされなければならないんだ。解せない。
「聖人か? 仏か? そんな人間が本当にこの世に生きているとは……俄には信じられないな……」
「あの……」
初対面なのに滅茶苦茶なことを言われている。
山吹先輩はバリッとポテトチップスの袋を開けると、二つの紙コップにコーラを注いだ。
「まあ何でもいいや。ほれ、好きに食べたり飲んだりしな。あ、酒類は置いてないんだ。私が下戸でね。ごめんよ」
「いや僕はまだ十八ですから、酒は飲めませんよ」
「あっはっは! そうか! 本当に面白いな、室井くんは」
「ええ……?」
そんなに面白いことを言っただろうか。僕は困惑しながら、ポテトチップスを一枚取った。
「……あの。どうして管狐は僕をここへ連れてきたんでしょうか」
「ん? あ〜。室井くん、あの雲を見た?」
僕はびくっとした。
「雲……あの黒いやつですか?」
「そう」
「先輩にも見えるんですか」
「そうそう。そんで、あれを出した人間がいるんじゃないかと思って、管狐に捜索するよう命じたんだ。ところが最初に派遣したキイちゃんが帰ってこなくなっちゃったから、今度はクウちゃんを派遣した。そしたら君が来た。クウちゃんは君が力になってくれると確信したんだろうね」
「力に……。管狐、他にもいるんですか」
「いるよ。私は三匹使役してる。この子がクウちゃんで、いなくなったのがキイちゃんで、それからこの子が二匹の娘のリンちゃん」
山吹先輩は袖の中からもう一匹の管狐を出して見せてくれた。
「そこで、お願いがあるんだけどさ」
「何でしょう」
「室井くん、千里眼でキイちゃんの居場所を突き止めてくれない?」
「はあ……分かりました」
「……。いやに早い返事だな。……もちろんタダでとは言わないよ。探してくれたら、管狐の力で、君の過去を解明するのを手伝ってあげよう。見たところ、何故君が千里眼を得ることになったのか、君には分かっていないようだから」
「え、そんなことしなくても、管狐なら探しますけど」
山吹先輩はやや顔をしかめた。
「善意はありがたいけどね。タダ働きは良くないよ、室井くん。こういうことはしっかり報酬を要求しなきゃ」
「そうなんでしょうか……」
「そうだよ。それに人の厚意は素直に受け取っておくのが吉だ。とにかく私は、君の千里眼のルーツを探してあげることを約束しよう。これをわざわざ拒むこともないんじゃないか」
「はあ……」
「それで室井くんは、キイちゃんを取り戻すのに協力してくれるんだろう? 多分、キャンパス内には居るはずだから、一丁見てくれないか」
「はあ……分かりました」
そう言って僕は、千里眼を発動させるために目を閉じた。
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