149話 Alternate
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ランタン一つだけが灯された部屋には、小さな窓が一つだけある。外は月も出ていない夜だった。周りは深い森で囲まれており、他に点在する家は総じてボロボロだ。カビが生えていたり、家具が壊れていたり……そもそも、周囲にはまともに使えそうな家が残っていなかった。
だが、意識不明となっていたとある構成員──リコリスに選択肢はなかった。粗末で臭いベッドで目を覚ました後、横に置かれていた新しい救急箱から包帯を取り出し、魔法の衝撃で抉れているように見える傷を覆う。元々黒いストッキングを履いていたがあちこち穴が開いているため、ローブの中から露わになった脚は白く、とても細く見えた。
(それにしても……シファ様の字、汚いなぁ)
救急箱の横にメモが置かれていたので、読みながら治療を進める。少しだけ乱雑な字で書かれたメモには、リコリスが気を失っていた間の出来事が断片的に書かれていた。「ピオーネは箱庭での治療を終えてキャッセリアへ戻る見込み」「エンゲルは行方不明」「ノルンは情報収集」など、一言で終わる報告が箇条書きで羅列されていた。
「調子はどうかしら、リコリス?」
ドアも壊れており、誰かが侵入するのも容易だった。リコリスが脚を露わにして包帯を巻いている中、真っ白な少女──ノーファが部屋に入ってくる。
リコリスは慌てて脚を隠し、ノーファへ向き直る。
「の、ノーファ様! 申し訳ございません、不覚をとってしまって」
「仕方ないわ、わたくしも想定外だったもの。自分の治療をしながらでいいから、わたくしと話をしてくれるかしら?」
小さく微笑むノーファに従い、リコリスは自分の治療を再開した。ノーファは埃とカビにまみれた壁に寄りかかりつつ、リコリスの一挙一動を注意深く見つめている。
「ここは以前、シファが管理していた魔物の『デストロック』が潜伏していた場所なのだけど。シファがあなたをここに連れてきたのは、ここをミストリューダの新たな隠れ家にするためなの」
「キャッセリアの隠れ家は放棄したと聞きましたが……私から言うのもあれですが、小さすぎるのでは?」
「人間の箱庭なら、神たちが追って来る可能性は低い。今回はあらかじめ、複数の箱庭にいくつか隠れ家を作って、すぐに潰されないようにしようと思ったの。ここはその一つにすぎない」
デストロック、という魔物の名は、あくまで計画上のコードネームのようなものだった。本来の魔物の名前は、少なくともリコリスは知らないままでいる。
ミストリューダの元構成員・クレーがかつて起こした「神隠し事件」の舞台の一つとなったのが、今リコリスがいる箱庭だった。事件に巻き込まれたとある一般神たちが訪れた影響なのか、デストロックは消滅し、他の魔物も次々と倒された形跡も残っていた。
実際、この森から東へしばらく歩くと、壊れた白い建物の跡を確認することができる。瓦礫などはまだそのままにされており、植物の蔓が巻き付いていた。何らかの衝撃で割れた看板には、「異能力研究所」という文字だけを確認することができた。
「まあ、隠れ家についてはあまり話すことはないわ。問題は……アイリスを上手に殺せなかったこと」
救急箱の横に残されたメモの中に、「アイリス暗殺失敗」という一言が書かれていた。それにもかかわらず、メモの最後には「計画は順調。怪我を先に治すように」と書かれていたため、リコリスは少なからず不審に思っていた。
「シファ様のメモには、計画は順調だって書かれていましたよ」
「あの子はわたくしと違って嘘が下手だしね。そうでも言っておかないと、エンゲルが戻ってこないと思ったの」
「さすがに申し訳なくて出てこられないと思いますよ。あいつは自分の失敗を絶対に許さない男ですから」
包帯をぎゅっと強く結び、露わにしていた脚をローブの裾で隠す。残った包帯を箱の中に片づける途中、ノーファを横目で睨みつけた。
「……だから私、言ったんですよ。エンゲルの仕事をやらせてほしい、って」
「うふふ、やっぱりそういう魂胆だったのね。あなたの『願い』を知っているわたくしが、アイリスの……あなたのお母様の暗殺の任務を頼むわけないでしょう?」
ノーファは少しも笑みを崩すことなく、淡々と答えてのけた。すぐに睨むのをやめたリコリスは、またすぐに片づけを始める。
「やっぱり、ノーファ様は……お母様しか見ていない私のことは、ずっと敵だと思っているんでしょう? すぐに助けてくれなかったのは、私が死ぬことを望んでいたからじゃないですか?」
救急箱の蓋を閉じ、リコリスはベッドの横に置いたブーツを履いた。臭いベッドから立ち上がり、ノーファの横を通り過ぎようと歩き出す。
「わたくしがあなたを生かしているのにはそれなりの理由があるの。あなたは知らないでしょうけど、あなたの存在意義はわたくしにとって大事なことなの」
「……存在意義?」
壁から身を離したノーファが、意味深な言葉でリコリスを引き留めた。小さな唇は、醜く歪みながら笑っている。
「覚えているかしら? わたくしがあなたに初めて与えた任務のこと」
「……デミ・ドゥームズデイのことですか」
「そう、その時のこと。マロン・ローぺリア……あなたが最初に殺した神の名前よ」
リコリスはマロンという、深く赤い髪と金色の瞳が特徴的な男の記憶を思い出す。生まれた世代が同じだったが、根っこからの性格が合わない部分があった。
「覚えています。あいつは偽善者でムカつく奴だった。デミ・ドゥームズデイで出会ったあなたが、彼を殺すための力をくれた」
当初は殺すほど憎んでいたわけではなかった。ノーファと出会ったためなのか、気づいたときには彼の命を奪っていた。
「あれは、他でもないあなたにしかできなかったこと。そして、あの初めての任務はまだ終わっていない。あの男と同じ境遇の神が何人もいるのよ」
「『失敗作』……お母様の代わり……」
「そう。あなたは『失敗作』、すなわりアイリスの代替となる神を憎む運命にある。アイリスから与えられた『システム』があなたをそうさせているの。これは他でもない、愛するお母様からの贈り物」
幼い少女の姿をしたノーファの言葉は大人びていて、まっすぐな言葉に思えた。深く被ったフードの下から彼女を見つめているうちに、リコリスの意識はノーファ一人へと寄せられていく。
「あなたはアイリスから、失敗作を殺すように願われているのよ。わたくしがあなたにアストラルの力を与えたのは、その願いを知っていたから。わたくしはあなたがお母様の期待に応えられるように手助けしているのよ」
「……本当に? お母様がそうおっしゃっていたのですか?」
「いずれ理解できるわ。だから、ほら……これをあげる」
ノーファが差し出した手のひらには、深い紺色のどろどろとした液体が入った小瓶が乗せられていた。受け取ってすぐに、それはノーファが作り出した「薬」であることを悟る。
「アイリス暗殺の任務のときに、エンゲルにもあげたものよ。これで、あなたの中にあるアストラルが活性化される。ちょっと気分が高揚したり記憶が飛んじゃったりするかもしれないけど、役目を果たすには何の支障もないからね」
「は、はい。ありがとうございます」
瓶を閉じているコルク栓を引き抜き、薬を飲み干した。ノーファはその様子を、笑みを絶やすことなく眺めていた。
小瓶が空っぽになり、リコリスはフードを脱いだ。紫のメッシュが入った黒い長髪と赤い瞳の女は、自信に満ちつつも呆けた顔になっている。
「さあ、ナターシャ。憎い失敗作を殺しなさい。あなたの愛するアイリスの願いを叶えることこそが、わたくしの願いの成就に繋がる」
「お任せください、ノーファ様……! お母様の代わりとなる神は、私が全員殺します!」
意気揚々と部屋を飛び出したリコリスは、すぐにどこかへと姿を消す。
残されたノーファはしばらくの間、小さく笑い声を漏らす。リコリスの姿が完全に見えなくなると、笑い声は少しずつ大きくなっていった。
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