148話 逃避
*
ジュリオは、自分が生まれて間もない頃を微かに覚えている。
薄暗い天井と淀んだ空気、窓一つなく狭い部屋。あらかじめ用意されていた手鏡を覗くと、ピンクゴールドの短い髪と金色の瞳、そして右肩にしか生えていない翼を持つ幼い子供が映っている。これが自分だということは、教えられなくてもわかっていた。
(ここにいる子は、みんなおれと同じなのかな)
奇妙なほど規則的に並べられたベッドには、ジュリオと同年代らしい子供が何人か眠っている。髪や目などの容姿は違うが、素朴な白い寝間着を着ているのは全員共通している。
ベッドの一つに寝転がる自分の隣には、固い枕に顔を埋める少年がいる。彼とジュリオの特徴はとても似通っているが、彼には左肩のみ翼が生えている。彼が自分の片割れだということはなんとなく理解していた。
生まれた神は、すぐに地上に出られるわけではない。生まれてしばらくは、地下の狭い居住スペースで最低限の生活を覚える。
神は特殊な生まれ方をしているため、幼少期の記憶は地下の狭い空間から始まることが多い。ただ、ほとんどの神は地下での暮らしを覚えておらず、気づけば自然と人間のような振る舞いができていた。
ジュリオも地下での記憶はそれしか残っておらず、次の記憶ではすでに地上に立っていた。
繁華街と郊外の境目に、白い学舎のような建物群がある。緑や色とりどりの花、そして門と柵で囲まれているその場所は、神の子供たちが集う「グレイスガーデン」。
ジュリオとセルジュには、親代わりとなる世話神がいなかった。世話神のつかない神の子供は、必然的にグレイスガーデンに捨てられる。そして、周りからは当然のように憐みの目で見られ、運が悪ければからかわれたりいじめられる。
「もう大丈夫だ、セルジュ。悪い奴らはもうあっちに行ったから」
「うぅっ、ひぐっ……にーさん、どうしてぼくたちには世話神がいないの……? ぼくたち、なんで捨てられちゃったの……?」
毎日のように子供たちからいじめられ、セルジュは泣きじゃくってばかりだった。ジュリオはセルジュが泣くたびいじめっ子を追い払っていたが、暴力に訴えていじめをやめさせることはできなかった。
当時、ジュリオはできるだけ優秀な子供を装うように心がけていた。暴力を振れば自分たちが悪いと判断され、自分だけではなくセルジュも立場が悪くなると理解していたからだ。
「……そこで何をしているんですか? ベルサイファー兄弟」
黒い装束を着た大人の女性が話しかけてくる。紫のメッシュが入った黒い長髪を揺らし、感情のない赤い瞳を向けている。
セルジュは泣きじゃくりながらも、涙を何度も拭いながら女性の問いに答える。
「な……ナターシャ先生。どうして、ぼくたちは捨てられたんですか? 理由を教えてください……」
「……それはあなたたちが『失敗作』だからです。アイリス様の役に立つ神にはなれない、そう判断されたからに過ぎません」
悲しむ子供をなだめることすらせず、ナターシャは立ち去っていく。セルジュはさらに大声で泣きわめき、ジュリオはセルジュに慰めの言葉をかけながら背中を撫でる。
「ち、ちょっと!? あなたたち、大丈夫?」
セルジュの背中を撫でていたとき、一人の少女が話しかけてきた。
顔はうまく思い出せない。ただ、真っ白なシルクのワンピースと、背中に一定の翼が生えていることは覚えている。
「ごめんね。あなたたちがいじめっ子に絡まれていたときから、様子を見てたの。でも、ナターシャ先生に話しかけられるなんて……あの先生、わたし苦手なんだ」
「……きみ、誰だ?」
「わたしの名前は■■■■。ねぇ、わたしとちょっと話そうよ」
■■■■と名乗った白銀の天使は、片翼の兄弟にとって初めての友達だった。
■■■■が二人の友人になってから、ジュリオとセルジュはいじめられることがほとんどなくなった。子供たちにとって、■■■■は完璧な優等生で憧れの的らしい。
グレイスガーデンでの授業が終わり、夕暮れが訪れようとしていた。色とりどりの花が咲く中庭で、セルジュと■■■■は花冠を作って遊んでいた。ジュリオは一人、その様子を見守っている。
いじめがなくなったことで、セルジュに笑顔が増えた。素直に喜ばしかったが、ジュリオは生まれた頃から気になるあることについて悩み続けていた。
「ねぇ、■■■■。飛べない天使に、価値はあると思う?」
ジュリオの問いに、■■■■はきょとんとした顔になって、すぐに苦笑いを浮かべる。
「ジュリオは難しい話ばかりするね。なんだか大人びてるというか」
「だって、■■■■は飛べるじゃないか。飛べない奴はダメだって、失敗作だって思ったことはないの?」
■■■■は花冠を作る手を止め、うーんと悩んでいる。セルジュはジュリオが思い詰めていることに気づき、完成した花冠を持ったまま俯いた。
「少なくとも、ぼくに価値はないと思うよ、にーさん……」
「そ、そんなこと言うなっ! おれはセルジュがいないとダメだ!」
「本当? にーさんはぼくが必要?」
「当たり前だ! セルジュがいなかったら、おれは何を支えにして生きたらいいんだよっ!」
ジュリオは悲しみを紛らわすように、たった一人の弟を背中から抱きしめた。唯一の家族を手放すことは、自分の生きる理由を手放すことと同義だと思っていた。
「わあっ!? に、にーさん、ちょっと苦しいよー!」
「ふふっ、それでいいじゃない? 自分が必要だと思う、誰かの天使になればいいんだよ。たとえ飛べなくたって、本質は変わらないよ」
天使の本質は、飛べるか否かではない。救いを求めている誰かを救う存在、それがこの世界で定義されている天使であり、神だとジュリオは思っている。
そう考えるようになったのは、完全な翼を持つ■■■■の考えに影響されたからだと自覚している。
「あなたはあなたの大切なひとのために生きればいいんだよ。セルジュもね?」
「う、うん! ぼく、ジュリオにーさんと■■■■のためなら頑張れる! だからほら、これあげる!」
すでに完成していた花冠を、■■■■の頭に飾った。可憐な笑顔が咲き誇り、花冠を優しく撫でる。
「わぁっ、きれい! ありがとう、セルジュ」
「えへへ……にーさん、■■■■! ぼくたち、大人になっても一緒にいられるといいね!」
「ああ、そうだな。おれたち三人で、ずっと遊べたらいいな」
幼い子供の世界は、神であろうと人間であろうと狭い。ジュリオとセルジュにとって、彼らの世界には■■■■がいればそれでよかった。■■■■がその場にいるだけで、世界は輝いて見えたのだから。
────今の自分の目に映る景色は、かつての世界よりも淀んでおり、暗かった。
薄汚れた床と、僅かにひび割れた壁。割れた照明のガラスに、自分の姿が映っている。ピンクゴールドの短い髪と金色の瞳は変わらない。
ただ、とても身体が大きくなっていた。子供だったはずの自分は大人になり、白を基調とした軍服のような服を着ている。
薄汚れた壁に寄りかかり、眠っていたことを思い出して、意識がはっきりする。
「少しは休めましたか、ジュリオさん」
自分の横に、懐中時計の装飾がついた中折れ帽を被った少年──トゥリヤが腰を下ろしていた。赤と緑のオッドアイを持つ彼は、最高神の側近の一人であったはずの神だ。
「……もしかして、ずっとここにいたのか」
「たまに外に行って情報を集めたりはしていましたが。ジュリオさん、昼間はずっと行動していましたし、少しは休まないと身体が持たないですよ」
「なんでおれに構うんだ。ここにいたら、あんたも色々と危ないだろ」
「色々と話をした後なのに死なれたら、後味が悪いじゃないですか」
ミストリューダに入った構成員はそれぞれ『願い』を持っており、その願いを叶えてもらうべく、シファ様とノーファ様に協力している方がほとんどだ。ジュリオだけでなく、トゥリヤも同じだろうと思った。
ジュリオ自身は深く事情を聞かなかったので、彼の願いや行動原理は知らない。それでも、秘密を共有した者同士で不思議な縁が生まれていた。
「何か、夢を見ていたのではないですか? 寝言、少しだけ聞いちゃいました」
寝言は本人にとってどうしようもないことだ。ジュリオは小恥ずかしく感じてしまう。
「昔の夢だ。もう百年以上前の話なんだが」
「百年……ですか」
トゥリヤは現代の初期に生み出された神であり、三百年近く生きている。それに加え、彼は歴史に詳しい神であることで有名だ。生まれてからずっと、喜劇も悲劇もひっくるめて見続けてきたのだろう。
当時生きていた神からあらゆるものが奪われた、
「ジュリオさん、ノーファ様の元へ戻らないのですか」
「……戻れると思うか」
「やっぱり、ジュリオさんほどのお方でもそうなりますか。参ったなぁ」
苦笑いするトゥリヤから目を離し、汚れた床をぼんやりと眺める。
自分がノーファから命じられたことは、最高神アイリスを殺すこと。怒りで我を忘れるほど憎んだ相手なのに、殺せていなかったことを知ったときは愕然とした。
同時に、もう一度ノーファの顔を見ることがとても恐ろしくなった。だから、捨てられた隠れ家に身を隠している。
「ノーファ様はこの作戦を必ず成功させる気でいた。今回の場合は重大な失敗だし、おれは生きていられないだろう」
「心配ありません。目立たなければ、あなたが死ぬことはないはずです」
そう言い切ることができる理由など、ジュリオにはわからなかった。眠りからしっかり目覚めたと思っていたが、頭は未だにぼんやりとしている。
トゥリヤは立ち上がり、脱いでいた黒いローブをまとう。トレードマークの中折り帽を脱ぎ、懐へと隠した。
「僕は引き続き、リコリスの監視をします。申し訳ないですが、あなたを助けることはできません」
「別に。自分の身は自分で守る。今までもそうしてきたしな」
「そうですか……どうか、無理だけはなさらないでくださいね」
フードを深く被ったことで、トゥリヤの顔が見えなくなった。彼は闇の中へ消えていき、ジュリオは一人取り残される。
壁際に寄りかかったまま動かず、彼は虚空を見上げる。
生みの親……アイリスを殺せない限り、自分は日の光に当たって生きることができない。家族に会うことすらできない。
どうして、生みの親を殺すのか。殺さなきゃいけないのかを、思い出す。
(アイリスはおれたちを失敗作だとみなしている。おれたちを完璧に生むことができなかったあいつは、傲慢で憎たらしい存在だ。おれたちのためにも、アイリスは殺さなきゃいけない)
失敗作、完璧、傲慢で憎たらしい────これらは、自身に刷り込む勢いで何度も反芻した言葉だ。
真実を教えられた結果、自分でこの道を選んだに過ぎない。自分で選んだ道を自ら否定するほど、愚かなことはないのだ。
早く動かなくてはいけない。だが、ジュリオは違和感を覚えた。
(どうして、おれはアイリスを憎んでいるんだ? ここまでの憎悪が浮かぶほど、おれはあいつのことを知っているのか?)
自分がキャッセリアにいたのは大人になる前の話で、住んでいた期間は二十年にも満たない。その中でアイリスにきちんと会った記憶が、なかった。
それだけじゃない。居眠りしていた間に見た夢で、一人だけ名前を思い出せない者がいた。
(『彼女』の名前を思い出せない……おれの記憶にはセルジュの他に、もう一人大事な存在がいたはずだ……)
大切なはずの天使の名前も、顔も思い出せない。神を裏切る道に堕ちた理由にも、彼女は関係していたはずだった。
だが、いくら記憶を辿っても、欠けた部分は蘇らない。
(このままじゃ、セルジュのことも忘れてしまうんじゃないか? 生誕祭で会えて、せっかく思い出せたのに)
奇妙なことに、考えれば考えるほど頭にもやがかかっていく。ろくに頭が回らなくなるどころか、過去の記憶には関係ないはずの少女の顔が浮かんでくる。
脳裏に浮かんだノーファの顔に陰が落ち、無表情でジュリオを見ている。
わたくしたちの目的を、悲願を忘れないで────何度も聞いた言葉とともに、過去の記憶がゆっくりと見えない場所へ沈んでいく。
「すべてを捨てたおれには、あなたしかいない……そう言いたいのですか、ノーファ様……?」
よろめきながら立ち上がったジュリオは、壁を伝いながら隠れ家の奥へと向かう。
率直な思いが駆け巡る。自分の脳裏を侵食する白い
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