二章 三宮春乃

二章 三宮春乃(1)

 眠い。

 自分から峯子ちゃんに頼んだにもかかわらず、なんたら方程式がどうのと教えられても、ほとんど理解ができなかった。そのせいで数学の問題集は少ししか進まない。もちろん峯子ちゃんの教え方が悪いというわけではなくて、単純に私の集中力の問題だ。

 そもそも、私は勉強というものにうまく専念できないのである。もっといえば、同じ場所でじっとしていられないというか、ただ座って何かをしていると、まるで見えない鎖か何かでしばり付けられているような、窮屈な感じがして、苦しくなるのだ。だから小学生の頃なんかは、授業中によく立ち歩いて先生に怒られたし、もっと小さい頃は色んな事が気になってしまって、コンセントに指を突っ込んで感電したり、道に落ちている石を口に入れておなかを壊したりしていた。

 自分でも変な子供だったと思う。そのせいで、私がそんなおかしなこと、言い換えれば悪いことをするたび、パパの煙草が背に押し付けられたのだ。

 痛くて、熱くて、どれだけ泣いても、お前が悪いんだと言われた。

 ママがどれだけもうやめてと言っても、やっぱりパパはやめなかった。

 そして、うるさいって、パパはママもぶつようにもなった。

 だから、ママのためにも、やっぱり私がお利口さんにしなくちゃいけなかった。

 ああ、ちゃんとしなきゃ。

「春乃?」

「ひゃい!」

 微睡まどろんでいたところに声をかけられて、思わず大声を出してしまった。

「大丈夫? うとうとしてたみたいだけど」

 隣の席からの声だった。寝ぼけまなこをこすり、意識をかくせいさせると、声をかけてくれた仁の輪郭が鮮明に見えてくる。

 特筆するような身体的特徴は何一つとしてない。強いて言うなら、髪の毛が癖っ毛なくらいだろうか。一度顔を見ても、目をらせば、すぐにどんな顔だったか思い出せなくなるような、そんな容姿の彼。

 しかし、あくまでもそれは一見しただけの印象だ。彼と言葉を交わしていると、あまりにも淡々としていて、本当にたまに、ちょっとだけ、何を考えているのかわからなくて、怖いと思ってしまう。

 まさに今がそうだった。口では私を心配するように言っていても、起きぬけに目を合わせると、無機質な人形に見つめられているような、寒気じみたものを感じるのだ。

 けれどと、そこで私はかぶりを振った。仁の人となりがどんなものであるかは理解している。一見影が薄く、話せば時々恐ろしくとも、彼の根っこのところは友達思いの素直なものだ。

「あ、あはは……ごめんね、私から教えてって言ったのに、だよね」

 頰を搔きつつ、そんなちょっと不思議くんな仁に返すと、ちらりと横目でこの場にいるもう一人へと視線を送る。

 するとそのもう一人、私の真向かいに座る峯子ちゃんは、あきれたようにため息を吐いた。

「もう、三宮さんったら、集中しないと駄目じゃない」

「いやー、えへへ、ごめんごめん。やる気はあったはずなんだけどな……それで、どの問題だったっけ」

「ここの問三でしょう。ほら、ここの公式は……」

 峯子ちゃんが言おうとした時、その声にかぶさる様にして、がらがらと図書室の扉が開く音がした。

 音につられてふと目を上げると、入り口の所に見覚えのある白衣の男性が立っているのが見える。真っ黒な縁の眼鏡めがねをかけていて、いかにも頭が良くてそうであり、けれどもぶつぶつと生えたしょうひげが、その堅苦しさを良い具合に粗くさせていた。

 彼は図書室に入ってくるなり、何やら受付の方をうかがっているように見えたので、思わず、声をかけてしまった。

「あ、ゆうくんじゃん。何しに来たのー?」

 するとゆうくんは、びくりと驚いてみせた。あせったようにも見える。挙動不審で、どこかおかしい。

 しかし彼がこちらを振り返ると、その顔に焦りというよりも、安心感のようなものが浮かんできて、私はなるほどと納得した。

 それは、とある噂、についてのことである。

「こら三宮。なんべんも言ってるだろ。ちゃんとななはま先生と呼べ」

 私の納得に気付いていない様子で、ゆうくんは、努めて呆れたように振る舞いつつ、図書室の奥の机で勉強をする私たちの元へと歩み寄ってきた。

 私はまたまたちらりと真向かいに座る峯子ちゃんの方を盗み見る。すると彼女もゆうくんを見て、どこか安心したような、いや、むしろれているような顔をしていた。

 そう、とある噂というのは、何かと生徒人気が高いこの二人の教師が、デキているのではないか、というものである。

「あはは! ゆうくんってば峯子ちゃんと同じこと言ってるー!」

 はやし立てるように言ってみれば、ゆうくんと峯子ちゃんはそろって少しだけ顔を赤くし、しかし流石さすが大人と言うべきか、すぐに平静を取り戻した。

「三宮さん、勉強中でしょう。ちゃんと集中しなさい」

 いかにも怒り慣れていないという感じの峯子ちゃんだ。先生としてのかっこうばかりはしっかりしようとしているものの、地の優しさが隠せておらず、そういうところが親しみやすいのである。

「じゃあキューケイにしよ! ほら、折角ゆうくんも来たし……なんか用があって図書室来たんでしょ? あ、もしかしてサボりだった?」

「んなわけあるか」

 言い返したものの、ゆうくんは切り出しにくそうにしていた。というのもなんだかちらちらと私と仁を見て、「まぁ」とか、「その、なんだ」とか、歯切れ悪くしているのである。

 すると、ゆうくんと目が合った仁が口を開いた。

「谷津先生を探されていたんですよね? これから休憩みたいなので、僕たちのことは気にしないでください」

 その一言はなんとも直球で、私でさえ驚いた。仁は何かと鋭いところはあるものの、基本的に感情の起伏、というより感情自体にうといところがあり、こういった恋愛事に対しては、むしろ鈍いとまで思っていたのだ。中学の頃から彼に片思いしているすみれの想いに、今なお気付いていないところなんか、まさにそうである。

「な、一条、なんでそれを」

「なんでって……先ほど、七浜先生が来られた時、受付の方を窺っているように見えたので」

 言い当てられたのか、ゆうくんは少しだけ唸り、峯子ちゃんを見下ろした。

「じゃあ、少しだけ……いいですか?」

「あ、は、はい……」

 どこか緊張しながら立ち上がった峯子ちゃんを、ゆうくんはしっかり待って、二人揃って図書室の外まで歩いて行ってしまった。並ぶ背中を後ろから見ていると、やっぱりどこか距離感が近いような、近くないようなもどかしい感じがして、くだんの噂話が私の中でアツくなる。

 そうしてたかぶった野次馬根性のまま、隣に座る仁の服のそでを強引につかみ、立ち上がった。

「ナイス、ナイスだよ、仁。ほら行くよ」

「ちょっと、急にどうしたの春乃……行くってどこに?」

「覗きに決まってんじゃん。」

「……覗き?」

「仁もあの噂知ってたんでしょ? ほら急いで!」

 どんな時も慌てないというか、マイペースというか、ぼんやりとしている仁を引っ張り、図書室の廊下側の窓際まで急ぐと、丁度渡り廊下の辺りまで歩いて行った二人が、親密そうに話しているのが見える。

 二人きりになったからか、峯子ちゃんもゆうくんもずいぶんと砕けた様子で話しているみたいだ。うわついた話が大好物である花の女子高生として、こんなにホットな噂の現場を生で見られるとは思っておらず、なんだかにやにやとしてしまう。

 しかし、隣で眉を顰めている仁はといえば、イマイチ話に付いてこれていないみたいだ。

「噂って何?」

「今一番キてるやつだって。あ、手つないだよ! 手繫いだ! きゃあ! すごい! ……いや、何か渡しただけっぽい?」

 仁との会話もそっちのけで、鼻息すら荒くして二人を覗き見する。ゆうくんが手を伸ばし、峯子ちゃんの手をとったように見えたが、何かを渡しただけみたいだ。ただ、何を渡したかまでは見えない。

「うーん、なんだろあれ、仁は見える?」

「さあ……よくわからないけど」

 呆れるでもなく、困惑するでもなく、やはり仁は淡々としていた。相変わらず不思議な雰囲気の友人である。

 そう思っていると、ふと、彼の声が低くなった。

「それで、噂っていうのは……秘密のアプリのこと?」

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