一章 一条仁(3)

 夕方になり、学校が終わる。普段ならキンコンカンと深く響くチャイムを背にまっすぐ家路に就くところだが、今日ばかりはその機械的な鐘の音の中にとどまっていた。

 理由は単純に、進路選択に関する調べものである。もう二年生の夏となり、本格的に自分の道というものを考えなければならないタイミングだ。

 ならばと僕が足を運んだのは、グラウンド近くの特別棟三階にある、人気の無い図書室であった。

 がらがらと重い立て付けの引き戸を開き、入り口からすぐのところにある受付に向けて声をかける。

「失礼します」

「あら、一条君じゃない。いらっしゃい。放課後に来るなんて珍しいわね」

 僕の声に応え、カウンターの奥から若い学校司書、たにみね先生が出てきた。しっかりと整えられた身だしなみと不健康そうな目元のクマが不一致な彼女は、いつも通りのひどい猫背でふらふらと歩き、膨よかな胸元には幾冊かの分厚い本を抱えていた。

「なにか調べ物?」

「はい、進路関係で少し」

「そう、それなら時計の前の本棚に纏めてあるわ」

 いつも生徒に見せる親切そうな微笑みで図書室中央付近の壁時計を指差し、谷津先生はそう言った。

 その直後、図書室の重い引き戸をしつけな言葉が飛び越えた。

「峯子ちゃんいるー?」

 潑溂とした、明るい声音だ。その言葉の主である女生徒に対して谷津先生は抱えるようなため息を吐き、猫背の背中を更に丸めた。

「三宮さん? 峯子ちゃんではなく谷津先生と呼びなさいと、何度言ったらわかるの?」

「あはは、ごめーん次から気ぃつけるわ。てあり? 仁がいるじゃんめずらしー」

 相変わらずの威勢のいい態度でその女生徒、春乃は言った。

「なに、仁も勉強教えてもらいに来たん? 峯子ちゃんは渡さないよー?」

 いた ずら好きな子供のように白い歯を覗かせて笑い、手に持ったがくせいかばんを振り回して春乃は僕と谷津先生に近付いて来た。若干日焼けした肌と茶色い短髪がいかにも運動神経抜群な印象を与える彼女は、緩く着流した制服も相まって制汗剤か何かのコマーシャルに出てきそうだ。

「僕は別の用事だよ。ていうか、春乃こそ勉強目的なら吾妻でも呼んだ方が良かったんじゃないの? 学年一位なんだし」

「んー、だめだめ。結衣ってば、テスト一週間前になるまで『まずは自分をかんぺきに』って勉強教えてくんないんだよ。草太だって部活があるし、仁は男子だから、草太のいないところで二人きりってのは、ちょっと草太に悪いじゃん? 頼みの綱のすみれも用事があるって言ってて」

 頭の後ろで手を組み、春乃は言った。直後隣に立つ谷津先生に抱きつき、その豊かな胸に顔をうずめてねこで声を出す。

「だからー頼むよ峯子ちゃーん。今回はホントやばいんだよ! 今度ジュースおごるからお願い!」

「ちょっと、離れなさい三宮さん。そんなことしないでも教えてあげるから」

「やったー! 峯子ちゃんってば超優しい。おっぱいもおっきいし、私が男だったら絶対アタックしてるよ」

 調子よく口を動かし、春乃はようやく谷津先生から離れてにっと笑った。片や谷津先生は疲れた様子で乱れた花柄のシャツを正し、抱えた本を重そうに持ち直した。

「もう、三宮さんといると普段の三倍疲れるわ。まだ返却本の整理が終わってないのに」

「峯子ちゃんが体力ないだけだよ。もっと体動かさなきゃ!」

 春乃は受付横にある返却用の本棚に歩いて行き、その中から数冊取り出して、本の背表紙の棚番号を確認した。

「まあ、勉強教えてもらうだけってのは悪いから、本の整理ぐらいは手伝うよ」

「……本の整理が終わらないと谷津先生は春乃に勉強教えらんないし」

 僕が呟くと、春乃はふっと含みのある表情で笑い、持っていた本の山を僕に手渡した。その重さに危うく何冊か取り落としそうになるものの、春乃がばしんと僕の肩を叩いてかつを入れる。

「ほら、頑張れもやしっ子! せっかくだし、私が仁のもやし体力をきたえてあげよう」

「それって、僕も利用されてるだけなんじゃない?」

「まだ元気あるね。なら、倍くらいいっとく?」

 春乃が新しく返却本を手に取ろうとしながら、僕を見つめる。その言葉と表情に負け、僕は結局本を棚に戻す作業を始めた。

 強引な彼女のことだ。なんだかんだとこのまま、谷津先生との勉強会に僕も引っ張り込んでしまうのだろう。ただ、それもしょうがないと思えるほどのあいきょうというものを春乃は持っていた。

 彼女は本当に人がい。

 ふと目を向けた窓の外のグラウンドで、野球部が練習しているのが見える。

 そこには草太の姿を見つけることができた。遠目でもわかるくらい大きい体で、誰よりも熱心に練習にはげんでいる。春乃の方を確認してみると、彼女も草太のことを見つめていた。今日も、いつも通り草太の練習が終わるまで待ってあげるのかもしれない。

 本当に、仲が良い二人である。

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