一章 一条仁(2)

「じゃあ今日はタイム取るぞー」

 昼休み明け、複数クラス合同での体育の授業。青いタイルが敷かれたプールサイドに制服のまま座り込み、吾妻がセクハラハゲとしていた体育教師、つきただかずの言葉に耳を傾けていた。

「女子はクロール、男子は平泳ぎだ。既定のタイムに届かなかった者は来週補講を行う」

 中年らしくでっぷりと太った腹を揺すりながら睦月先生は告げた。生徒たちからため息がこぼれる中、睦月先生はあぶらぎっててかてかと光る顔面をこちらに向けた。

「それから今日見学の一条、ゆきづきの二名も、通常の補講とは別に来週の補講にも出てもらうからな。では、各自一度通しで泳いで、二周目からタイム測定だ」

 睦月先生が言い終えると、集合していた生徒たちはぶつくさと文句を垂れながら各コースへと歩き始めた。僕はその流れとは反対方向へと進み、プールサイドの一角に設けられてある見学者用のけを目指す。

「い、一条君も見学なの?」

 日除けの下へと辿り着くと、そこには同じクラスで中学からの付き合いである、雪月すみれが立っていた。小柄な体を包んでいるのは水着ではなく、僕と同じ夏服で、伸ばした黒髪が起伏の乏しい胸元まで届いている。

「うん、水着忘れたんだ。すみれも?」

 僕が返すと、すみれはあははと花も恥じらうように口元を隠して笑った。いかにも平凡な、彼女らしい仕草である。

ちょっと寝坊しちゃって、急いで家を出たら忘れちゃったみたい」

「そう、お互いツイてないね。タイム測定の日に水着を忘れるなんて」

「だね。まあ、私は泳ぐの遅いから、結局補講には出なきゃいけなかっただろうけど」

 二人して日除けの下に座り込み、つんとした塩素のにおいの中で言葉を交わす。夏らしい快晴の下できらきらと輝くプールの水面にはたびたび白い飛沫しぶきが舞い、その都度風が冷たくなるのを感じた。

「あ、春乃ちゃんだ」

 プールをながめていたすみれが、周りよりひときわ高い水飛沫を上げて水面をく女生徒を指差した。そのか細い指の先で泳いでいる春乃は、同じグループの女生徒たちよりも体一つ分先を泳いでおり、いち早く二十五メートル先の壁へと手を付いた。

「春乃ちゃんすごい!」

 プールサイドに上がり、白い水泳帽の下の茶髪から水をしたたらせる春乃に向けてすみれが手を叩く。

 すると、こちらに気付いた彼女は、威勢のいい目つきで笑いながら近付いて来た。

「でっしょー? 私ってば運動神経超良いから。そういうお二人さんは授業サボってなにいちゃいちゃしてんのー?」

「べ、別にいちゃいちゃなんかしてないよ! ただ偶然、お互い水着を忘れただけで」

 赤くなって否定するすみれに「本当?」と意地悪く笑いながら近付き、春乃はすみれの耳元で何事かささやいた。その途端にすみれは赤くなっていたほおに更に朱を加え、目をぐるぐると回し出す。

「何言ったの?」

「さあ? 女の子同士のヒ・ミ・ツ。いやーやっぱ青春っていいわ。せっかくの二人きりをじゃしちゃ悪いし、私も草太のとこ行こーっと」

 ばいばいと僕たちに手を振りながら春乃は振り返った。その時、彼女のれたスクール水着の背中に幾つもの煙草を押し付けられたあとが見えた。

 それこそが彼女がタバコ女と呼ばれる理由だ。春乃は幼いころに父親からぎゃくたいを受け、その傷痕が、彼女の身と心に深く刻まれているのである。

 実際、彼女が歩くたびに数人の生徒が、その傷痕へと視線を送ってしまっていた。見ないようにしようとしても、目に入ってしまうものなのだろう。中にはこつに顔をしかめてしまう者までいた。

 だが春乃は、そんな視線など気にしていないように、「そういえば」と振り返った。

「さっきはありがとね、仁。教えてくれて」

 微笑ほほえんだ彼女の顔は、あまりにも柔らかく、に富んでいるように見えた。春乃はただ明るいだけではなく、つらい過去と戦う強さも、痛みを知っているからこその優しさも持っている、思慮深い人なのだ。

「こっちも、ありがとう。急いでたのにすぐ来てくれて」

 春乃はへらりと明るく笑い、今度こそ草太の所に向かって行った。

 そんな春乃を見送りながら、僕は隣に座るすみれに言った。

「すごいね、春乃は」

 ただ返事が返ってこず、どうしたのかと彼女の顔を見てみると、すみれの顔は真っ赤にで上がったようになっていて、口の中であめでも転がしているかのように何かを呟いていた。

「ふ、二人きり……何か話さないと……」

 先ほど春乃に吹き込まれた何かが、彼女の頭の中をじゅうりんし、何やらすみれを苦しめているようである。

「……大丈夫? すごく顔赤いけど、体調悪い?」

 見かねて顔をのぞき込むと、彼女は「ひゃあ!」と悲鳴を上げて飛び退いた。

「だ、大丈夫、大丈夫だけど、ちょっと考えさせて!」

「……何を?」

 胸元まである長い髪を両手でいじりながら顔を隠すすみれに、僕は眉を顰めた。彼女は中学時代から、こんな風に突拍子もなく会話が困難になる時がある。普段はいかにも平凡という感じで、話しやすく、良い友人であるために、余計に心配になるのだ。

 そうして、未だ何事か呟いているすみれの顔にようやくあっとひらめきのようなものがかすめ、身振りも交えながら話し始めた。

「い、一条君って、最近噂の秘密のアプリってどう思う? あの過去を変えられるってやつ。もし本当にあったら、どんな過去を変えたい?」

 じゃっかん食い気味になってすみれはまくし立てる。その問いに対して、一呼吸考え、答える。

「どうだろうね。過去を変えるって言っても、何をどう変えればいいのかわからないよ。僕にとっては、全部当たり前のことだったから」

 するとすみれは、少しだけ悲しそうに目を伏せた。

「……そうだったよね、ごめん」

 すみれは、僕がこれまでおかしなやつ、だったり、変人と呼ばれてきたことを知っていたのだ。

「そう言うすみれは、どんな過去を変えたいの?」

 尋ねてみると、彼女は顔をしかめて唸った。

「うーん、私は普通だから……」

 彼女は、少しだけ、自虐的に笑った。それはすみれがたまに見せる表情である。

「でも本当に過去を変えられるなら、もっと優しくて……強い人に、なりたいな」

「そっか、すみれらしいね」

 あいづちを打つと、僕は再びプールへと目を向けた。

 たくさんの生徒たちが泳ぎ、水の中を巡っていく。いくつかのレーンで、順繰りに人が泳いでいくのは、工場の流れ作業を見ているみたいだった。

 そして自分自身が、その輪の中からつまみだされた不良品のように思える。それは水着を忘れたからというよりも、これまでの人生でずっと感じてきたものであり、他者からのがいかんじみたものだ。きっとあの中で泳いでいても、僕は僕自身をそう思うだろう。

 僕も、どうやってなればいいかはわからないけれど、なりたいものを、口にする。

「本当に過去が変えられるなら……

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