一章 一条仁(2)
「じゃあ今日はタイム取るぞー」
昼休み明け、複数クラス合同での体育の授業。青いタイルが敷かれたプールサイドに制服のまま座り込み、吾妻がセクハラハゲと
「女子はクロール、男子は平泳ぎだ。既定のタイムに届かなかった者は来週補講を行う」
中年らしくでっぷりと太った腹を揺すりながら睦月先生は告げた。生徒たちからため息が
「それから今日見学の一条、
睦月先生が言い終えると、集合していた生徒たちはぶつくさと文句を垂れながら各コースへと歩き始めた。僕はその流れとは反対方向へと進み、プールサイドの一角に設けられてある見学者用の
「い、一条君も見学なの?」
日除けの下へと辿り着くと、そこには同じクラスで中学からの付き合いである、雪月すみれが立っていた。小柄な体を包んでいるのは水着ではなく、僕と同じ夏服で、伸ばした黒髪が起伏の乏しい胸元まで届いている。
「うん、水着忘れたんだ。すみれも?」
僕が返すと、すみれはあははと花も恥じらうように口元を隠して笑った。いかにも平凡な、彼女らしい仕草である。
「
「そう、お互いツイてないね。タイム測定の日に水着を忘れるなんて」
「だね。まあ、私は泳ぐの遅いから、結局補講には出なきゃいけなかっただろうけど」
二人して日除けの下に座り込み、つんとした塩素の
「あ、春乃ちゃんだ」
プールを
「春乃ちゃんすごい!」
プールサイドに上がり、白い水泳帽の下の茶髪から水を
すると、こちらに気付いた彼女は、威勢のいい目つきで笑いながら近付いて来た。
「でっしょー? 私ってば運動神経超良いから。そういうお二人さんは授業サボってなにいちゃいちゃしてんのー?」
「べ、別にいちゃいちゃなんかしてないよ! ただ偶然、お互い水着を忘れただけで」
赤くなって否定するすみれに「本当?」と意地悪く笑いながら近付き、春乃はすみれの耳元で何事か
「何言ったの?」
「さあ? 女の子同士のヒ・ミ・ツ。いやーやっぱ青春っていいわ。せっかくの二人きりを
ばいばいと僕たちに手を振りながら春乃は振り返った。その時、彼女の
それこそが彼女がタバコ女と呼ばれる理由だ。春乃は幼いころに父親から
実際、彼女が歩くたびに数人の生徒が、その傷痕へと視線を送ってしまっていた。見ないようにしようとしても、目に入ってしまうものなのだろう。中には
だが春乃は、そんな視線など気にしていないように、「そういえば」と振り返った。
「さっきはありがとね、仁。教えてくれて」
「こっちも、ありがとう。急いでたのにすぐ来てくれて」
春乃はへらりと明るく笑い、今度こそ草太の所に向かって行った。
そんな春乃を見送りながら、僕は隣に座るすみれに言った。
「すごいね、春乃は」
ただ返事が返ってこず、どうしたのかと彼女の顔を見てみると、すみれの顔は真っ赤に
「ふ、二人きり……何か話さないと……」
先ほど春乃に吹き込まれた何かが、彼女の頭の中を
「……大丈夫? すごく顔赤いけど、体調悪い?」
見かねて顔を
「だ、大丈夫、大丈夫だけど、ちょっと考えさせて!」
「……何を?」
胸元まである長い髪を両手でいじりながら顔を隠すすみれに、僕は眉を顰めた。彼女は中学時代から、こんな風に突拍子もなく会話が困難になる時がある。普段はいかにも平凡という感じで、話しやすく、良い友人であるために、余計に心配になるのだ。
そうして、未だ何事か呟いているすみれの顔にようやくあっとひらめきのようなものが
「い、一条君って、最近噂の秘密のアプリってどう思う? あの過去を変えられるってやつ。もし本当にあったら、どんな過去を変えたい?」
「どうだろうね。過去を変えるって言っても、何をどう変えればいいのかわからないよ。僕にとっては、全部当たり前のことだったから」
するとすみれは、少しだけ悲しそうに目を伏せた。
「……そうだったよね、ごめん」
すみれは、僕がこれまでおかしなやつ、だったり、変人と呼ばれてきたことを知っていたのだ。
「そう言うすみれは、どんな過去を変えたいの?」
尋ねてみると、彼女は顔をしかめて唸った。
「うーん、私は普通だから……」
彼女は、少しだけ、自虐的に笑った。それはすみれがたまに見せる表情である。
「でも本当に過去を変えられるなら、もっと優しくて……強い人に、なりたいな」
「そっか、すみれらしいね」
そして自分自身が、その輪の中から
僕も、どうやってなればいいかはわからないけれど、なりたいものを、口にする。
「本当に過去が変えられるなら……普通な人に、なりたいよ」
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